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武江年表 寛政~文化年代 寛政二年(1790)庚戌(かのえいぬ)

2024年08月03日 07時48分25秒 | 歴史さんぽ

武江年表 寛政~文化年代

寛政二年(1790)庚戌(かのえいぬ)

 

〇正月二十一日、本所松代町より出火、砂村百姓屋迄焼くる。

○三月九日、画人劉安生卒す(号寿山、麻布曹渓寺に葬す)。

○三月十一日、下谷稲荷社祭礼、産子(うぶこ)町々より出し練物出る

 (本祭の時は産子の諸侯より長柄鎗の警囚を出さるゝ事旧例也。其の後中絶せり)。

○永代寺にて京都大仏の内弁才天開帳、この問境内見せ物に壬生(みぶ)狂言を出す。

世に行はれて両国に於いても見せ物とし、幇間(ほうかん)の輩も酒宴の興にこれか学ぶ

(箱庭云ふ、此の時壬生狂言は大いに流行り、両国の見世物にも真似て是もはやりしが、

弁天の開帳は流行らず)。

○神奈川浦島寺観世音、江戸にて開帳(其の場所不詳、霊宝に玉手箱を見せたり)。

○八月十四日、狩野栄川院典信歿。(六十一歳)。

○〔筠補〕一八月二十日、大風雨、深川出水、所々家を吹流す。

○八月二十三日、前句付点者川柳歿。

(浅草新堀龍宝寺に葬す。川柳は同寺門前の坊正にして柄井(からい)八右衛門といふ。

俳諧の一体に俗談を旨として狂句を作る。其の集を「柳樽」と号し、数篇を撰ぶ。

今に其の流たえず、今の緑亭川柳五世に及び、「柳樽」の後輯年々に梓行せり。

按ずるに、宝暦の頃「武玉川」といへる俳諧の句集あり、専ら俗情を述ぶる。

川柳もこれより一変せしものとなん)。

○九月六日、儒師山中天水歿。(三十二歳、名恕之、称猶平、浅草行安寺に葬す)。

○十一月二十七日、夜大地震。

○十一月、琉球入来聘、正便宜湾王子、

蒲原の間にて富士を見て詠める、 宜湾王子

 かぎりなき山を幾重かながめきてそれぞとしろき雪の富士の根

箱筠云う、琉球人江戸着の日見物多く怪我人あり。

○十二月二日、三日夜、甘露降る。

〇「瀬田問答」或る(天明よりこのかた、瀬名貞雄、太旧蜀漸山、武江の雑事問答の書なり)。

〇「琉球談」刊行(森島中良著、又「朝鮮談」も刊行せり)。

○磁器焼紺屋始まる。

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2024年08月02日 11時56分25秒 | 文学さんぽ

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八月十五日 月見の賦 芭蕉 萩原井泉水 氏著 昭和七年刊 俳人読本 下巻 春秋社 版

2024年08月01日 17時50分51秒 | 俳諧 山口素堂 松尾芭蕉

八月十五日 月見の賦 芭蕉

萩原井泉水 氏著 昭和七年刊

俳人読本 下巻 春秋社 版

 

 ことし琵琶湖の月見むとて、しばらく木曾寺に旅寐して、膳所松本の/\を催すに、乙州は洒をたづさえて、泉川に三日の名をつたへ、正秀は茶をつゝみて、信楽(しがらき)に一夜の夢をさます。今宵は茶といひ、酒といひ、かたふの人も二派にわかれて、酒堂は灯にかたぶきて、其荼に玉川が歌を詠じ、丈抑は月にうそぶきて、其洒に楽天が詩を吟ず。

支考は若く、木節は老ひぬ、智月は物のおぼつかなふ、かつぎのあまのなま浮びならず、それが中にも惟然法師は、洒にむどろき茶に感じ、ほむるもそしるもそらに風吹て、爰に三子者の志をためざらんや。まして其外の友とする人も、峩々洋々の心ざしをしれれば、すべては飲中八仙のあそびたらん。誠や、つれ/\゛法師だに、心をつくろはぬ友えらびは、かゝる月見の佗たるやと、思ひしまゝの草の庵に浮世の外の風狂をつくせり。

   米くるゝ友をこよひの月の客

 かくて三盃の興に乗じて、湖水の月に船を浮べんと物このむ人の風情をそへたるに、杖に瓢箪の唐子はなけれども,扇に茶瓶の若男あれば、赤壁の蛤のとぼしさにはあらざめり。さゞ波や、打出の濱の名にしあふ、鏡の山もこなたにさしむかひ、日枝は横川の杉につらなりて、比良の高ねは、雁をもかぞへつべし。うしろに音羽の峰たかく、石山の鐘はあはづの嵐にさえて、そこに楓橋の霜も置ぬらん、矢植の帰帆は、今宵をもてなすに似たるべし。

