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河合曽良 近畿巡週日暦 『謎の旅人 曽良』村松友次氏著

2023年12月19日 08時28分26秒 | 文学さんぽ

河合曽良 近畿巡週日暦

 

『謎の旅人 曽良』村松友次氏著

 

村松友次(むらまつ ともつぐ)

 

大正10年,長野県生まれ。

高浜虚子・高野素十に師事。俳号紅花。俳誌『雪』主宰。

東洋大学短期大学名誉教授。

 

主要著書

 

「芭蕉の作品と伝記の研究」(笠間書院)。

『松尾芭蕉集』(共著・小学館)「蕪村集」(尚学図書),

「古人鎖仰」『花鳥止観』『続花鳥止観』(永田書房),

「芭蕉の手紙」「蕪村の手紙」「一茶の手紙」(大修館書店)

『曾良本「おくのほそ道」の研究』「芭蕉翁正筆奥の細道」

「おくのほそ道」の想像力」(笠間書院)など。

 

 生れた地、諏訪。最後に生存の確認される地、勝本。

この二つの土地で曽良が顕彰され慕われるということは曽良を敬愛する人の願うところである。

 

2002年6月1日 初版第一別発行 大修館書店

一部加筆 山口素堂資料室

 

 

近畿巡遊日暦 元禄四年(一六九一)曽良 四十三歳

 

・『曽良旅日記(元禄四年の部)』をもとに作制。

・月日の後の( )内の数字は、陽暦による月及び日を示す。

 

  •  三月

 

三月四日(4-2) 

晴 

江戸深川(今、東京都江東区)の庵を立ち「京橋安適(宅)に一宿 持△」

 

三月五日(4-3) 

晴 

京橋(今、東京都中央区)を立ち、藤沢(今、神奈川県藤沢市)に宿す。

藤沢の旅宿か。

 

三月六日(4-4) 

晴 

藤沢を立ち、三嶋(今、静岡県三島市)に宿す。三島の旅宿か。

 

三月七日(4-5) 

「原より雨降」 

三嶋を立ち、江尻(今、静岡県清水市江尻町)に宿す。江尻の旅か。

 

三月八日(4-6) 

「清明」晴 

江尻を立ち、日坂(今、静岡県掛川市)に宿す。

日坂の旅宿か。二二四の記号あり)

 

三月九日(4-7) 

晴 

日坂を立ち、白須賀(今、静岡県湖西市)に宿す。白須賀の旅宿か。

 

三月一〇日(4-8) 

晴 

白須賀を立ち、岡崎(今、愛知県岡崎市)に宿す。岡崎の旅宿か。

 

三月一一日(4-9) 

晴 

岡崎を立ち、「巳ノ刻(午前十時ごろ)為麿」

「アツタ(熱田)参詣」未ノ剋(午後二時ごろ)名古屋荷号(桑名町)着。

暮に及び「山口へ行」(今、名古屋市東区泉町付近)。

山口小牧町の信濃問屋(堀部宅)泊か。

 

三月一二日(4-10) 

「終日雨降」 

信濃問屋堀部孫兵衛宅泊。

 

三月一三日(4-11) 

「晴。夕前より雨隆降る」 

名古屋の山口(小牧町)を立ち、長島へ。三重県桑名郡長島町の大智院泊。

 

三月一四日(4-12) 

(記人なし)

大智院滞在か。

 

三月一五日(4-13) 

(記入なし)

大智院滞在か。

 

三月一六日(4-14)

  晴 

大智院滞在。吉田七左衛門(久兵衛)・弥石・吉田八左衛門等に会う。

 

 

三月一七日(4-15)

  晴 

大智院滞在か。吉田七左衛門に会う。

 

 

三月一八日(4-16)

  晴 

「船ニテ出ル」殿名(今、長島町の内)に遊ぶ。大智院泊か。

 

三月一九日(4-17)

  「甚雨」 

大智院泊か。

 

三月二〇日(4‐18)

  「甚雨」 

大僧院泊か。

三月二一日(4-19)

  「昼ヨリ止む」

「晩 安田左五衛門ニ一宿」安田左五衛門は長島藩士。

 

三月二二日(4-20)

 長島を立ち「坂下に一宿」坂下は三重県鈴鹿郡関町坂下。

 

三月二三日(4-21)

  坂下を立ち「大津不屋に着」大津(滋賀県大津市)不屋(乙州宅)に一宿。 

 

三月二四日(4-22)

 木曾寺の新庵(粟津の草庵)を見る。京都へ行く。附や町の作兵衛の大和屋着。

 東山花見。田中式昭(もりあき)氏を尋ねて宿す。                                         

 

