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墨田沿岸に碑文を訪れて江戸を偲ぶ  十一、十返舎一九の碑  長峰光壽 氏著

2024年08月06日 09時31分30秒 | 文学さんぽ

墨田沿岸に碑文を訪れて江戸を偲ぶ

 十一、十返舎一九の碑

 長峰光壽 氏著

 一部加筆 山梨県歴史文学館 山口素堂資料室

 

 

芭蕉雪見冡を以って世に知られて居る長命寺境内に十返舎一九の碑のある事は既に世に知られて居る。大正十二年の大震火災で避難民の置き捨てた荷物の火に煽られて非常に破損したので現在ではコンクリートで周回が包まれれて哀れを止めて居る。その時は高さ約四尺で下方に相変わらず熊手に○貞が書かれて其の上に次の様な文句が載せられてある。

   なへての人のいかに異なりとおむふことも

   常となりてはめつらし可良禰と

   い津とて母あかぬものは

   月の夜東米の飯さては

   色と酒なる遍し

  今年知合太平記六樹狂歌會一同

 

と書いて示した處両人も直ちに次の様な狂歌を詠んで示した。

 是までのだんまりの幕引返し

     気も帽屑のもとの棒組 具顔

 睦とひざよい中村のした桟敷

     二間続きの隔だになし 飯盛

 

 両将は浙く赤良の尽力によって和睦したけれども、赤良の歿後再び真顔は俳諧歌の鼓吹につとめ飯盛は落首体の狂歌を詠んで彼に反抗し、いがみあったが文政十一年五月眞顔に勧誘されて二篠家から両者が俳諧家宗匠の號を受けたので世間の識者に飯盛は真顔に降伏したのであると大いに嘲笑された。

 雅望は天保元年閏三月二十四日、享年七十八歳で歿し彼の愛弟子の葬られて居る正覺寺の子院哲相院に葬られ法號を、六樹園臺五老居士といった。

 

10、黒人塚

 

 白鬚神社境内の井戸の後側で用水を背にして高さ三尺・幅二尺・奥行九寸五分の安山岩の碑石が袴石をはいて立って居って、碑面には「黒人塚」と大書してある。左右並びに裏面にも色々の文句が彫り付けられている。向って右側の面には次の文句がある。

   天也生此人天也亡此人

   此人何人去崑崙倚一人

 向って左側の面には、

うつせみのうつつにしはしすみた川

     渡りそめつるゆめのうきはし

裏面には

   姓北島名玄二號黒人其先出

   於源氏也寛政十二年庚申春

  内損か腎虚と和れはねかふな利     

 そは百年も牛延しうへ 十返舎一九

  (碑陰)

維持天保三歳

壬辰首夏上浣

應需 憲齎(印)

五返舎半九

東寧舎一河

早春亭一毒

金鈴者一寶

丹仙舎一酒

柳詩葊季雁

三亭 春馬

十返舎一九

真砂亭珠交

稲廼屋穂女

福輪亭白銅

 

この碑は一九が死んだ翌年一周忌を機として、二世十返舎一九即ち十字亭三九始め門人どもが当時の名筆憲斎に代筆を乞い建てたのであるが、この詞書の一句は実宜によく彼の一生を言い盡したものである。     

  「月の夜と米の飯さては色と酒なるべし」を簡単に追想して見よう。

 一九は通り油町に住居して重田真一と名のって居って膝栗毛の作者として世に名高い人であるが、始めは可成家が富んで居ったが、若い吽分から廓通いを始め三百六十五日の大半は廓の中で暮し著述の原稿を作るのも郭で書いたという位であるから、廓中で彼の遊ばない樓もなく、得意でない娼もないといふわけであったので、一九の如き売れっ子が馴染の敵娼であると自然に他の客人を招く妨となるというわけで、遂には蔦の唐丸が添判をして今後は一際大門を入らないという証文を廓へ差出す事の止むを得ざる事となったという話である。

 この様な彼の日常生活であったから、遂に家産を傾け着るものもなく、米も無いといふ有様となったけれども酒だけは決して絶したる事なく、収入あらば直ちに全部を酒に替えてしまい、壁を白い紙で張り箪笥、床の間、違棚、花生けまでも書いて置いたから、遠くから見れば裕福の暮しをして居る様に見へ、甚しきに至っては盆近くなった時に閼伽棚を作るにも物がないので掬、前と同じ様にこれを書いて壁に張り旦に麺を書いて張り、夕には団子を供へるのだとして、また団子の畫を書いて張り替へた。

また歳の暮になれば大きな墨に三尺余りの鏡餅を書いて壁に張って置き、大晦日になれば掛乞がうるさいといって外に飛び出して友人の家を飲み歩いて居ったといふ事である。

私が前に「常となりてはめづらしからねといつとてもあかぬものは月の夜と米の飯さては色と酒なるべし」の詞書を評して一九の自叙傳であるといったのも無理ではないであらう。

 

十二、櫻樹奉献碑

 

長命寺の西隣りは本所總鎮守牛島神社一千餘年来の舊地であって弘福寺との境橋の橋下の碍の額の様な地面に移されて しまったといふ事は向島に住む我々は勿には祭紳の古墳であると言い傳惇へられて居るものすらあるのであるが、大正十二年九月二日の大震災の結果隅田川沿岸の史蹟名勝地保存の意味に於いて設立された隅田公園工事に際し公園計重に支障ありとの復興局の土百姓役人の為に一千餘年の光輝ある歴史有る当社を遂に隅田公園の一部である舊水戸邸の一隅言問橋の橋下の猫の額の様な場所に移されてしまったと云う事は向島に住む我々は勿論都市美を尊ぶ市民一同挙げて嘆いたものである。           この牛島神社、一名牛の御前の舊地には、談洲楼焉馬の

   いそがずばぬれましものを夕立の

     跡よりはるゝ堪思のにし

 の碑を始め六樹園飯盛、式亭三馬、徳亭三考、朝寝坊夢羅久、談洲楼焉馬等が文化八年三月牛の御前に櫻を五株奉納した面白い記念碑等があったのであるが、現在牛の御前が移転されてからは本社築中のために立てる所がないので焉馬の狂歌碑は雑碑の下積みとなり、櫻樹奉献碑は仮社前石牛に心なく立て掛けられてある。櫻樹奉献の碑は安政の地震の際に上部に横書きされてあった「奉献櫻樹五株」の五字が既に破損紛失したが三馬の式亭雑記を見るとこの碑並びに焉馬狂歌碑の沿革及び其の見取圖が載せられてあるからそれを参考に引用して見よう。