    名月や湖水に浮ぶ七小町

 されば、我朝の紫式部は、石山に源氏のおもかげを寫し、唐国の蘇居士は、酉洞に越女のよそほひをたとふ。いづれも風俗の名にのこりて、今のまぽろしに浮ざらんや。實そも和漢の名蹤なりけらし。さて松本に舟をさしよせて、茶店の欄干に心をはなてば、目はよし蓬莱の水をへだてす、身はただ芙蓉の露にうるほふ。

’竹林の酒も時ならで、松が江の鱸はこよひなるをや。猶はたかたぶく月の名残には、辛崎の松もひとりやたてる、古き都の名もゆかしければ、尾花川の明ぼのをこそと、千那、尚白をおどろかしぬれば、衣ははや五更に過ぬべし。

    三井寺の門たゝかばやけふの月

 誠よ、推敲のむかしながら、船にこよひの遊をおもへば、此座に韓愈が文章をもあざむき.賈島が詩賦をももどきねべき詩人文客にとぼしからねば、たとへ赤壁の前後といふとも、その地に此人をはづべきやと、見ぬもろこしを相手にとりて、今宵の風流をあらそふほどに、月は長等山の木の間に入りぬ。 (和漢文操)

 

わたましの夜  芭 蕉

名月にふもとの雲や田のくもり

名月の花かと見えて棉畠     (続猿蓑)

今宵誰よし野の月も十六里    (笈日記)

 

【註】元禄七年八月命終の二ケ月前、舊佑里なる長兄の宅地に小庵を作りて其披露をした夜の作「笈日記」に[名月の佳章三句」としてあるのを逍補する。

 

堅田十六夜之辨    芭 蕉

 

 望月の残與なをやまず、二三子いさめて舟を堅田の浦にはす。共日申の時ばかりに、何某茂兵行成秀といふ人の家のうしろにゐたる。酢翁狂客月にうかれて来れりと聲々によばふ。

主思ひがけずおどろきよろこびて、簾をまき簾を拂ふ。

園中に、芋あり、さゝげ有、鰹鮒の切目たゞさぬこそいと興なけれと、岸上に菰をのべて宴をもよほす。月は待つほどもなくさし出、湖上花やかに照らす。

かねてきく、仲の秋の望の日.月の浮御堂にさしむかふを鏡山といふとかや。今宵しも猶そのあたり遠からじと、彼堂上の欄干によって、三上、水莖岡は南北に別れ、その間にしてみね引はへ、小山顛(いただき)を奎じゆ。とかくいふ程に、月三竿にして黒雲の中にかくる。いずれか鏡山といふ事をわかず。主のいはく、折く雲のかゝるこそと客をもてなす心いと切なり。やがて、月雲外にはなれ出て、金風銀波千體佛のひかりに映ず。かのかたぶく月のおしきのみかは、と京極黄門の歎息のことばをとり、十六夜の空を世の中にかけて、無常の観のたよりとなすも、此堂にあそびてこそ、ふたゝび恵心の僧都の衣もうるほすなれといへば、あるじまた云、興に乗じて来れる客を、など興さめて帰さむやと、もとの岸上に盃を揚て、月は横川にいたらんとす。

   鎖(じょう)明て月さし入よ浮御堂   はせを

   安/\と出ていざよふ月の雲      同 (小文庫)

 

 【註】八月十六日 前文とつづいて書かれたものであろらう。支考の「本朝文鱈」に載せてあ

るものは、措辞が大分違つてゐるけれども、此方が原文であらうかと推せられる。

猶此時の句に、「十六夜や海老煮る程の宵の闇」芭蕉

「浮御堂」の中に千但佛が祀ってあるので、月光の波に砕くる様を千體佛の光にたとへ

たのである。

前出[堅田十六夜之辨」に「何某茂兵衛成秀」の家で馳走になったことが書いてある。

その政秀の庭上の松を誉めた言葉である。「元禄四年仲秋日」と眞蹟にある。

「奥の細道」には「十六日、空雲たれば、ますほの小貝拾はと、種の濱に舟を走す、

海上七里あり、天え走ん

  

松 芭 蕉

 