三月二五日(4-23) 

川中氏を立ち、カセイ(加生〈凡兆〉)を尋ね翁(芭蕉)の居所を問う。

二条へ行き深井氏、小寺氏に会う。北野(京都市にし京区)へ行。

「御室(京都巾右京区)ノ花ヲ見ル。

又カセイを尋ね翁(芭蕉)の居所を調べる。

  カセイ・深井・小寺五郎左衛門・与左エ門同道。

「田中(式昭)へ寄リテ」大和屋(麸(フ ふすま)屋町)泊。

 

三月二六日(4-24) 

麸尾町の宿人和服を立って、宇治に行き藤森(京都市伏見区)(神社)を拝む。

また、宇治の黄檗山萬福寺・仏徳山興聖寺・平等院等を見て、

船で伏見に出て淀(伏見区)の宮地宅に泊る。

その夜、京に出て地主(じしゅ)祭(?)を見たか。

 

三月二七日(4-25) 

宮地氏宅を出て「南都(奈良)ニ趣」杵の社。佐保ノ川。

南鄙見終って手飼(手貝町(奈良))に宿す。

「○四六三七五」(意味不明)

 

三月二八日(4-26) 

手飼(手貝町)を立ち、「ワキ戸(脇戸町)へ寄り翁ヲ尋ル」

(芭蕉が奈良へ来ていたか)、

「元興寺(奈良市。南部七人寺の一)、紀寺等ヲ見ル。

フル(布留)ノ滝(奈良県天理市)、三輪(奈良県桜井市)拝ス。

泊瀬(桜井市榛原町)

見終ツテヂオンジ(慈恵寺)(奈良県桜井市、幕府領)ト云所ニ宿ス。」

 

三月二九日(4-27) 

桜井市の慈恵寺を立ってモンシユ(奈良県桜井市文殊院か)、

カコ山、橘寺(奈良県高市郡明日香村橘)、岡寺(同明日香村岡)、

多武峯(奈良県桜井市)、上市(奈良県吉野町)

を経て吉野(奈良県吉野町)へ。「吉野ニ宿ス」(旅宿であろう)

 

  •  四月

 

四月一日(4-28) 

吉野の旅宿を立つ。奥ノ院花盛り。広橋(今の奈良県吉野郡下市町の大字)

へ尋テ孫七ニ宿」「親父、舎弟ニ謁ス」

 

四月二日(4-29) 

晴 下市町広橋の孫七家を立って「市左へ行一宿」。

市左衛門宅は広瀬(奈良県下市町)にあるか。

 

四月三日(4-30) 

「雨」 

「下市ノ衆会ス」市左衛門、下市ノ衆に会う。広橋の孫七方泊か。

 

四月四日(5-1) 

「雨止ム」

「丹生へ社参」丹生川上神社(奈良県吉野郡東吉野村にあり式内大社)へ参詣した。

市左衛門に会う。広橋の孫七方泊か。

 

四月五日(5-2)

 晴 

是及ニ尋ねる。是及、市左衛門に会う。広橋の孫七宅泊りか。

 

四月六日(5-3)

 「夜に入り甚だ雨」

及も終日招かれる。是及宅へ宿泊か。

 

四月七日(5-4)

 晴 

滞留。

 

四月八日(5-5)

 晴明 

広瀬を立つ。神谷へ着。(和歌山県伊都郡高野町神谷)旅宿泊か。

 

四月九日(5-6)

 「暗明 日出、カミヤ(高野町神谷)ヲ立。高野へ上。

山中不残見物 大又(不明)へ着。夜中甚雨 旅宿泊。

下市ノ者ト同宿。

 

四月一〇日(5-7) 

終日小雨。夕方やむ。

大又の旅宿を立つ。「西川ノ内長井ト云所ニ宿」(長井は、奈良県十津川村長井、永井とも)

 

四月一一日(5-8) 

暗明 長井を立ち、熊野本宮に至る。尾崎氏宅に着き湯へ行き帰って参宮。

尾崎氏宅(和歌山県東牟婁郡本宮町本宮)に宿る。

 

四月一二日(5-9) 

中途雨 新宮で雨やむ。のち大雨。

朝、熊野本宮を立ち舟下り。新宮へ着。

神蔵(神倉。新宮にある神社)に行く。「浜宮ニ泊ル]

(和歌山県東牟委郡那智勝浦町浜ノ宮)。

 

四月一三日(5-10) 

晴 

那智の滝、観音堂、大雪取、小雲取を越える。

小口(今、能一野川町の一部)という宿あり、日暮て清川村の旅宿に宿

(今、和歌山県東牟婁郡本宮町)。

 