 文化八年閏二月二十七日から本所牛の御前木地大日如来の開帳があって奉納物も多数あり参拝者が群集した。よって談洲楼焉馬老人が催主となって櫻樹五株を門前右側に奉納して植えたがそれを記念する為に碑を建てる事になり、碑面に三馬が筆を執った。即ち「奉献櫻樹五株」は横書きとして金字とし其の下に一列に六樹園飯盛式亭三馬、三馬門人徳亭、三考朝寝坊夢羅久、談洲楼焉馬と楷書で書いて朱字とし裏には「文化八年辛未三月造之」と刻みっけ一人分入費が金三分二朱懸かったといふ事である。

 これより前に牛の御前は焉馬の菩提所であるという関係から焉馬老人は狂歌の碑を、門を入って右側大樹の下に建てたが今回の記念碑も其の関係から其の狂歌碑の左側に建てる事になったのであると書いてある。             

 焉馬は本所相生町の大工の棟梁であって店では足袋屋をして居た。姓は中村、名は英祝通称泉屋和助と云った。狂名「のみてうなごんすみかね」立川談洲楼と云い、烏亭と呼ぶ。別号 桃栗山人柿発齎といった。五代目市川團十郎を贔屓にして義兄弟の契を結んでから談洲楼と號した。彼は既に世に捨てられた落語の中興を志し天明四年 四月二十五日柳橋の河内屋星で寶合という好事家の會合があった時其の席上で始めて二三の落語を講じたところ來會者一同は其の趣好を賞讃したので天明六年四月十一日向島の武蔵屋

三郎方に落語の會か開いた。其の時のちらし蜀山人の作で「むかふ島の武蔵屋に噺の會が権三ります」

といふ文であったが、これが大評判となった。それから度々噺の會を各所に開いたが、寛政度の改革によって寛政九年十月北町奉行小田切土佐守から噺の分禁止の限命が下って一時は頓挫しれけれども、よりより秘密に会合して打ち興じて居た。處が文政元年二月に至り、制限付きで禁令が解除されたから文政三年正月二十八日、彼が一世一代の落語會を龜戸の藤屋で開いた時には来會者が雑踏して始末がつかなかったという事である。

文政五年六月二日、歳八十で歿した、平生彼は請方面に交際を廣くして居ったので、弔客は門前に市を成して其の盛大なる葬儀は満都の人目を驚かし牛の御前の別當寺であった本所表町牛寶山最勝寺に葬られ、法號は「三楽院壽指焉馬」といった。式亭三馬は菊地泰輔といったが通称は太助といった。彼の父は八丈島の為朝大明神の祠官菊地壹岐守であるといい、壹岐守の妾の子が父であるとも言はれて居る。

。安永四年浅草田原町に生れて、文政五年閏正月六日、四十八歳で歿し深川霊光院に葬られた。

 彼の號は本町庵、遊戯堂、洒落斎、哆曜哩樓、四季山人、遊戯道人、戯作者滑稽堂等の数號があって本町二丁目に住み、し家製の薬を鬻(ひさ)いで居った。

 兎に角書畫会の席で畫の讃を求められた時に直ちにざれ歌を按出して書き與える事の出来る常時の狂歌師としては三馬と彼の親友の焉馬との両人に並ぶものはなかったいう事である。

 

一三、朱巣楽菅江辞世塚

 

三圍神社本殿西側に車應の碑と並んで立って居る自然石の碑がある。これは今述べようとする朱楽菅江の辞世塚である。表面は

               朱楽菅江

    執着の心や娑婆にのこる羅む

       よし野の櫻さらし那の月

とある。

 彼は市ケ谷廿騎町に住んで居た御先手與力である。もと内山先生に学んで本歌を詠んだ人で始めの名を景基といったが、字を菅江の上に加える様になったのは自宅で醪(もろみ)酒を飲んだ時、戯れに行燈の紙に「われのみひとりあけら菅江」と書いたのに出発して居る。

 菅江は和歌・狂歌・俳句のみならず、川柳點の前句附を好んで試みたので、牛込蓬莱連の頭梁となったし、また橘洲赤良と同様に内山赤良と同様に内山賀邨の門弟であったので両人の勧誘によって安永初年から狂歌を詠み始め忽ち一方の旗頭となり「の一連」といふ団体を組織した。

 碑文の裏面には

「先生 姓山崎貫字道甫朱楽菅江其號也 生于元文戌午十月二十四日終

干寛政戌午(十年)十二月十二日葬于青山青原寺」

とあって法號は「運淫光院泰安道父居士」。

死に臨んで辞世を自書して遺したが、それがこの時に彫られたのである。

 彼の妻女は小宮山氏の娘で狂名を「節松嫁ゝ(かゝ)と云い、狂歌三才女の随一と世に称されて、夫の菅江にも劣らぬ程の秀逸を多く遺した。十六の年、菅江に嫁いで

 君ならで誰にか見せん?????

?のむくむくと生えしところを

と詠んだという逸話がある。

 

一四、裏住辞世塚

 

 神社社務所玄関に向って右側に立てられてあり、碑面には次の文句が彫り付けられている。

辞世   萩の屋裏住

楠のつよきも老のたのまれ壽 

  くちての後は石となるもの 

非農非商隠市求志賤驕王侯受忘

 天地夕寓婬坊朝飲酒肆放言涯影 

 舞木弄戯滑稽之雄千古無二

            杏花園題

 彼の傳記は碑陰に蜀山人が書いてあるから、傳記の中で一番正確なものと認め、次に掲げて置く。

 萩の屋翁は久須美氏にして白子屋孫左衛門と称す。其先久須美親衛祐永勢州にゆきて国司北畠家に奉仕し、南伊十餘世の孫長隆の時北畠家減びしかば長隆白子村に隠る、

その子重長孫左衛門といふ者白子屋貞三の家を継ぎ、駿府にいたり賈人(あきないにん)となりはじめて江戸に来り、萬治二年七月二十五日に終る、是翁の先組なり、翁はやくより狂歌をこのみ卜柳の門に入り大奈権厚起と将す、後、窓雪沈大屋裏住、と改め四方の門下となる寛政九年十月剃髪して上京し京極黄門御遠忌の狂歌を詠む、ある縉紳家この歌を将美したまい、萩廼屋の號を賜う、また偃師舞木の戯を弄ぶ、世に所謂のろま人形なり、享保十九年甲寅に生れて文化七年庚午五月十一日に死す、歳七十七なり江戸深川法禅寺に葬る余翁を知る事三十餘年ことし其門人の乞うにまかせて其行状を記す事しかり。

              杏花園

 

 裏住は俳諧を好んで號を勢賀と呼んだ。又ト柳について始めた狂歌は一寸問題があって廃詠する事二十餘年に及んだが、明和の頃から江戸風の狂歌が勃興したので元の木阿弥と共に其の群に入り、後に四方赤良に隨って「大屋裏住」と改めた。この改胱をした事に肘いでは次の様な意味合があった。即ち彼は野呂松人を使ふ名人で鷺某の門弟となって狂言師ともなった。その頃同門の中井嘉右衛門という人に狂歌を詠むことを奨めて戯名を「腹唐秋人」と付けたが、この人の斡旋により、本町一二丁目の横通り金吹町の裏