 松あり高さ九尺ばかり、下枝さし出るもの一丈餘、枝上段を重、非葉森々とこまやかなり。風琴をあやどり、雨をよび波をおこす。筝に似、笛に似、靸ににて、波天領をとく。當時牡丹を愛する人、奇出を集めて他にほこり、菊を作れる人は小輪を笑て人にあらそふ。柿木柑類はその實をみて枝葉のかたちをいはず、唯松獨り霜後に秀、四時常盤にしてしかもそのけしきをわかつ。楽天曰く、松能舊気を吐、故に千歳を經と、主人目をよろこばしめ心を慰するのみにあらず、長生保養の気を知て、齢をまつに契るならべし。  (堅田集)

 

種の濱   等 裁

 

 気比の海のけしきにめで、色の濱の色に移りて、ますほの小貝とよみ侍しは西上人の形見なりけらし、されば所の小わらまで、その名を傳へて、しほの間をあさり、風碓の人の心をなぐさむ。下官もとし比思ひ渡りしに、此たび武江芭蕉桃青、巡国の序、この濱にまうで侍る。同じ舟にさそはれて小貝を拾ひ袂につつみ、盃にうち人なんどし、彼上人のむかしをもてはやす事になむ。

                                    福井洞哉書

  小萩散れますほの小貝小盃    桃 青

   (越前種の濱、本陸寺所蔵眞蹟)

   元禄二年仲秋

寂しさや須麿にかちたる濱の秋

浪の間や小貝にまじる萩の塵    (奥の細道)

【註】芭蕉と同行した「ひとりは浪客の士」は奥の細道にも同行した曾良、

ひとりは水雲の僧」は宗波といふ者。「僧にもあらず俗にもあらず」は己れの事。

   秦甸一千里とは、都の四方の郊外は一千里にも及ぶ廣袤あるべきもの、朗詠集に、

奉甸之一千餘里、凛々氷舗云々。日本式尊の言葉とは、後項酒折に註す。

  爲仲は奥州の任に下りし時、宮城野の萩を長櫃十二合に入れて上京したといふ。

 

八月十七日

鹿島の月見んと  芭 蕉

 

 洛の真宗、須磨の浦の月見に行て、松かげや、月は三五夜中納言といひけむ、

狂夫のむかしもなつかしきまゝに、此秋鹿島山の月見むと、おもひ立事あり。

伴なふ人二人、ひとりは浪客の士、ひとりは水雲の僧、僧は烏のごとくなる墨の衣に三衣の袋をえりに打かけ、出山の尊像をダ厨子あがめ入りて、背中に背負う。柱杖曳ならして、無門の關もさはるものなく、天地(あまつち)に獨歩して出でぬ。今独りは、僧にもあらず、俗にもあらず、鳥鼠に間に、名をかうふりの.鳥なき島にも渡りぬべくて、門より船に乗りて、行徳といふ所にいたる。

 船をあがれば、馬にも乗らず、細脛(ほそはぎ)の力ためさむと、歩行よりぞ行。甲斐国より、ある人の得させたる、檜木もてつくれる笠を、をの/\いただきそひて、やはたといふ里をすぐれば、かまがいの原といふ、ひろき野あり。秦甸(しんてん)の一千里とかや、目もはるかに見わたさるゝ。筑波山向うに高く、二峯ならびたてり。かの唐士の双釼の峯ありと間へしは、廬山の一隅なり、雪は申さず、先むらさきの筑波かなとは、我門人嵐雪が句なり。すべて此の山は、日本武尊(やまとたける)の言葉をつたへて、連哥する人のはじめにも名づけたり。和哥なくばあるべからず、句なくは過べからす、誠に愛すべき山の姿なりけらし。

 萩は錦を地にしけらんやうにて、為仲が長櫃に折入て、都の土産に持せたるも風流にくからず。きちかう、をみなへし、かるかや、尾花みだれ合て、小男鹿のつま懸ふ聲、いとあはれなり。野の駒、所得がほに群れありく、又あはれ也。日すでに暮れかゝる程に、利根川のほとり、布佐といふ所に着く。此の川にて鮭の網代といふもをたくみて、武江の市にひさぐ者あり、宵のほど、その漁家に入りてや盃にうち入りなんどし、彼上人のむかしをもてはやす事になむ。

     福井洞哉書

   

小荻散れますほの小貝小盃   桃 青

(越前種の濱、本隆寺所蔵真蹟)

寂しさや須磨にかちたる濱の秋

浪の間や小貝にまじる萩の塵   (奥の細道)