四月一四日(5-11) 

晴 

清川の旅宿を立ち、本宮の神官尾崎氏へ寄り、近露(ちかつゆ)に至る。

近露の旅宿に泊(和歌山県西牟委郡中辺路町近露)。

 

四月一五日(5-12) 

晴 

夕刻、高原(和歌山県西牟委郡中辺路町高原)に着く。

「増村衆ニ先立テ日昏テ一里斗 イナメ(印南)ニ宿」す。

(和歌山県日高郡印南町)。

 

四月一六日(5-13) 

未明雨のち晴 「湯浅(和歌山県日高郡湯浅町)ニ到。

ヒロ町(今、広川町の大字)近シ」(湯浅から)船に乗りて和歌浦へ行く。

門屋(和歌浦)に泊。

 

四月一七日(5-14) 

昼晴。一と晩中雨 

和歌ノ浦(和歌山県和歌ノ浦)妹背山の経堂。垢離を取る。

 東照宮のお旅所で祭を祥む。紀三井寺(和歌山県紀三井寺)、若山(和歌山城下)粟島へ。

 「カダ(加大)ニテ明神ヲ祥拜」加太(和歌山市)の旅宿泊か。

 

四月一八日(5-15) 

夜明て雨止む。晴 

加太を立ち、「若山 日前官へ参」

「粉川寺ニ行キナデ(名手)ニ宿」(和歌山県那賀郡粉河町)。

 

四月一九日(5-16) 

晴 

名手を立ち桧原越えをして槙尾(大阪府和泉市)の施福寺で捨身獄を見て、

 信太の森明神へ参詣。

「戌ノ土俗境(堺)ニ者 宿カリカネテ迷 北口へ出テ断り宿ス」

 

四月二〇日(5-17) 

晴 境(堺)の「妙国寺、薬師堂ノ藤、ヱヒス(夷)嶋、大寺(開口神社の俗称)ヲ見テ、

大仙陵へ行キ百舌耳野ノハ幡(百舌鳥神社)ト仁徳陵(を)拝(す)

」遠里小野を経て住吉(今、大阪市住吉区)に出て、

天王寺を見て山口浄(常)春を尋ねて宿す(大阪天王寺区生玉神子町)。

 

四月二一日(5-18) 

折々小雨ス 

桜井氏(ヲ)尋(ネ)終日談」「夜二人テ神子町(山口常春宅)へ帰」泊。

 

四月二二日(5-19) 

江戸へ文通。昼時常春の宅を出て船へ。「淀橋ニ面片船ニ乗リ」船頭を待つ。

川口で一夜を明かす。船中泊。

 

四月二三日(5-20) 

晴 

川口を離れ、昼過ぎ兵庫前(今、神戸市)、高砂前(今、高砂市)。

「ナギテハカ不行故也」とある。船中泊(高砂沖)。

 

四月二四日(5-21) 

晴 

午後二時ごろシカマ津(飾麿、今、姫路市)に着船。姫路、

「書写山(姫路市)ヲ見ル」坂本(書写山)の旅宿泊。

 

四月二五日(5-22) 

夜長雷雨、夜更強雷雨 

書写の坂本を立ち、広峰(山)(姫路市)を拝む。

増井、姫路。「西谷(兵庫県加古川市)ニ宿」。

 

四月二六日(5-23) 

朝雨止む。折々小雨 

西谷を立ち、明石一の谷「長田明神(尾上大明神か)

(今、神戸市長田区)ヲ拝兵庫ニ宿」

 

四月二七日(5一24) 

晴 

兵庫を立ち、諸方見物。布引の滝を見て摩耶山に登る。

「西宮(今、兵庫県西宮市)ヲ拝テ同所に宿ス」

 

四月二八日(5-25) 

晴 

西宮を立ち、武庫川を越す。昆陽(こや)の宿(今、大阪府伊丹市)、

郡山(今、大阪府茨木市)、桜井ノ宿(今、大阪府三島拓本町)、

水無瀬殿(同島本町)、八幡(石清水八幡宮)(今、京都府久世郡八幡町)。

宝寺を見る。山崎の「川原埼氏ニ宿ス」

 

四月二九日(5-26) 

折々小雨 

川原崎氏宅を立ち、閲明神(今、京都市島本町)、

宗鑑やしき(今、京都市島本町)、吉祥院(今、京都市南区)、

束寺(今、京都市南区)、壬生(今、京都市中京区)。

 [大綱氏へ尋テ宿]「夜二人雨具」

 

四月三〇日(5-27) 