屋に転居して大家になったので「大屋裏住」の號を付けるに至ったのである。一日その裏屋の棚板に頭をひどく打ちつけて

我宿はたとへのふじの火打箱

    かまちでうちて目から火が出る

 という狂歌を詠んだ。

 

十五 鳥兼の碑

 

 本社西横に菅江の碑に並んで鳥兼の碑が立てられてある。

    萩廼家鳥兼

  いまは唯

    宇き世に

      あきの山すまひ

   先さし阿堂累

       月そ友なる

  (碑陰) 文政十丁亥歳九月 社中建之

            畫齊松平盛義書

 この人は本町の裏住の近所に住んで居て、裏住の弟子となり遂には本町側判者として多くの門弟を擁して居た。裏住の死後萩の屋を継いで二世萩の屋となった。

 

十六、百多樓槍團子辞世塚

 

本社東横側に立てられてあって碑の上部に桃の畫があり其の下に次の様な辞世が彫り付けられでいる。

    けふは身の千秋楽よ

     先の世の席へ

      行には延さへ

          なし 百多樓團子

(碑陰)交政丁亥九月廿二日

 

百多樓團子は通称茂吉郎と云い、神田に住居して落語家で、狂歌をよくした。別號は「子遊庵」と云い文政十年九月二十二日年六十二で歿。即ちこの辞世は終焉に先だって絶筆されたものである。

 

十七、天明老人月塚

 

 本社東白狐祠の前にみる詩であって碑面は松平董斎が代書して居る。

 

      天明老人

        晝語樓内匠

むさし野の月は

     昔に加はら家の

       可良艸を出亭

         唐草に入る

             畫齊正書

(裏面) 

  語史安有恆 勇々館道章 花垣眞吹

  語吉窓喜樽 椙之門笹好 五葉亭實烏

  稲之舎實則 木芽舎好香 文語樓梅實

稲垣秋吉  語一堂由隆 松梅亭槇住

  七寶亭特利 一笑亭喜楽 呉龍軒那蔵

  有信亭友成 文省堂尚丸 辰気樓千往

松春亭門芳 唐崎亭松風 靜海樓豊風

青柳園綾糸 狂畫堂椿月

   催 幹

  出久之坊画庵 神楽堂外道 夜職庵歌多丸

寶鮮亭魚海 語同堂春道

元治元年申子秋八月  董仙宗害

 

黄表紙は宝暦末年から起って文化初年に終って居るが、江戸風狂歌も殆んど黄表紙と同一経路を辿った。しかし黄表紙よりは少しは生命が長く文化から文政にかけて著名の狂歌師が前後して死亡してから暫く狂歌の風調が変化し初めて新に文政調といふ狂歌が行われ、一時隆盛であった江戸風狂歌は遂に凋落したのである。彼は一名下手内匠と云い、初め近亭三盡樓と號して、本田甚五郎と通称した、天明老人の狂歌道場で行った狂歌は天明寛政の頃の江戸風狂歌とは似ても似つかぬものであったとはいえ、この天明老人は江戸風狂歌師の最後の一人であったといふ事は狂歌を研究する者にとって赤良橘洲眞顔などと同様に取扱はなくてはならぬものであろうと思う。

 彼は文久元年五月十四日八十一歳を以て歿し浅草新堀酉福猫寺に葬られた。

 未だ向島には有名は狂歌師の世に隠れたる碑が多く残されて居るが、この原稿を纒めるために数日間食事する時間も惜しみ寝る時間も倹約して苦しんだので、非常に疲労を覚えた上に葉人編輯長より電話で急がれたから今回はこれで止めて残りは次回に譲り度いと思う。 (未完)


墨田沿岸に碑文を訪れて江戸を偲ぶ   長峰光壽 氏著

2024年08月04日 11時50分22秒 | 古書・古画さんぽ

墨田沿岸に碑文を訪れて江戸を偲ぶ

長峰光壽 氏著

 一部加筆 山梨県歴史文学館 山口素堂資料室

  

私達の東京! 馬駕籠から圓太郎馬車に、鉄道馬車から電車に、猪牙船から一銭蒸汽船に、モーター付きの屋根船からモーターボートにと云う様に、乗物の上に於いても可成の変遷があった。町並を見て

もアメリカの都市計画に倣って數次の市匹改正が行われた為に、交通機関の登達に順じてまた可成の変遷があった。ところがこの東京も大正十二年九月一日の未曾有の大震災と云ふ天罰の為に、江戸の面影

を多く残して居った下町一圓を大半烏有に帰せしめてしまった。それから十余年の尊き生贅を捧けた此の東京の下町復興の為に、復興院から復興局と云う沿革を持った役所が出来、各夫々の第一流の専問家が役人として任命され、数億の予算で事業が着々進行される事となった。この大事業も昭和四年度で完成されると云う事であるが、まことに此の様な大事業を僅か七年の短日月で成し遂げた御役人たちの努力に對しては私達東京市民は心から感謝の意を表さなければならぬ。而し各一流の大家を以て自認する御役人達は、四百余年の光輝ある歴史を持って居る我東京市の沿革、由緒並に江戸から東京へと云う四百節年の市民佳と云うものに対しては全々素人であって、此の様な事には趣味の無い方々であった。

言ひ換えれば一昔前のアメリカの都市計画の書物には此の様な事に就いては少しも書いて無いから、アメリカ文明を無上の文化と思って勉強されたこれ等御役人達の頭には我が光輝ある日本存続の為の復興と云う様な観念の無いのは当たり前の事である。殊に多くの技術者と云うものは由緒の有る無しに拘らず彼等が手掛ける舊文化は根本から破壊しない迄も、より多く其の中に新文化を取り入れる事を以て能事とし得意とする啓蒙的傾向が多い様に思われる。今回の東京復興事業の上に於いても、私が技術者の有する悪弊であると主張する夫等の傾向が甚だしく現われて居る様である。 

 

 在来の江戸研究者は只単に江戸が好きであるという自分の趣味のみによって研究を進められた方が多い様に思われるが私が今回江戸の舊文化に就いて書こうとするのは、別に自分は汀戸研究者と云うのでも何でもないのであるけれども、次に述べる様な自分の主義の上から少し江戸の文化に接して見たくなった迄の事であるから、或は誤謬が多いかも知れないし、足らざる所が少なくないであろうと思うが、其の点は始めから読者諸賢の御寛容を願って置く次第である。