 【註】屋何某と云ふもの、破籠小竹(わりこきさえ)筒などこまやかにしたためさせ、

僕あまた舟にとりのせて、追い風時のまに吹着ぬ、濱はわつかなる海士の小家にて、

佗しき法花寺あり、爰に茶を飲、酒をあたためて、夕ぐれのさびしさ感に堪へたり…… 

其日のあらまし、等裁に筆をとらせて寺に残す」

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八月十日  萩原井泉水 氏著 昭和七年刊 俳人読本 下巻 春秋社 版

2024年08月01日 11時37分31秒 | 俳諧 山口素堂 松尾芭蕉

八月十日

 萩原井泉水 氏著 昭和七年刊

俳人読本 下巻 春秋社 版

 

貞享五年、吉野に花を見、須磨に夏の月を眺めてより、東に戻りつゝあった芭蕉は、名古屋まで来て、信濃姥捨山の名月が見たいといふ心を起して,そこから木曾路へと、旅の又旅を思付いた。これは其送別である。句は名古屋と熱田の連衆。

 

さらしなに行、人々にむかひて

更級の月は二人に見られけり      荷 兮

   越人旅立けるよし聞て、京より申つかはす。

月に行脇差つめよ馬のうへ       野 水

おくられつおくりつはては木曾の秋   芭 蕉 (嚝野)

 

 

一 葉 捨女(たまも集)

 

来る秋のきりぎは見する一葉哉

ほれしより気づくしや露の玉かづら

粟の穏の實は數ならぬ女郎花

月や空にゐよげに見ゆる簾越

衣明には露まで月のわかれ哉

 

 【註】捨女 田野氏、丹波柏原の人、妙齢にして夫に死別し、剃髪して播州網干に隠栖し、

貞閉尼と称した。元禄十一年八月十日歿。年六十五。 井

 

父は花  西鶴

  笙ふく人留主とはかほる蓬かな

  父・は花酒の母なり今日の月

  里人は臼つきかやす花野かな      (蓮 實)

【註】井原西鶴は戯作者として名高くなり、其俳名に覆はれてしまった。

元禄六年八月十日歿、年五十二

 

八月十一日

訪等裁   芭 蕉

福井は三里計(ばかり)なれば夕飯したゝめて出るに、たそがれの路たど/\し。

爰に等裁と云古き隠士有。いづれの年にか、江戸に来りて予を尋ぬ。逞か十とせ餘り也、

いかに老さらぼひて有にや、将(はた)死けるにやと人に尊侍れば、

いまだ存命してそこ/\と教ゆ。市中ひそかに引入て、

あやしの小家に夕顔、へちまのはえかゝりて、鶏頭、はゝき木に戸ぼそをかくす。

さては此うちにこそと門を敲(たゝけ)ば、佗しげたる女の出て、

いづくよりわたり給ふ道心の御坊にや、あるじは此あたり何がしと云ものゝ方に行ぬ、

もし用あらば涼給へといふ。かれが妻なるべしとしらる。

むかし物がたりにこそ、かゝる風情は侍れと、やがて尋あひてその家に二夜泊りて、

名月は敦賀のみなとにとたび立。

等裁も共に逞らんと裾おかしうからげて、路の枝折とうかれ立。(奥の細道)

 

【註】この文は永平寺の條に続くので、三里ばかりとは永平寺よりである。

   等裁は連歌師であって、洞哉とも書いてゐる。

「桐をかしうからげて」ともある通りひょうきんな人であったらしく、几右日記に、

「蓮の實の共に飛入る庵かな」とあるのでも其風采が出てゐる。

 

 

蕎麦の花    卓 池

   

山畑や雲かかるまで蕎麦の花

   初雁を見おくる柴の煙かな

   名月をはれに山家の祭かな

   柿の木に梯子かけたり三日の月       (発句題叢)

 

 

八月十二日

 

木曾路 芭 蕉

 

さらしなの里おばすて山の月見ん事、しきりにすゝむる秋風の心に吹さはぎて、ともに風雲の情をくるはすもの、又ひとり越人と云。

木曾路は山深く道さかしく、旅寝の力も心もとなしと、荷兮子が奴僕をしておくらす。

をの/\心ざし盡すといへども、驛旅の事心得ぬさまにて、共にむぼつかなく、ものごとのしどろにあとさきなるも、中/\におかしき事のみ多し。

何ゝといふ所にて、六十斗の道心の僧、おもしろげもあらず、

ただむつ/\したるが腰たはむまで物おひ、息はせはしく足はきざむやうにあゆみ来れるを、ともなひける人のあはれがりて、をの/\肩にかけたるもの共、かの僧のおひねものとひとつにからみて、馬に付て我をその上にのす。