「天晴に 大綱氏宅を立ち、「田中(式昭)氏ヲ尋テ、允昌(凡兆)ニ行」、

翁(芭蕉)の様子を聞く。「サガニ被在ノ由故田中へ帰テ宿」

 

 

河合曽良 近畿巡週日暦

 

『謎の旅人 曽良』村松友次氏著

 

村松友次(むらまつ ともつぐ)

 

大正10年,長野県生まれ。

高浜虚子・高野素十に師事。俳号紅花。俳誌『雪』主宰。

東洋大学短期大学名誉教授。

 

 

  •   五月

 

五月一日(5-28) 

「天晴」 

田中氏宅を立ち、加茂社(今、京都市北区)にて競馬を見る。

直庵同道にて帰る。大徳寺(今、京都市北区)へ寄り、田中式昭氏宅へ帰り宿す。

 

五月二日(5-29) 

「天晴」 

田中氏宅を立ち、允昌(凡兆)(今、京都市上京区橋本町)へ寄り、

嵯峨へ。翁(芭蕉)に逢う(『嵯峨日記』にあり)。

去来居合せ、大井川舟遊。舟遊び中に雨。落柿舎(今、京都市右京区)に泊。

芭蕉・去来と同宿。

 

五月三日(5-30) 

雨止まず。

落柿舎にあり。去来午後二時ごろ帰る。落柿舎泊。

芭蕉と談じて夜明ける。

 

五月四日(5-31) 

午後に時雨止む。

午後ニ時落柿舎を立ち、梅津(今、京都市右京区)の渡りを越え、

カツラ(桂)(今、京都市右京区)の里を過ぎる。

夜に入って一定に着。道に蛍多し。久我の一定宅に宿す。

 

五月五日(6-1) 

「天晴」 

一定と二人で一定宅を立ち、藤森(神社)(今、京都市伏見区)、

下久我、恋塚、伏見ニ至ル。伏見稲荷に行き、競馬を見て、又藤森に行く。

一定と別れる。日暮テ大和屋(題屋町。作兵衛方)へ行って泊る。

 

五月六日(6-2) 

「天晴」

「主水ヲ尋テ不逢ズ」田中(式昭)氏へ行き中食。

相国寺(今、京都市上京区)、真如堂(同上京区)、

下加茂(下鴨)神社(左京区)、百万扁(上京区)、吉田神社・銀閣寺

・鹿谷・談合谷・高霊寺・若王寺神社・南禅寺、岡崎に出て、

聖護院(以上いずれも今、京都市左京区)、田中氏へ寄り、凡兆方へ行く。

落柿舎を出た芭蕉・去来と会う。

上京区棋木町の凡兆宅泊。芭蕉・去来と同宿。「夜中雨甚シ」

 

五月七日(6-3) 

「甚雨」 夕方雨やむ。

「中村荒右衛門(史邦)入来」「北野へ来ル」北野(今、京都市上京区)泊。

 

五月八日(6-4) 

「快晴」 

北野を立ち、御室・鴫滝・広沢・シヤカ(釈迦)堂・愛宕山・二尊院・天竜寺・鹿王院・妙心寺

(以上いずれも今、京都市右京区)を経て北野へ戻る。北野泊。

 

五月九日(6-5) 

「少雲」 

北野を立ち、高尾(高雄)・槙尾・栂尾(以上いずれも今、京都市右京区)へ行き北野へ帰る。

「夜帰リテ甚雨夜中不止」北野泊。

 

五月一〇日(6-6) 

朝雨止む。「午ヨリ晴」 

北野を立ち、平野神社・今宮神社・同御旅所・北野天満宮

(いずれも今、京都市北区)を拝し、北野へ帰る。北野泊。

 

五月一一日(6-7) 

「天気吉」 

北野を立ち、油小路(神道家か)へ行く。「小川(凡兆)へ帰、宿ス」

 

五月一二日(6-8) 

「雨天」 

小川の凡兆宅に滞在。凡兆宅泊。

 

五月一三日(6-9)

 「雨止」 

小川の凡兆宅を立ち、北野へ。主を待つ、昼、主が来たので終日談じた。

主が帰ったので曽良はそのまま北野に泊ったか。

 

五月一四日(6-10)

 晴 

北野を立って、凡兆方へ行く。ここに翁、去来、丈草が来ていた。

昼すぎから東山へ行く。目病地蔵、長楽寺(今、京都市左京区)、双林寺、

中村荒右衛門(史郎)へ行き宿す。

 

五月一五日(6-11)

 「朝より雨」 

終日中村史郎宅に居る。泊。

 

五月一六日(6-12)