 然らば何の為に私が此の問題に手を出したかと云うに、近頃やかましいところの某国に本部を有する第三インターナショナルの主義綱領が、我国体と全々合致せざるところから、彼等は我国体を変革する為に全力を尽くして居るのである。而し我国体が他に其の比を見ざる上、国民の忠君愛国の精心が強固である為に、他国は数叡年にて彼等の目的を達する事を得たけれども、我国に対しては其の十倍の努力並に技術を要するものと定め、徐々に我国固有文化を破壊する事に勉めて国民性の変革を来さしめ、其の暁に於いて彼等最後の目的を達せんとして居ると云う事を、私はある事情によって知って居るのである。其の点から行けば現在我国に於ける彼等同志と称する者の行動は前座に過ぎざるものと云えると思う。こういう事を察知して居る私にとっては、我國固有文化が破壊されると云う事を一番恐れるのであって、即ち私が今回の復興事業に対して不満を抱くのは斯くの如き理由なのである。それ故私は心細くなる事の余り専門でない事に手を出したのであるから材料も易く得られる自分の起臥して居る近所に取た訳である。

 

 甲信堺に源を発し、秩父山塊の間を縫って武蔵平野に出で、我東京市の東部を洗って品川湾に流れ込んで居る隅田川は徳川家康が関東に入国した時迄は其の源を上野国藤原おこす利根川と、南葛飾先で合流し品川湾に注いだものである。その合流点は即ち上古よりの奥州街道の要衝にあたって居った所でもあるから、千余年の昔より奥州への旅人が残したロマンスがすくないのである。その中でも現在に至る乞一番人口に膾炙して居るロマンスは何と云っても在原業平の東下りの故事であろう。

 業平が隅田川に得た感じは一言で云えば、武蔵野の秋は淋しいと云う事と、「都恋し」と云うホームシック的の気分であったと思われる。而して此の事件が余り有名になった為に、其の後ここを過る人々

の感じは勿論、都に住んで居る人々で隅田川の題詠をする吟などは必ず先入先となって居る淋しい、都恋しといふ概念が何時までも附き纒っていたのである。

 

例へば元弘二年(1332)の乱の際、北條高時に捕へられた藤原師賢卿が下総の國に流謫される事となって此の隅田川の辺りに着いた時に、

   こと問いていさゝはこゝに隅田川鳥の名聞くも都なりけり

と詠じた様に、師賢卿は自分の流人と云ふ儚い身を都鳥に擬し、また「李花集」題詠名所川の歌の中には、

   こゝにのみすみだ川原の渡守みやこにあり都にありし人はあらしな

と云う様な句が見える様なものである。

 

世も下って千石時代になると、太田道濯が此の隅田川の辺りの平河の丘にわが庵は松原つゞき海ちかく富士の高嶺を軒端にぞ見る江戸城を築いてからは、彼は此の隅田川の水郷の景色をか愛し、彼の詩藻を慕って訪れる高鮒文墨の士があれば直ちに辰ノ口から飾り立った般に客を招き乗せ隅田川に浮べて四時の景趣を渠しんで居た。其の頃に出来た梅花無盡蔵の中に                   

   江上春望 

十里行浪自花 遊不覚在天涯 隅田鴎叉應都鳥、鼓吹晩來聲入霞   

と云ふ一詩があるが是即ち右に述べた道灌の故事を証明するものと云ふべきであろう。

 天王十八年、徳川氏が関東に入国するや代々の勝軍を始め諧大名は勿論町人に至る迄隅田川原に四時の清遊を催した事實は其の史料を挙げる暇がない。殊に徳川氏の泰平が続くに従って、江戸の繁昌は日に月に栄え江戸市民の隅田川に遊ぶものも亦多くなったが、元禄六年、榎本其角の三圍社頭に於ける雨乞の事は益々隅田川の聲價を天下に高からしめ、寛政より文化、文政に至る江戸爛熟時代に至っては益々訪れるものが繁くなった。

 東京に於ける江戸の遺芳は大正十二年の大震災の焉めに煙滅したものが可成多くあるけれども、それでも右に述べた様に一千余年の歴史を有する隅田川沿岸には江戸爛熟時代の面影か偲ぶに足る遺跡遺物が可成り残されて居るから、私はそれ等の数多いの遺芳の中で碑石を中心として江戸を偲びまた正に滅びんとする江戸の文化を弔って見度いと思う。

 

一、夕立家

 

待乳山に対して隅田川東岸堤側に鎮座する三圍神社境内西南隅に、

  この御神に雨乞する人にかはりて

  遊ふた地や田を見めくりの神ならは  晋其角

と表面に刻んである自然石形の碑が建てられてあり、其の裏面には、

 

   安永丁酉六蔵庵寶井

   所創立而歴年磨滅矣今茲

    明治発酉春再建

     永機晋無諍謹書

   貸主 横濱三越店中

        磯清五郎

        高橋啓助

    三園社

       永峯光耀

とある。

 徳川治下の泰平が続くに従って江戸の繁昌は日に月に其の度を増すとともに、隅田川に遊ぶものも叉多くなった事は前に述べた通りであるが、明暦の大火以後遊里吉原が親父橋の側から山谷堀の上流田圃の中に移轄されてからは、益々遊里通いの猪牙船を仮に三圍の雁木に繋ぎ向島に遊ぶ市民が多くなって来た。

 元禄六年は春以来非常な旱魃であって早苗を植えつけた水田には、一滴の水もなく、亀の背・網の目の様に亀裂を生じて農民が命の綱である稲もまさに枯れ死せんとする有様であった。為に農民共は各所に集って連日連夜の雨乞を実施したが、向島の農民も小梅村三圍稲荷(みめぐりいなりじんじゃ)社頭に集い、鐘・大鼓を叩いて祈願をこらす事数日、然れどもその効験は少しも顕れないために一同悲歎に暮れ今日を最後と一心に御前に額いた。時に六月二十八日であった。

 如何なる神の引合せであったろうか、會々蕉門の俳人宝晋斎其角は其の日彼の門人で白雲と號する蔵前札差の利倉三郎左衛門と共に北廊谷堀を遡ろうとして三圓の雁木に舟をもやひ稲荷に参詣すべく境内に足を運んだ。然るに社頭は前に述べた様な有様であったので同行の白雲が諧謔して里人共に言うには此の人は日本俳諧の達人である。昔小町能因等の雨乞した試しもあるから此の人を頼んで雨乞したならば必ずや観応があるであろうと述べた為に農民どもは其角をとりまいて「是非雨乞してよ」と哀願するによって、其角も止む事を得ず、手を洗い口を漱ぎ神前に向って祈願する事暫し、「ユタカ」の字を折句にして其の場に有り合せた奉書に

 

   この御神に雨乞すゐ人にかはりて

     遊ふた地や田か見めぐりの神ならば

               晋 其 角

 