高山奇峰頭の上におほひ重りて、左りは大河ながれ、岸下の千尋のむもひをなし、尺地もたいらかならざれば、鞍のうへ静かならず、只あやうき煩のみやむ時なし。桟はし、寝覚など過て、猿がばゞ、たち峠などは四十八曲りとかや、九折重りて雲路にたどる心地せらる。歩行より行ものさへ眼くるめき、たましゐしほみて、足さだまらざりけるに、かのつれたる奴僕いともおそるゝけしき見えず、馬のうへにて只ねぶりにねぶりて、落ぬべき事あまたゝびなりけるをあとより見あげて、あやうき事かぎりなし。佛の御心に衆生のうき世を見給ふも、かゝる事にやと無常迅速のいそがしさも、我身にかへり見られてあはの鳴戸は波風もなかりけり。(更科紀行)

 

【註】八月十二日

    此更科行には文にある如く、越人が同行し、荷兮の小僕が伴をした。

桟、寝覚は副島の近くにあり、猿が馬場、たち峠というのは木曾路を出て、姥捨に近い

所にある。修辞の上から一緒にして書いてあるが、地理的には大分違う。

「たましゐしぼみて足定らざりけるに」などいうのは桟あたりの險道であらう。

 

「阿波の鳴門」とは「世の中を思ひくらべて見る時は阿波の鳴門は波風もなし」此途中

の吟として、此紀行の後に載せてある句は、

「桟道や命をからむ蔦かつら」「枝道や先づ思ひ出つ駒迎ヘ」

越人の句は、「霧晴れて桟道は目もふさがれず」

 

栗  小林一茶

 

 立寄らば大木の下とて、大家には貧しき者の腰をかゞめて、おはむき云ふもことはりになん。こゝの諏訪の宮に大きさ牛を隠す栗の古木ありて、うち見たる所は葉一つもあらざりけるに、其の下をゆきゝする人、日々採り得ざるはなかりけり。(おらが春)

 

木曾の宿  芭 蕉

 

夜は草の枕を求て、昼のうち思ひまうけたる景色、むすび捨たる発句など矢立取出て灯の下に目をとぢ、頭かてきてうめき伏せば、かの道心の坊、旅懐の心うくて物おもひするにやと推量(おしはかり)し、我を慰めんとす。わかき時拝み巡りたる地、阿弥陀の尊きたふとき數をつくし、をのがあやしとおもひし事共はなしつゞくるぞ風情のさはりとなりて、何を云出る事もせす。とてもまぎれたる月影の壁の破れより木の間隠れにさし入りて、引板(ひだ)の音、鹿追う聲所々に聞えける。まことにかなしき秋の心、爰に盡せり。

 いでや月のあるじに酒振まはんといへば、さかづき持出たり。世のつねに一めぐりもおほきに見えて、ふつゝかなる蒔絵をしたり。都の人はかゝるものは風情なしとて手にも触れざりけるに、おもひもかけぬ興に入りて、靕碗(せいわん)、玉巵(ぎょくし)の心ちせらるゝも所がらなり。

   あの中に蒔繪書たし宿の月  (更級紀行)

 

八月十四日

 

秋の句合 蕪村

 

蕎麦花  畑ぬしの名をなつかしみ蕎麦の花  菫

野 菊  折とれは莖三寸の野きくかな    居

 

 野を懐かしみ一夜寝るにけりといへる詞をとりて、畑主が名のゆかしさ好みて作れるならんや、きかまほしく思ふも、白妙に咲きみだれたる中に、赤き莖の色たちたる、香気さへ郁々として、花で持て成すと祖翁の見とがめ給ふも、げに此物に癖する人の多き故ならんかし。

野草のながき根さし、芋小篠につれて、ひよろ/\と伸び過たる、莖も折とれば僅かにみつがひとつを得たり。然るを莖三寸と決定したる、俳諧の神卒といふべし。よって至つて好めるそばなれど、野菊をもて勝れりとす。

       ○

落鰷(はや)うらさびて鮎の脊みゆる川瀬哉   董

鹿啼や宵月落る山低し             居

 

 鬼實が句に、「夕ぐれは鮎の腹見る川瀬哉」、此句、鬼を兄とし、腹を脊にかへて弟たり。

俗諺にいふ脊に腹の反斡轉なるべし。

 紀貫之が「夕月夜おくらの山になく鹿の」といへる、五七五につゝめて、宵月の朦朧(もうろう)たるに嵯峨たる山も低しとはいひおゝせたり。しかれども陳腐の譏(そしり)免れがたし。さはいへ實情たるをもて勝とや申べき。 (反古瓢)

     