 「雨止」

史邦宅を立って、小川へ来て、北野へ行く。田中へ寄る。

小川へ戻って、中村荒右衛門(史郎)方に宿す。

五月一七日(6-13)

 「天気吉」 中村史邦宅を出て芝居見物。

翁(芭蕉)、允昌(凡兆)、羽紅(凡兆の妻)、

荒右衛門(史邦)、無辺(丈草)、佐野治佐衛門(美濃出身の俳人芦文)、去来等なり。

 「日暮テ無辺(丈草)ト清水ニ行 帰(史郎宅に)宿ス」

 

五月一八日(6-14) 

「天気吉」 

史邦宅を立ち、田中へ来る。田中は同道出来ず、

一人で加茂(京都市北区)、木船(貴船)(以下いずれも左京区)

・鞍馬本堂・岩倉・糺(ただす)の森の下を渡って荒右(中村史邦)宅へ戻り宿す。

 

五月一九日(6-15)

 「天吉」 

史邦宅を出て、田中(式昭)へ寄り借り物を返し、

北野(今、京都市上京区)へ行き、晩方また田中へ寄り

「小川(凡兆・羽紅)ニ行宿ス」芭蕉その他も同宿か。

 

五月二〇日(6-16) 

「天気吉」

 小川(凡兆宅)を出て昼過より

翁・去来(と自分)は黒谷(今、京都市友京区)へ趣く。

「荒神川原ヘカゝリ帰ル」小川(凡兆・羽紅)宅に宿す。

芭蕉その他も同宿か。

 

五月二一日(6-17) 

「雨天」 

芝居見物中止。「晩方雨止」小川を立って「田中へ寄テ北野へ趣宿」

 

五月二二日(6―18) 

「天気吉」 

田中式昭兄弟来て、干与左と共に鹿苑寺の金閣(京都市北区)、等持寺(京都市北区)、

妙心寺(京都市右京区)を見る。「田中氏へ帰テ宿ス」

 

五月二三日(6―19) 

「曇」 

朝食後田中氏方を立って小川(凡兆宅)へ行って芝居見物に行く。

例の連衆すなわち田中式昭氏・芭蕉・凡兆・羽紅・史邦・丈草・芦文・去来ら。

「小川(凡兆宅ニ帰テ宿ス」芭蕉その他も同宿か。

 

五月二四日(6―20) 

「晴」 

小川(凡兆宅)を立って「北野へ来ル」、夕食後理兵衛同道ヱンマ堂(引接寺)、

石蔵寺(石像寺)、「蓮台寺(京都市北区)ヲ見テ小川(凡兆宅)二帰テ宿ス」

大津の千那も来会した。芭蕉その他も同宿か。

 

五月二五日(6-21) 

「天気晴」 

小川(凡兆・羽社宅)を立って「北野へ参詣」コ屎二理丘ハ(理兵衛)ニ

     逢」。「小川二帰テ宿」芭蕉も同宿。

 

五月二六日(6―22) 

「雨天」 

終日小川(凡兆宅)。「集(『猿蓑集』)ノ義取立深更ニ及」小川泊。

芭蕉・去来も同宿。

 

五月二七日(6―23) 

「雨天」 

凡兆宅で夕食の後、「北野へ行、道ニテ濡」北野泊。

 

五月二八日(6―24) 

雨上がる。

北野を立って、田中(式昭)へ訪ねて兄弟共に会う。

夕食後小川(凡兆)宅へ行き「宿ス」「北口翁淡州公(小出淡路守)へ行、帰テ座」とある。

この時淡州公四三歳(二条城西千本通りに屋敷)。

芭蕉と共に小川(凡兆)宅に泊る。

 

五月二九日(6―25) 

早朝に油小路(神道家か)へ行き帰る。深井数右衛門を尋終日談ず。

小川へ戻り、中村(史邦)へ行く。夕方祇園へ。

芭蕉・史邦・丈草・治左(芦文)と共に御輿洗の儀式を見物する。

「中村(史邦)ニ宿」

 

河合曽良 近畿巡週日暦  ●六月~

 

『謎の旅人 曽良』村松友次氏著

 

村松友次(むらまつ ともつぐ)

 

 

  •  六月

 

六月一日(6―26) 

晴 暑さ甚し。

中村史郎宅を立って芭蕉・去来・丈草と白河へ行く。

一条寺・二乗寺)の丈山の旧庵(詩仙堂)を見て、下加茂(今、京都市左京区)に遊ぶ。

美濃の素及と関の後藤三四郎に出会う。「帰テ中村(史邦)に宿ス」

 

六月二日(6―27) 