と染めて神前に奉り、直ちに引返して山谷堀を登り紅燈の巷に其の夜を明かした。即ち其角の俳書「五元集」に彼は

 

  牛島三遶り紳前にて雨乞するものにかわりて

    夕立や田を見めぐりの神ならば

     翌日雨降る

 

と記して居る通り、翌日観応があった為に其の年は思わざる豊年となり農民共の喜びは並大抵ではなかった。これは其角が、

   天の川苗代をせきくたせ、天降ります神ならば神

と、能因法師が三島明神に祈願した故事を思い浮かべての即吟であるが、古来この其角の雨乞いの句並びに事実に対して随分むずかし議論をしたり、句の結び法の善悪を説く者もあるけれども真実に晋其角と云う人物を味わうときに於いて果たしてそれ等の議論は当を得ているとは云われるであろうか。

また白雲と云う人に付いては撮巌島廻船問屋の主人だとか紀ノ國屋文左衛門であるとか種々解いたものがあるがどれ誤である。彼は白雲の戯れによって其角が止む事を得ず雨乞の句を詠んだと云う事に對して余り小説的であると云う様な説も唱える人がいるが其の説を唱へる人は白雲と云う人、また蔵前の札差しと云う階級の事情を知らない人の云う事である。それ故に次に白雲の人と成りについて、一例をあげて世の誤謬を解いて置き度いと思う。

 寛政の始めまで三圍稲荷の辺りに庵を結んで居た秋田藩の御留守居役に佐藤晩得と云う人が著した雨華抱一以下の短冊帖がある。此の人が著した「古事記布倶路」と云う随筆の中に白雲の逸事が記るされてあって白雲の面目が躍如して居る様に思われる。即ち彼白雲は余程奇人であって彼の句も種々人口に膾炙して居るものが多い。生れは上方であるが想わざる縁故で蔵前利倉屋の養子婿に選ばれ出府する事となった。ところが利倉屋は何しろ御蔵前の札差の家であるから総て成す事が華美であって、彼白雲が中仙道を江戸に入る日に利倉屋の一家一門は早朝から千往口まで麻柿で迎えに出ていった處、白雲は何時の間にか股引草靫掛けで風呂敷を背負い利倉屋の台所へ来て腰を掛けた。これを見た仲人は婿殿の振舞醉興も甚だしいと驚き呆れながら、早く足を洗い給へと云ったので下女下男が立騒ぐのを白雲が眺めて云うのに、いや騒ぐ事はない、今日から此の家は自分の家であるから女房共を呼んで下さいと命令を下した。よって装い飾った花嫁は恥しがりながら立ち出でた時、彼は花嫁に向って足を洗ってくれと云った。これには家内の者共を始め手伝いに来て居るもの共は花嫁を誠に気の毒に思ったけれども致し方なく白雲の命ずるままに任せた。それから白雲は風呂敷を解いて衣裳、裃(かみしも)を着した上で改めて皆に向って言うのに入婿と云う者は女房の尻に敷かれるのが普通であるけれども自分は女房に敷かれる事は絶対にしないと大きな聲で罵って座に着いたと云う事である。

 即ち晩得が古事記布倶路に記した右の記事を精読玩味する時には彼白雲が三圍稲荷社頭に於いて農民共に其角を諧謔的に褒めそやし記事も決して後人の小説的記述でないと云う事が判ると思う。

 此の三関社頭に於ける其角の雨乞は益々隅田川の聲價を天下に高からしめて、いやしくも江戸に起臥する者で隅田川に遊ぱぬものは無いと云う有様となった。其のために特に俳人等は三圍稲荷を以て俳諧の露場として深く信仰し、安永六年()六蔵庵寶井は晋其角の功績を永久に倍伝えようとして社宝の献句を碑石に彫って境内に建設したのである。しかし此の碑文も星霜を経るとともに磨滅して不判明の点が多くなったから、明治六年()其角堂七世永機と私の父とが相談の上、横浜三越支店有の寄逞を得て彫りはじめたものである。  

晋子献吟から百十年、永逝から九十二年の寛政十一年()、晋其角の徳か慕う里人等が故人の遺徳を奉斎すべく三井氏を始め晋子を慕う俳人の採助の下に三圍稲荷に於いて、二月十五日から五月四日まで日延 とも八十日間の大開帳を催したところが、遂に余り盛んになり過ぎた事によって幕府から中止を命ぜられたほどの盛況を来したが、此の開帳に際しては稲荷の境内に種々の飾り物が出来、其の主体としては「夕立塚」の側に其角庵を設け社宝の雨乞の句をかけて一般奏者の参拝を許すと共に江戸俳談林七世一陽井素外を庵主とした。現在稲荷に社宝として残されてある開帳の際の遺物もかなりあるが、其の中に開帳献句短冊帖が二部あって其の大きい方が村名主の高橋新左衛門氏が発起して、一陽井素外に献句か勧進させて集めた帖であって、其の序文は素外が書いて居るし種々参考になるから次に其の序文を載せておく。

 

神は人の崇るを以て威を増す。人に神の験むるをもって敬ふ。

元禄十一年(六年)戊寅季夏、寶斎賓其角、農人に代り当社に零して夕立や田を見めぐり、

濃吟に感応在し事は今海内兒俗いええども知らざるなし、

今年や御帳をひらき尊容を普く拝せさしむるにつけて暇に其角庵と云うを結び彼吟をもかけられる、

この事は東都より近國に及び由さりて詣つ、

爰に村長高橋氏父子、晋子の吟に寄て俳句を勧めて手艦となし、当社の宝庫に永世とゞめる事を思い、

山口雀笑をして予を右の庵に向かう、おのれ其末流にあらねど、いにしえ時を同じくして師祖西鶴・

才磨の知巳たる上、風流那そ自他を隔むやと諾して一神祇雨いえる題者となり、

将題の外をも作者の志す所にまかせて発句の短冊を輯めて一帖となし納む、

仰ぎ願う五穀にもとより言の葉の道の栄えを守り給へと、

江戸俳談林七世一陽井素外謹上再拝して曰く

   寛政十一年已未仲夏

 

二、宗因白露家

 

 この碑も三圍稲荷境内にあって碑面には西山宗因の名吟「白露」やの句が刻まれてある夫婦石である。 

此の碑か建てたのは其角庵最初の庵主を勤めた一陽井素外であって、文化元年の建設である。

此の碑は四面に刻まれてあって正面から向って左側へかけては次の文が在る。

   白露や無分別なろ置ところ

    浪花天満梅翁 西山宗因

 