気比宮夜參   芭 蕉

 

 十四日の夕ぐれ、つるがの津に宿をもとむ。その夜月殊晴たり。あすの夜もかくあるべきにやといへば、越路の習ひ、猶明夜の陰晴はかりがたしと、あるじに洒すゝめられて、氣比の明神に夜参す。仲哀天皇の御廟也。社頭神さびて松の木の間に月のもり入りたる、おまへの白砂霜を敷るがごとし。往昔、遊行二世の上人、大願発起の事ありて、みづから草を刈、土石を荷ひ、泥淳をかはかせて、参詣往来の煩なし、古例今にたえず、紳前に餌砂を荷ひ給ふ。これを遊行の砂持(すなもち)と申侍ると、亭主のかたりける。

月清し遊行のもてる砂の上

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猿蓑集 巻之一 冬 初しくれ猿も小蓑をほしけ也  芭 蕉

2024年07月31日 11時41分42秒 | 俳諧 山口素堂 松尾芭蕉

猿蓑集 巻之一 冬

 

初しくれ猿も小蓑をほしけ也  芭 蕉

 

 集の巻の一に冬の句を出したる、おもしろし。

代々の和歌撰集には、春をこそ巻首には出したれ。それを古例にかゝはらずして、此頃の此句のふりを中心にして成りたる集のはじめに、初時雨をさっと降らせたる、いかにも俳諧の新味なり。

〇ほしげ也。

舊説に、定家卿の、

「篠ためて雀弓張るをのわらはひたひ鳥幅子のほしげなりけり」、

といふ歌に本づけりとなせり。されど此句は所謂「古歌取り」の句にはあらず。古歌取りの句といふは、後の人の句にて、「秋来ぬと目にさや豆のふとりかな」、といふやうなるを云ふなり。

ほしげなりといふ語は、いかにも古歌に見えたるべきも、そは背中に萬巻有れば、語を下すおのづから来歴無きは無きものなり。あなぐり論ずるはおもしろからず。

引きたる歌も定家卿のにはあらず、「夫木和歌抄」巻三十二に見えたる西行上人の歌なり。

 

あれ聞けと時雨来る夜の鐘の聲    其 角

 

 舊解に、三井の鐘とは聞えたり、と有るがあり。三井寺の鐘の聲の此句を誘ひ発したりや否やは知らず、必ずしも此鐘を三井の鐘としてのみ取るべきにはあらず

 

時雨きや并ひかねたる魦舟      千 那

 

 并ひ=並び 魦=いささ

 魦は世俗通用の字にして、「いさゞ」と訓まするを其頃の習としたり。

いさゞは細小の義にして、此の魚の小さきより魦の字の常てらるゝにも至りたるなるべし。

いさゞは二類あり。一は海産にして、乾して「疊鰯」または「ちりめんざこ」と為すもの、一は淡水産にして、近江の琵琶湖、越前の足羽川等にあるものという。こゝのは江州和爾あたりにて多く取りて京都に売るものを指す。一名さのぼり、長さ一寸ばかり、「はぜ」に似て頭まろし。魦舟はいさざを漁する舟なり。其漁法を詳しく知らねど、蓋し舟を並べ細目の網を張りて獲るならむ。

作者千那は江州堅田浦本福寺の住職、此句は是湖上の情、眼前の景なるべし。

 

幾人か時雨かけぬく瀬田の橋    僧 丈艸

 

 「金葉和歌集」、幾人か比叡山颪しのぎ来て時雨にむかふ瀬田の長橋、この歌を鋳型にして、かけぬくと詞ひとつにて誹諧とせり、と何丸等は云へり。されど妄言なり。金葉集にはさる歌見えず、他の集に見えたるにせよ、歌の體もまた餘りにつたなし。鬼實の萬葉のたぐひにて、俳諧者流の古歌の談は、信じが狸きこと毎ゞなり。

 

鑓持の猶ふりに立るしくれかな  膳所 正秀

 

 鑓待奴の猶更に時雨の中に鑓立つるとなり.人事に時雨の風情を看取し描破せる、

鄙しかれどもおもしろし。

 

廣澤やひとりしくるゝ沼太郎  史 那

 