「折々小雨」 

史邦宅を立って、直庵へ行く。北野へ行き九郎兵衛へ用事を通し、

 小川(凡兆)宅へ寄り、中村(史郎)へ行き宿す。

 

六月三日(6-28) 

「前夜より甚雨」

史郎宅を立って、小川(凡兆宅)へ帰って宿す。芭蕉も同宿。

 

六月四日(6―9) 

「甚雨」 

終日凡兆宅滞在か。芭蕉も同宿。

 

六月五日(6-30) 

「甚雨」 

終日几兆宅滞在か。芭蕉も同宿。

 

六月六日(7―I) 

午後二時ごろ雨止む。小川(凡兆宅)を立って北野へ行き、田中(式昭)へ戻って宿す。

 

六月七日(7―2) 

「天晴」 

田中式昭宅を立ち、田中氏兄弟同道で祇園の祭を見て養元へ行「饗有」(馳走になった)。

式昭(もちあき)兄弟に別れて三条符や町へ寄り、小川に宿す。芭蕉と同宿。

 

六月八日(7―3) 

未明芭蕉病気甚し(吐瀉 嘔吐 (おうと) と下痢)。

「北野へ行テ、長者町へ帰テ、又小川(凡兆)へ行テ宿」

(九日の記事に「夜前乙州来テ宿ス」とあり)

 

六月九日(7―4)

「天晴」 

凡兆宅を立って、丈草と共に加茂川の川原涼みを見て「中村(史郎)ニ宿ス」

「今日叡山へ行クヘキノ所翁病気故止ム」。

 

六月一〇日(7-5) 

「天晴」

「翁気色快故今日エイ山へ趣」とある。

八瀬(今、京都市左京区)、寂光院(今、京都市左京区)を見、叡山へ行き、

坂本(今、滋賀県大津市)に下る

(芭蕉この夜より大津乙州宅)。

大津(今、滋賀県大津市)に行き、「志賀を過テ……本福寺(今、大津市)ヲ尋テ宿ス」

「夜ニ入リ小雨ス」

 

六月一一日(7-6) 

「折々小雨ス」

木福寺を立ち、三井寺(今、大津市)を見、

乙州宅へ行き前夜より来ている芭蕉に会い、マタ木福寺へ帰る。

幻桂庵へ行き、石山へ行く。「興景感動スルノミ」大津石山の茶屋泊。            II 

 

六月一二日(7―7) 

「晴のち雨のち雷雨」 

茶屋の七郎右衛門宅を立ち、石山を出て、笠取を越えて朱雀院へ。大津へ行き、

「清閑寺ヲ見テ、中村(史郎)ニ宿ス」

 

六月一三日(7―8) 

「雨止」 

中村史邦宅を立って、田中政昭へ寄って北野へ行き、小川(凡兆宅)へ帰り、

「翁大津より帰玉フ所へ行、暮テ田中へ行テ宿ス」

 

六月一四日(7-9) 

晴 

田中政昭宅を立って、苻や町(麸屋町)へ行く。

建仁寺(京都市東山区)、高台寺(京都市東山区)、

六波羅蜜寺(京都市東山区)を見、麸や町へ戻る。夕方夕立にあう。

 「伊兵衛母義弟ニ逢」「中村(史邦)へ行テ宿」

 

六月一五日(7-10) 

「雨止」「夕方雨降ル」

中村史邦宅を立ち、田中式昭宅へ寄り薬をのむ。(中村史邦宅か)宿ス 夜中不止」

 

六月一六日(7―11)

「雨降ル」 中村宅を立って、小川(凡兆宅)へ行き胴中式昭へ寄って薬をもらって帰り、

「北野ニ宿」

 

六月一七日(7―12)

 晴 

東向の観音の開帳を折々行って見る。「終日旧井氏」と談ず。北野泊。

 

六月一八日(7―3) 

「天晴」「村雨ニ逢」 

北野を立って、大志庵(袋中庵)、遊行寺、東本願寺(今、京都市下京区)、

智積院(今、京都市南区)、万方寺、宝塔寺、瑞光寺、安楽行院に行き、「北野ニ帰宿」

 

六月一九日(7―14) 

「天晴」 

自炊して後、北野を立って、小川(凡兆宅)へ行く。

「翁、去来同道ニテ中村(史郎)ニ行」

「夜二人テ佐野へ招かれる 翁ハ子ノ上剋(ま夜中)去来同道小川へ帰ル」

丈草と中村史邦宅泊。

 

六月二〇日(7―15) 

晴 

「終日中村(史郎)ニ遊テ田中(式昭)へ来テ宿」

 

六月二一日(7―16)