白露家、去来抄に先師芭蕉翁常に曰く宗因なくんば我々の俳諧今以貞徳乃涎(よだれ)ねふるべし、

宗因は此道中興開山也といへり「雑談集」に其角云。

露と云う題は案じては南ゐましき也、志良露の発句観念の上にかけとはいろへ難し、また此の翁に仇なる句なしと母書里又虚栗に宗因嵐雪其角が三夕の吟あり、歴代滑稽傳に許文云う露の発句は、古今なきもの也、後代宗因ほどの句云う出すべき作者が有りとも覚えず。

 

鼻祖梅翁、世に聞えし名吟多く依て諸集に出就中此句他門にて

珠に賞誉せし事上農久たりの如し、

爰に予が門人誰かれ今や其言葉を碑して此三国に廣前に建てるに及で、

己等が鄙唫とも左右に双へ仰ぎ願う常流の俳諧永世蓋榮ゆかむ事を。

                     発起 一陽井

光利あれ石瓦にも露の多満      素外   

世に高し音なき露の其聞え      素塵

 

向つて右側は

   武蔵野の花や小草も露の息      補助福井藩 一夏井奇峰

   露は松に琥珀と凝るや句の工み    発句同志連 一禮井治百

   つゆてらてら西山の月に入と亭も   百瓜園秋策

   をきやうそ露ははかなき物なか羅   森住氏母 素好

  爰にをく津遊やこのうへ幾千秋    遯斎 宣月

   されは今にたもつ露あり言葉の花   一老弁 寛之

裏面に

  天和二年壬戌六月廿八日 宗因終至文化九年壬申百三十一稔

   動きあらしこの露此碑千代經と母   當社別當一如

 

 素外が梅翁宗因の句碑か建てるのに如何なる縁故を以て三圍稲荷境内を選定したかといふ謂はれは、彼が其角庵の庵であつたと云う関係からであるが、宗因と彼との関係は夕立冡の處で最後に挙げて置いた彼の寛政九年開帳記念献句短冊帖の序文にもある通り、彼の俳風が宗因の流れを汲んで居たからであり、そ

れ故少し改まったものには必ず江戸俳談林七世一陽井素外と認める習慣があった。即ち江戸俳談林と云う流派は梅翁西山宗因を第一世として居って、第二世は江戸時代に於て好色五人女、好色一代男によって一世を風靡した松壽軒井原西鶴であり、第三世は許六堂才磨、第四世は致曲庵笠安逸志、第五世は笠家古道左簾、第六世は柳前斎小菅蒼孤とし、第七世が谷一陽井素外であって、号を玉池と称し連綿として居ったのである。

 

 この江戸俳談林と云うものは右に乗せた様に、西山宗因が江戸に出て来た折に在来あった松永貞徳の俳諧様を改革して新しく江戸俳諧の風を興したもので、この事が俳諧と云うもの、大いに盛んになる基をなすに至る淵源をなしたものである。このグループを江戸俳談林と称し、素外はこの道の為に可可成り活動をした様である。梅翁句集を見ると『江戸俳談林にて』の題下に、

  さればこゝに談林の木あり梅の花 の句を残して居る。

 芭蕉翁すら

「宗因なくんば吾々が俳諧今以て貞節の誕をねぶるべし宗因はこの道中興開山也」と云って居る程で、即芭蕉翁の俳諧風も煎じ詰めれば宗因の開いた處の江戸俳談林の流れを汲んで居るものであると云ふ事が出来るのであるから、江戸俳談林の七世を綱ぎ賂に堕落せんとしつゝあった俳諧の舊に復そうとして努力を借しまなかった紳田お玉ク池の住人素外が其角庵の最初の庵主として迎えられたと云う事も充分因縁ある筋道であると云へよう。又言ひ換へれば寛政の当時其角の正系を汲んで居った江戸の俳人中には大した人物が居らなかった様にも考へられるけれども事實に於いては、然らず「精霊に後の祭りとなりにけり」の辞世を残して文化三年七月二十七日歿した五世深川湖十の如き江戸座の大家が存在して居ったのであるが、寛政の開帳献句短冊帖の素外の序文にもある通り当時の小梅村名主高橋新左衛門の胒懇者山ロ雀笑が子弟の関係から案外を導いたものである。

 今一つ素外が江戸座と奇縁を有して居ったと云ふ事を記して見よう。素外の蒐めが三圍稲荷開帳献句短冊帖を繙いて見ると最初の短冊に、

  紳 祗 雨

 小田凉しちはやふるもの神と雨 旭陽井

 と云う句があるが此の龜文と云う人は、摂津尼ケ崎藩主松平遠江守忠見侯で、俳諧は素外の門に入り一桜井龜文と號した殿様であって、大いに素外を援助して江戸俳談林は勿論一般俳諧の道に対しても盡した方である。この遠江守の下屋敷は新大橋の下流で、小名木川の北岸に在ってこの屋敷内に有名な芭蕉庵の古蹟があった。其の為に龜文侯は素外をこの芭蕉庵の庵主となして彼に芭蕉翁の位牌を御守りさせた事があった。彼は右に述べた様に流派にかまわず俳諧の道の為めならば如何なる事でもなさぬば気がすまぬと云ふ性質の人であって、宗因の句碑に於ても三関稲荷境内の「白露や」の碑以外に日暮里養福寺境内には「江戸を以てかゝみとすなり花に樽」の梅翁の句碑を建て、第三には深川洲崎辨天境内に三圍稲荷白露や句碑銘中に彼が唱へてなる「三夕句碑」と云うものを建てたのを見ても如何に彼がこの道の為に奮闘努カしたかと云う事が充分に察せられるのである。其の「三夕句碑文」を次に挙げて見よう。

〔前面〕

    秋は此法師すがたの夕かな     梅翁宗因

    舟あふる苫屋の秋の夕かな     雪中庵嵐雪

    和歌の骨槇たつ山のゆふべ哉    寶晋斎其角

〔南面〕

    何処にても悟れさう也秋のくれ   我 蝶

    暑も霧にきゑ行く秋のゆふべ哉   宣 秀

    日も西に見えすく秋や峰のまつ   理 山

    塵の世やしらて古人の秋のくれ   花 慶

    木々に残錦して秋にくれはどり   素 好

    秋やよするさはさは浪の磯の風   英 玞

〔北面〕

秋そよき般の苫屋の夕けふり    嘉 峰

聲なしに雁にゆく見ゆ秋の空    呉 卿

紅葉今や夕くれなゐも秋のもの   僊 里

獵もせず後世もねかはす秋の夕   鹿 笛

秋か只夕まくれとて酒たゝそ    従 一


武江年表 寛政~文化年代 寛政二年(1790)庚戌(かのえいぬ)

2024年08月03日 07時48分25秒 | 歴史さんぽ

武江年表 寛政~文化年代

寛政二年(1790)庚戌(かのえいぬ)

 