 廣澤山城国葛野鄙嵯峨村の東に在る池なり。敦實親王の第二子僧寛朝之を造るとなり。

廣澤の名はあれど、さして大なるものにはあらず。たゞ古き池にて、六百番歌合、経家の歌に、

くまもなく月すむ夜半は廣澤の池も窓にぞひとつなりける、

とも詠まれ、ことに馨明に長けたる寛朝の如き人の舊跡とて、其幽寂閑嚝のおもむき、人の智に侵めるところなれば、今はすたれたるも却りて蕭散の情を惹くかた無きにしもあらず。且は都近くして、人知らぬ僻陬にもあらねば、作者も憚りなく實に貼きて取出し記るならむ。空悠長より廣澤といふ地を擇み来りたるにはあらじ。然るに近人廣澤の名にまどひて、大なる沼ゆゑに太郎の名を負はせて、山に安達太郎、川に坂東太郎などの如く、沼太郎と云へりと釋せるがあるよし。宜しからず。沼太郎即ち廣澤にては、一句何の興趣無し。沼太郎は鴻の一種なり。夏目蔭髄斎(成美)曰く、江戸ひしくひ、一名沼太郎。小野蘭山曰く、一種エトクヒシクヒ、一名ヌマタロウ、サカボウ、太抵眞菱喰に同じくして、眼上に淡白條あり、觜(くちばし)脚皆黒し。これにて沼太郎の鴻の一種なること疑ふべからす。蘭山曰く、此の島湖澤に集まり、好みて菱實を喰ふ、故に菱喰と名づく、其形雁より太なりと。菱など多かるべき廣澤の古池に沼太郎のしぐれたる、いかにも自然の景なり。

鴻雁の類、禮節信智の四袷ありとさへ云はれたる禽にて、婚礼に雁を用ゐるも、偶を失へば再び匹せざるを以てなりとの意を明道も云はれたり。「博物志」には、雁は色蒼くして、鴻は色白しと云へり。

其は大まかの事ながら、色白きかたの沼太郎の廣澤の古池に、ひとのしぐれたる、まことに感多き佳き句なり。

 

舟人にぬかれて乗りし時雨哉   尚 白

 

 ぬかれては出し抜かれてにはあらず出し抜かるこは、思はぬまに人に先んぜられて、我は後に残るなり。ぬかるゝは喪心を抜かるゝと云はんが如し。人の言に詒(あざむ)かる々なり。狂言「末廣がり」に、ぬかれたは憎けれど囃物がおもしろい、は詒(あざむ)かれたるなり。空定めなく覚束なければ、舟路は取りかねたるを、降りはすまじといふ乗合舟の舟人の口に詒かれて、その心になりて、舟に乗りしに、早くも時雨のさっと降来しなり。乗るという辞にも詒かるゝの意あるなり。

但しそこまで解到すれば少し嫌味ある句となれば、単に乗りしとのみ取るべし。

 

    伊賀の境に人て

なつかしや奈良の隣の一時雨   曽良

 

 舊解、なつかしきもの昔の京、といふ詞を取れりと為す。何に出で紀る詞なりや。

さる詞、又は諺ありとしても、単にそれのみのことにしては、句情浮泛にして妙無し。

或は曰く、万葉集巻六、

世の中を常無きものと今ぞ知る奈良の都のうつろふ見れば、

此歌の意を含むと。これまに北鵠南天の言なり。

宝暦後、俳諧おとろへて、空腹高心の徒の妄誕のみ多し、難ずべし。

これは中山内府忠親の撰といひ、源内府通親の撰といひて、筆者は定かならねど、嘉應の頃に成りて、世にもてはやされたる今鏡の花の主人の章に見えたる、また或時(中務少輔實重)

  奈良の都をおもひこそ遺れ

と侍りけるに、大将殿(源有仁)

  八重楼秋の紅葉やいかならん

と附けさせ穴まひけるに、越後の乳母

  時雨るゝ度に色や重なる

と附けたりけるも、後まで哀めあはれ侍りけり、とあるを知れば、曾良の一句、おのづからに解くべし。連歌といふは其の初は、歌の本に末を連ね、又は末に本をつけたるに過ぎざりしが、何時の頃よりか、三句を連ぬることゝなりて、「今鏡」の頃は二句以上連ぬるものを銷連歌と抄したるなり。

越後の乳母、小大進など云ひて名高き女歌読み、家の女房にて有るに、公達參りあひては、銷連歌などいふことを常にせらること同書同章に見え狸たり。

後の正式連歌は、此の銷連歌といふものゝ発達して、一巻首尾ある定型のものゝ成るに及べるなりとも思はる。

芭蕉の頃は、人多くは源氏物語、枕草紙、大和、伊勢、大鑑、今鏡などに親しみて尋常茶飯の如くにしたれば、後の人には耳遠けれど、常時はおのづからかヽる句も出で、世も受取りにるなり。奈良の隣は卸ち伊賀なり。「奈良の都を思ひこそやれ」は古句にして、「なつかしや奈良の隣」といへるは俳諧なり。時雨るゝ度に色や重なる、は金葉集作者の古句にして、一ト時雨は猿蓑作者の俳諧なり。