「天晴甚暑」 

田中式昭を立って二条へ行き、大工甚右ヱ門を尋て、「六条ノ安否ヲ問テ」

「小川(凡兆)来 翁同道暮ニ及中村(史邦)へ行テ宿ス」

 

六月二二日(7―17) 

「天晴甚署」 

中村史郎宅を立って「田中(式昭)へ寄テ北野へ帰ル。皆留守」「金兵(金兵衛)ニ会ス宿」

 

六月二三日(7―18) 

金兵衛宅を立ち、小川(凡兆)宅へ行く。留守。

中村(史郎)宅へ行き芭蕉に会い、暮に及ぶ。佐野氏が餐応してくれた。帰宿(金兵衛宅か)。

 

六月二四日(7―19) 

「折々雨降ル」 

暮に及び「雨間ニ礼へ往 帰り宿」(金兵衛宅か)

 

六月二五日(7-20) 

雨 

金兵衛宅を立ち、大津へ行く。芭蕉と大和屋(題屋町)へ同道、三条ノ橋で別れる。

高田を訪ねる。

中村(史邦)宅へ寄り、田中(式昭)を訪ねるが実父元東の会に出掛けて留守。

北野へ帰って宿す。

 

六月二六日(7―21) 

「時折雨」 

北野を立ち、大原野(西京区)に出かけ西岩倉山金蔵寺より山越えして、

丹波道を横切り、法然廟所の光明寺(長岡京市)を経て久我(伏見区)の旅宿(一定宅か)に宿す。

 

六月二七日(7-22) 

「曇」 

久我の旅宿を立ち、八幡(石清水八幡宮)へ。

橋本、「山崎川原(川原騎士へ尋テ会スル内障ル)水無漏殿(今、京都府長岡京市)。

金龍寺へ登る。能因の塚等を見、暮てから、芥川(今、大阪府高槻市)の旅宿に宿す。

 

六月二八日(7―23)

 晴 

芥川の旅宿を立ち、ソウ持寺(総持寺)へ行き、郡山へ出る。

「勝尾寺・箕面・長良ノ渡越、生玉ニ至ル 北口祭礼有 山口浄(常か)春(生玉神子町)ニ宿。

奈良・京・江戸ノ衆卜会」  

六月二九日(7-24) 

快晴 

生玉の浄(常)春宅を立ち、堺(大阪府堺市)へ行き、

帰りに住吉(大阪市住吉区)、天王寺(大阪市天王寺区)、チヤウス山(茶臼山)を見て帰る。

生玉神子町の浄(常)春宅泊。

 

  •  七月

 

七月一日(7―25) 

生玉の浄(常)春宅を立ち、桜井を尋ねて談ず。平野町(今、大阪市東区)へ状届く。

弓屋へ行き弓の話をする。チカンを尋ねて逢わず。真田の出丸(天王寺区)その他を見て帰る。

余白に数字、三二四一八 不明)生玉神乙丿町の浄(常)春宅泊。

 

七月二日(7―26) 

「快晴」 

生玉の浄(常)春居を立って若江(東大阪市)へ寄る。

高安明神(今、八尾市)、藤井寺(今、藤井寺市)。「古市(今、大阪府羽曳野市)ニ宿ス」

 

七月三日(7-27) 

「快晴」 

古市の旅宿を立って、上太子(叡福寺、太子町)に行き、「水分ニ到、三郎兵ヘヲ尋、子二人ニ逢う」

「水分社(大阪府千早赤阪村)観修寺(未詳)ニ往テ、空心ニ逢」

千早城(大阪府千早赤阪村)を見て金剛山峯に到ル、「西室坊ニ宿ス」

 

七月四日(7-28) 

「天晴」 

金剛山の西室坊を立って「高天寺へ下ル」薬水を経て左名伝へ出て、下市に着く。

「未ノ上剋広瀬ニ着、宿」

 

七月五日(7―29) 

「天晴」

途中夕立にあう。広瀬を立って、「洞村ニ到」「山上(大峰山山上ケ岳)ニ到」

大峰山の「南坊ニ宿」

 

七月六日(7―30)

「雨止」 

大峰山の南坊を立って西ノノソキカネ岩などへ登って下山。

広橋(推定)に帰る。孫七留守。夜になって帰宅したか。広橋(孫七)宅泊。

 

七月七日(7―31) 

「天晴」「折々雲」 

佐野へ手紙を出す。広橋泊。

 

七月八日(8―1) 

「天快」

「広瀬ヲ立」畝大(橿原市)、高田(推定。大和高田市)、当麻、達磨寺。

     「宿不信シテ迷 同所吉村与惣兵へ(王寺村庄屋)ニ頼宿ス」

 