〇正月二十一日、本所松代町より出火、砂村百姓屋迄焼くる。

○三月九日、画人劉安生卒す(号寿山、麻布曹渓寺に葬す)。

○三月十一日、下谷稲荷社祭礼、産子(うぶこ)町々より出し練物出る

 (本祭の時は産子の諸侯より長柄鎗の警囚を出さるゝ事旧例也。其の後中絶せり)。

○永代寺にて京都大仏の内弁才天開帳、この問境内見せ物に壬生(みぶ)狂言を出す。

世に行はれて両国に於いても見せ物とし、幇間(ほうかん)の輩も酒宴の興にこれか学ぶ

(箱庭云ふ、此の時壬生狂言は大いに流行り、両国の見世物にも真似て是もはやりしが、

弁天の開帳は流行らず)。

○神奈川浦島寺観世音、江戸にて開帳(其の場所不詳、霊宝に玉手箱を見せたり)。

○八月十四日、狩野栄川院典信歿。(六十一歳)。

○〔筠補〕一八月二十日、大風雨、深川出水、所々家を吹流す。

○八月二十三日、前句付点者川柳歿。

(浅草新堀龍宝寺に葬す。川柳は同寺門前の坊正にして柄井(からい)八右衛門といふ。

俳諧の一体に俗談を旨として狂句を作る。其の集を「柳樽」と号し、数篇を撰ぶ。

今に其の流たえず、今の緑亭川柳五世に及び、「柳樽」の後輯年々に梓行せり。

按ずるに、宝暦の頃「武玉川」といへる俳諧の句集あり、専ら俗情を述ぶる。

川柳もこれより一変せしものとなん)。

○九月六日、儒師山中天水歿。(三十二歳、名恕之、称猶平、浅草行安寺に葬す)。

○十一月二十七日、夜大地震。

○十一月、琉球入来聘、正便宜湾王子、

蒲原の間にて富士を見て詠める、 宜湾王子

 かぎりなき山を幾重かながめきてそれぞとしろき雪の富士の根

箱筠云う、琉球人江戸着の日見物多く怪我人あり。

○十二月二日、三日夜、甘露降る。

〇「瀬田問答」或る(天明よりこのかた、瀬名貞雄、太旧蜀漸山、武江の雑事問答の書なり)。

〇「琉球談」刊行(森島中良著、又「朝鮮談」も刊行せり)。

○磁器焼紺屋始まる。


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2024年08月02日 11時56分25秒 | 文学さんぽ

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八月十五日 月見の賦 芭蕉 萩原井泉水 氏著 昭和七年刊 俳人読本 下巻 春秋社 版

2024年08月01日 17時50分51秒 | 俳諧 山口素堂 松尾芭蕉

八月十五日 月見の賦 芭蕉

萩原井泉水 氏著 昭和七年刊

俳人読本 下巻 春秋社 版

 

 ことし琵琶湖の月見むとて、しばらく木曾寺に旅寐して、膳所松本の/\を催すに、乙州は洒をたづさえて、泉川に三日の名をつたへ、正秀は茶をつゝみて、信楽(しがらき)に一夜の夢をさます。今宵は茶といひ、酒といひ、かたふの人も二派にわかれて、酒堂は灯にかたぶきて、其荼に玉川が歌を詠じ、丈抑は月にうそぶきて、其洒に楽天が詩を吟ず。

支考は若く、木節は老ひぬ、智月は物のおぼつかなふ、かつぎのあまのなま浮びならず、それが中にも惟然法師は、洒にむどろき茶に感じ、ほむるもそしるもそらに風吹て、爰に三子者の志をためざらんや。まして其外の友とする人も、峩々洋々の心ざしをしれれば、すべては飲中八仙のあそびたらん。誠や、つれ/\゛法師だに、心をつくろはぬ友えらびは、かゝる月見の佗たるやと、思ひしまゝの草の庵に浮世の外の風狂をつくせり。

   米くるゝ友をこよひの月の客

 かくて三盃の興に乗じて、湖水の月に船を浮べんと物このむ人の風情をそへたるに、杖に瓢箪の唐子はなけれども,扇に茶瓶の若男あれば、赤壁の蛤のとぼしさにはあらざめり。さゞ波や、打出の濱の名にしあふ、鏡の山もこなたにさしむかひ、日枝は横川の杉につらなりて、比良の高ねは、雁をもかぞへつべし。うしろに音羽の峰たかく、石山の鐘はあはづの嵐にさえて、そこに楓橋の霜も置ぬらん、矢植の帰帆は、今宵をもてなすに似たるべし。

    名月や湖水に浮ぶ七小町

 されば、我朝の紫式部は、石山に源氏のおもかげを寫し、唐国の蘇居士は、酉洞に越女のよそほひをたとふ。いづれも風俗の名にのこりて、今のまぽろしに浮ざらんや。實そも和漢の名蹤なりけらし。さて松本に舟をさしよせて、茶店の欄干に心をはなてば、目はよし蓬莱の水をへだてす、身はただ芙蓉の露にうるほふ。

’竹林の酒も時ならで、松が江の鱸はこよひなるをや。猶はたかたぶく月の名残には、辛崎の松もひとりやたてる、古き都の名もゆかしければ、尾花川の明ぼのをこそと、千那、尚白をおどろかしぬれば、衣ははや五更に過ぬべし。

    三井寺の門たゝかばやけふの月

 誠よ、推敲のむかしながら、船にこよひの遊をおもへば、此座に韓愈が文章をもあざむき.賈島が詩賦をももどきねべき詩人文客にとぼしからねば、たとへ赤壁の前後といふとも、その地に此人をはづべきやと、見ぬもろこしを相手にとりて、今宵の風流をあらそふほどに、月は長等山の木の間に入りぬ。 (和漢文操)

 

わたましの夜  芭 蕉

名月にふもとの雲や田のくもり

名月の花かと見えて棉畠     (続猿蓑)

今宵誰よし野の月も十六里    (笈日記)

 

【註】元禄七年八月命終の二ケ月前、舊佑里なる長兄の宅地に小庵を作りて其披露をした夜の作「笈日記」に[名月の佳章三句」としてあるのを逍補する。

 

堅田十六夜之辨    芭 蕉

 

 望月の残與なをやまず、二三子いさめて舟を堅田の浦にはす。共日申の時ばかりに、何某茂兵行成秀といふ人の家のうしろにゐたる。酢翁狂客月にうかれて来れりと聲々によばふ。