曾良の風趣もとより越後乳母に超え穴り。

 

しくるゝや黒木つむ家の窓あかり     凡 兆

 

 黒木は鹿朶柴をき程の長さにし、火移り宜くして、且爆裂して飛びなどせぬやう蒸し煙して、

黒くなりたるを薪火の用として八瀬あたりの者の京洛に鬻ぎしを云ふ。後には轉じて、たご薪をいう。

 

馬かりて竹田の里や行時雨       大津 乙 刕

 

 竹田の里、別に由縁あるところにはあらず、京都より南の方伏見に至る一路に竹田街道といふあり、

即ち其路に常るの里なり。馬にも時雨にも縁無し。但し伏見より宇治に至るの一路の上、殆んど伏見の中なる六地蔵は馬方など多かりし騨路のさま、元禄頃の叢著に覗ひ知られ、同じく伏見山につゞきな紀る木幡山、木幡里など万葉集のむかしより馬つぎにもありしにや、馬を詠み合せたる歌多し。

万葉集巻第十一、

山科のこはたの山を馬はあれどかちより吾が来汝を思ひかねて、

人丸が歌なり。此歌拾遺葉巻第十九に、山をを、山にと改め、第四第五の句を、「かちよりぞ来る君を思へ」ばと改められて収録されしより、人の耳近きものとなり、其後亦木幡の里に馬を詠めるもの多し。

本の人麿が歌は、「こはたの山を」とありて、徒歩より其山を經るといへるまでなるが、拾遺集のは、「こはたの山に馬はあれど」、と改められたるにより、木幡山は馬のあるところのやうになりて、本意とは異なることにりたり。されど木幡は夙くより京と宇治との通路にして、おのづから馬なども供へけむひまゝ歌も「木幡の山に馬はあれど」、と改められ、又それより、千載集巻第十九、

我が駒をしばしと借るか山幡の里にありと答へよ、

源浚頼朝臣の歌も出づるに至り、謡曲通小町、およびそれに因める俗談の文句にも、木幡の里に馬はあれど、君をおもへば歩行躓、などいひ囃すに至れり.

竹田は伏見より京への路に常りて程近く、木幡はもとより伏見に接せるところにて、木幡、伏見、竹田、皆幾程も無き境なり。

此句木幡とは云はねど、ことさらに木幡より少しさきなる竹田の里をいひて、行時雨と詠じたる味有りといふべし。馬借りての一句、必ずしも俊頼朝臣の歌に縁りたるとせざるも、以上の所説を知り置きて、よく咀嚼し味到せば、竹田の里の時雨のおもむきを現じ興じ得可けむ。

猿蓑さがしの、馬かりて、と濁りて濁りて読む解の如きは、うべなひがたし。

 

たまされし星の光りや小夜しくれ  羽 紅

 

此句に換骨脱胎の法を行ひて、蓼太の「五月雨や或夜ひそかに松の月の什あり。

 

新田に稗殼煙るしくれかな     膳所 昌 房

 

新田の新味多く、稗殼の煙りいとわびたれど、奮味ある句なり.

 

いそかしや沖の時雨の詰帆片帆   羽 紅

 

 句情はおのづから分明なれど、舌足らずの云廻しなればにや、

去来みづから仕損じ白りと去来抄に云へり。

 

    初霜に行や北斗の星の前      伊賀 百歳

 

 北斗の星の前に旅雁横たはり、南楼の月の下に寒衣を擣つ。「朗詠集」上洛に出でたる劉元叔の句なり

此句明らかにそれに本づけるながら、行くやの一語唐突にして味無し。焉に北斗は人君にたとへ、夙に出仕する人の姿情言外に見えたり、などといへる舊解を生じたり。霜暁星燦の景をいへるのみ。

 

    ひと色も勣くものなき霜夜かな   野 水

 

 風無く天清らにして霜七ご脈かに降る夜のさま也。

 

淀にて

初霜に何とおよるそ舟の中     其 角

 淀は淀河、夜舟著発の地なり。狂言「うつぼ猿」に、猿の舟漕ぐをす形するところあり。

そこの歌に、「舟の中には何とおよるぞ、苫を敷寝の楫枕」、といふ句あり。

およるは御寝なり。苫に霜しろむ川舟の、何とおよるの一語、使ひ得て景あり情あり。

軽妙爽利、しかも温藉なるは、其角の独壇なり。

 

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