七月九日(8―2) 

「晴」 

吉村与惣兵衛方を立つ。「ダルマ開帳」本宮(竜田大社。三郷町立野)を拝す。

広瀬明神(河合町)、法隆寺(斑鳩町)、薬師寺(西ノ京町)、西人寺(西大寺町)、

法花寺(法華寺町)、奈良町を経て「鴨ニ到ル宿ス」

宿は鴨の旅宿(加茂。京街道と伊賀街道の分岐)。

 

七月一〇日(8―3) 

「天気吉」 

鴨の旅宿を立つ。カサギ(笠置)。伊賀上野に着。意専(猿雖)と夜更けまで語る。

 

七月一一日(8―4) 

「甚暑」 

意専方に滞在。小川(不明)へ行き「お染ニ逢う」「六右衛門より帰テ便ヲ聞」

伊賀上野の意専(猿雖)方泊か。

 

七月一二日(8-5)

 「天気吉」

意専方を立つ。「ヒサヒ(久居)ニ到ル」(久居、三重県久居市)「長(超)善寺ニ宿ス」

 

七月一三日(8-6)

 晴 

久居の超善寺を立ち、伊勢(伊勢神宮)の外宮、内宮。宇治(伊勢市の内)

     「イソノ宗九良(宗九郎)ニ宿」幽玄へ便りを書く。

 

七月一四日(8-7) 

「天気吉」 

(伊勢市)宇治のイソノ宗九郎方を立って、磯部(今、三重県志摩郡)五十鈴川、

大杉谷(今、三重県宮川村)のト之助を尋ねる。友之丞案内平太夫などに会う。

 イソノ宗九郎方泊。

 

七月一五日(8―8) 

晴 「夜ニ入り甚雷雨」 

イソノ宗九郎の宿を出て伊勢神宮にて「早朝より中臣講ス」イソノ宗九郎方泊。

 

七月一六日(8―9)

 「未明雨止」

(伊勢市)宇治の宗九郎方を立つ。「肘刻へ削テ預シ物ヲ取ル。留守」

「クモヅ(津市営出)ニ宿(旅宿)躍故不寝」

 

七月一七日(8―10) 

「明方降ル」時々雨 雷鳴 雲出(津市)の旅宿を立ち、夕立に会いながら夕方、

 桑名(三重県桑名市)に着き「大鳴(長島領内)へ渡テ安田左五衛門へ音信シテ」

小寺五郎左衛門方に宿す。

 

七月一八日(8―11)

「天気吉」 

伊勢長島の小寺氏宅を立ち、「小芝(小右衛門縁者か)・森へ尋森ニ宿」

 (森は、長島の森恕庵玄忠由軒(藩医))

 

七月一九日(8-12) 

「時々雨 」

政ヱ門が来たので森氏の家を立って小芝へ同道し、安子(安田か)へ行き森氏宅へ帰って宿す。

 

七月二〇日(8―13)

「天気吉」

白井源兵衛重高へ呼ばれる。藤田八郎左衛門雅純(俳号、蘭夕)へ招かれる。

小寺五郎左衛門氏宅へ「帰テ宿ス」

 

七月二一日(8―14) 

「天気吉」 

小寺氏の家を立って、森氏へ行く。配列(刻この会あり、終って小寺五郎左衛門氏宅へ帰って宿る。

 

七月二二日(8―15) 

「天気吉」 小寺氏宅を立って、安田、大智院を尋ねる。「森氏へ帰テ小芝(小右衛門縁者か)ニ宿」

 

七月二三日(8-16) 

「天気吉」 小芝氏宅を立って、森氏へ行って、渡部平六部氏に招かれ、「安田(左五衛門)へ行宿」

 

七月二四日(8―17)

 「晴」 

安田氏宅を出て、小寺氏宅へ帰る。白井氏より招かれ、暮に及んで光丘寺(不明)へ寄り、

「小芝(小右衛門縁者)ニ宿ス」昨日高須(不明)より使有り、こちらからも使いを出す。

 

七月二五日(8-18) 

「朝曇、昼カラ清明、暑気」 

小芝氏宅を立ち、小寺氏宅へ寄り松井氏へ寄る。(宿泊先不明)(ここで記録終る)

 

この近畿巡週日暦は、久富哲雄氏を中心とする俳文芸研究会の永年にわたる研究調査に基き、

特にその会員谷地快一氏の加筆協力を得て成った。

また清書および京都市内の曽良行程図(巻末折込)作成は関夫久子氏の手を煩わした。記して感謝する。