主思ひがけずおどろきよろこびて、簾をまき簾を拂ふ。

園中に、芋あり、さゝげ有、鰹鮒の切目たゞさぬこそいと興なけれと、岸上に菰をのべて宴をもよほす。月は待つほどもなくさし出、湖上花やかに照らす。

かねてきく、仲の秋の望の日.月の浮御堂にさしむかふを鏡山といふとかや。今宵しも猶そのあたり遠からじと、彼堂上の欄干によって、三上、水莖岡は南北に別れ、その間にしてみね引はへ、小山顛(いただき)を奎じゆ。とかくいふ程に、月三竿にして黒雲の中にかくる。いずれか鏡山といふ事をわかず。主のいはく、折く雲のかゝるこそと客をもてなす心いと切なり。やがて、月雲外にはなれ出て、金風銀波千體佛のひかりに映ず。かのかたぶく月のおしきのみかは、と京極黄門の歎息のことばをとり、十六夜の空を世の中にかけて、無常の観のたよりとなすも、此堂にあそびてこそ、ふたゝび恵心の僧都の衣もうるほすなれといへば、あるじまた云、興に乗じて来れる客を、など興さめて帰さむやと、もとの岸上に盃を揚て、月は横川にいたらんとす。

   鎖(じょう)明て月さし入よ浮御堂   はせを

   安/\と出ていざよふ月の雲      同 (小文庫)

 

 【註】八月十六日 前文とつづいて書かれたものであろらう。支考の「本朝文鱈」に載せてあ

るものは、措辞が大分違つてゐるけれども、此方が原文であらうかと推せられる。

猶此時の句に、「十六夜や海老煮る程の宵の闇」芭蕉

「浮御堂」の中に千但佛が祀ってあるので、月光の波に砕くる様を千體佛の光にたとへ

たのである。

前出[堅田十六夜之辨」に「何某茂兵衛成秀」の家で馳走になったことが書いてある。

その政秀の庭上の松を誉めた言葉である。「元禄四年仲秋日」と眞蹟にある。

「奥の細道」には「十六日、空雲たれば、ますほの小貝拾はと、種の濱に舟を走す、

海上七里あり、天え走ん

  

松 芭 蕉

 

 松あり高さ九尺ばかり、下枝さし出るもの一丈餘、枝上段を重、非葉森々とこまやかなり。風琴をあやどり、雨をよび波をおこす。筝に似、笛に似、靸ににて、波天領をとく。當時牡丹を愛する人、奇出を集めて他にほこり、菊を作れる人は小輪を笑て人にあらそふ。柿木柑類はその實をみて枝葉のかたちをいはず、唯松獨り霜後に秀、四時常盤にしてしかもそのけしきをわかつ。楽天曰く、松能舊気を吐、故に千歳を經と、主人目をよろこばしめ心を慰するのみにあらず、長生保養の気を知て、齢をまつに契るならべし。  (堅田集)

 

種の濱   等 裁

 

 気比の海のけしきにめで、色の濱の色に移りて、ますほの小貝とよみ侍しは西上人の形見なりけらし、されば所の小わらまで、その名を傳へて、しほの間をあさり、風碓の人の心をなぐさむ。下官もとし比思ひ渡りしに、此たび武江芭蕉桃青、巡国の序、この濱にまうで侍る。同じ舟にさそはれて小貝を拾ひ袂につつみ、盃にうち人なんどし、彼上人のむかしをもてはやす事になむ。

                                    福井洞哉書

  小萩散れますほの小貝小盃    桃 青

   (越前種の濱、本陸寺所蔵眞蹟)

   元禄二年仲秋

寂しさや須麿にかちたる濱の秋

浪の間や小貝にまじる萩の塵    (奥の細道)

【註】芭蕉と同行した「ひとりは浪客の士」は奥の細道にも同行した曾良、

ひとりは水雲の僧」は宗波といふ者。「僧にもあらず俗にもあらず」は己れの事。

   秦甸一千里とは、都の四方の郊外は一千里にも及ぶ廣袤あるべきもの、朗詠集に、

奉甸之一千餘里、凛々氷舗云々。日本式尊の言葉とは、後項酒折に註す。

  爲仲は奥州の任に下りし時、宮城野の萩を長櫃十二合に入れて上京したといふ。

 

八月十七日

鹿島の月見んと  芭 蕉

 

 洛の真宗、須磨の浦の月見に行て、松かげや、月は三五夜中納言といひけむ、

狂夫のむかしもなつかしきまゝに、此秋鹿島山の月見むと、おもひ立事あり。

伴なふ人二人、ひとりは浪客の士、ひとりは水雲の僧、僧は烏のごとくなる墨の衣に三衣の袋をえりに打かけ、出山の尊像をダ厨子あがめ入りて、背中に背負う。柱杖曳ならして、無門の關もさはるものなく、天地(あまつち)に獨歩して出でぬ。今独りは、僧にもあらず、俗にもあらず、鳥鼠に間に、名をかうふりの.鳥なき島にも渡りぬべくて、門より船に乗りて、行徳といふ所にいたる。

 船をあがれば、馬にも乗らず、細脛(ほそはぎ)の力ためさむと、歩行よりぞ行。甲斐国より、ある人の得させたる、檜木もてつくれる笠を、をの/\いただきそひて、やはたといふ里をすぐれば、かまがいの原といふ、ひろき野あり。秦甸(しんてん)の一千里とかや、目もはるかに見わたさるゝ。筑波山向うに高く、二峯ならびたてり。かの唐士の双釼の峯ありと間へしは、廬山の一隅なり、雪は申さず、先むらさきの筑波かなとは、我門人嵐雪が句なり。すべて此の山は、日本武尊(やまとたける)の言葉をつたへて、連哥する人のはじめにも名づけたり。和哥なくばあるべからず、句なくは過べからす、誠に愛すべき山の姿なりけらし。

 萩は錦を地にしけらんやうにて、為仲が長櫃に折入て、都の土産に持せたるも風流にくからず。きちかう、をみなへし、かるかや、尾花みだれ合て、小男鹿のつま懸ふ聲、いとあはれなり。野の駒、所得がほに群れありく、又あはれ也。日すでに暮れかゝる程に、利根川のほとり、布佐といふ所に着く。此の川にて鮭の網代といふもをたくみて、武江の市にひさぐ者あり、宵のほど、その漁家に入りてや盃にうち入りなんどし、彼上人のむかしをもてはやす事になむ。

     福井洞哉書

   

小荻散れますほの小貝小盃   桃 青

(越前種の濱、本隆寺所蔵真蹟)

寂しさや須磨にかちたる濱の秋

浪の間や小貝にまじる萩の塵   (奥の細道)

 【註】屋何某と云ふもの、破籠小竹(わりこきさえ)筒などこまやかにしたためさせ、

僕あまた舟にとりのせて、追い風時のまに吹着ぬ、濱はわつかなる海士の小家にて、

佗しき法花寺あり、爰に茶を飲、酒をあたためて、夕ぐれのさびしさ感に堪へたり…… 

其日のあらまし、等裁に筆をとらせて寺に残す」