虹色オリハルコン

命にエネルギーを与えるパワーの力

命からエネルギーを奪うフォースの力

どちらを選ぶかは自分次第

悲しき10年後

2017年03月22日 | ふと思ったこと

十年一昔と言うけれど、ブログも10年以上続けているので、10年前の自分の思考というものも、再確認できたりします。
おとなになってからの10年は、本当に瞬く間のよう。
でも、今から思えば、10年前は、まだ迷いもあり「怒りを手放す」という自分への課題を出して、乗り越えていこうと思っていた頃で、今から思うと恥ずかしかったり、未熟な部分も見えてきます。
(もちろん今はさぞや立派な人間になったという意味ではないですよ)
ブログの活字のフォントも、少し大きくしないと見づらいとか、年相応に劣化した部分もあります。

ふと思い立って、10年前の3月はどんなことがあっただろうと、過去記事に戻ってみたら・・・

そうだった。2007年都知事選の前。
結果は、ご存知のように石原慎太郎氏が3選を果たしたが、私は彼が出馬しないことを心から望んでいました。
あの時、彼が、立候補していなかったら、あの時、都民が彼を選ばなかったら・・・と、「たられば」は考えると虚しいけれど、オリンピックも豊洲も、今とは違った現実になっていたのだろうと思います。

2007年3月21日の記事「出たい人より出したい人を」をみたら、石原さんに対して

続けると後が大変ですよ。都民も国民も本人も。

・・・なんて、書いてた。それ見たことか、と言えないのが悲しい現実。
人間の好き嫌いをはっきり表現していた当時は、まちがいなく石原さんは「嫌いな人」でしたが、今となっては哀れさばかりが募ってきます。
どういう人にも役割があるとするなら、彼もまた反面教師として学ぶべきことはあるのでしょう。

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悲しいアメリカの始まり 打ちのめされても立ち直ることの大切さ

2017年01月23日 | ふと思ったこと
就任初日から、大統領令で、TPP離脱とかオバマケアの廃止とか。
トランプは言ったとおりのことをしてるけど、アメリカの人たちの分断の悲しみを感じとれるだろうか。

NHKbsで、「ザ・リアル・ボイス“ダイナー”からアメリカの本音が聞こえる」というドキュメンタリーを見た。
米国各地にある「ダイナー」。ファーストフード店とファミレスが合わさったような、庶民の集まる昔ながらのレストラン。
ダイナーとは、もともとは列車の食堂車の意味で、店によっては、扉を開けると、それらしく横長の厨房とカウンターが中央にあるような店構えである。

こんな風景みたことあるなあと、記憶をたどると映画「バック・トゥ・ザ・フューチャー」の1955年の一場面だ。
いじめっ子ビフ・タネンの一味がたむろしてゲームなんかしている場所。
・・といえば、あの映画の悪役ビフ・タネンのモデルは、ドナルド・トランプだったって言うから…まったく何の因果なのでしょう。
http://www.afpbb.com/articles/-/3063967


話を元に戻すと、トランプ氏への賛否について、番組は米国各地のダイナーに来るお客さんの声を拾い集めた。
例によって、都市部の店は本気で怒っている人が多いが、うらぶれた製造業の街の店ほど、トランプに期待する声ばかりだ。

トランプの話題だけでも食傷気味なのに、見ながらさらに思った。「私は、アメリカ生活無理」と。
実は、次々と運ばれる料理と、お客さんたちの食事風景に、見ているだけで胃もたれが・・・
人様が美味しそうに食べているものに対して、文句を言う筋合いもなしだけど、ごめんなさい。一言だけ。
野菜が少なすぎるだろ、盛り付けが乱暴すぎるだろ、肉食べ過ぎだろう!・・って話している内容より、食べ物に食傷して、番組も見ていられなくなっちゃった。

前にコメント欄でtamaribaさんが教えてくださったのだけれど、

(オバマ夫人の)ミシェルさんが子どもたちにバランスのとれた給食を言って野菜や果物を増やしたら子どもたちの残飯が増えたとか…


この番組見たら納得しました。普段、こういう食生活していたら「さもありなん」
バービー人形みたいなトランプ夫人は、ダイナーで食事なんかしたこともないということは想像に難くないが。

アメリカでも知識人や金持ちほど、ベジタリアンだったり和食を好むと言うから、格差は、健康に関わる食生活にも及ぶ。
食べようと思えば、金持ちでなくても、とりあえず雑穀、味噌汁、漬物が食べられる日本人でよかったと思う。


これから、何がおこるのか、アメリカの集合意識レベルは、日本とは違い、また下がったから、嫌な予感しかない。
フォースは逆フォースを必ず産む。銃社会アメリカの負の部分。穏便にすまないかもしれない。と思うと悲しみが増してくる。


気を取り直して、オバマ大統領の最後の記者会見・娘達へのメッセージを。



オバマ善大統領が最後の記者会見で娘達に語った言葉

「しかし同時に、私たちは立ち直ることと、希望の大切さを教えてきました。結局、それが一番大切なものなのです。私たちは、たとえ打ちのめされても、立ち上がって自分がやるべきことをやらなければいけないのです」


8年前は小さなお嬢ちゃんたちだった二人が、大きくなりましたね。オバマ夫妻を見て育った二人は、これからどんな人生を歩むのか。と思ったりすることも、希望につながります。


・・・アメリカの人たちに、幸がありますように。
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なんちゃって実験かも

2016年09月09日 | ふと思ったこと
馬鹿だなあ、北朝鮮。そんなことすればするほど、自分たちの首を絞めるのに・・・

信じる信じないはご自由にって、あらかじめ書きますが、北朝鮮の核実験、毎度のことながら、「なんちゃって」としか答えが出ません。
以下、私どもの勝手な妄想話ととらえくださって構いませんけれど。

かつて「核」持っていなくても「核を持っていると言うことで、強く見せたかった」と言ったのは、米軍に捕まったイラクのフセイン大統領だったけど、金正日の時代に、同じことを考えたようだ。
「なんちゃって」でもなんでもいいから、核持っているぞと見せかけろ、と。敵を騙すには味方から。それを知っていたのは、金正日とその周辺の側近たちだけ。
金正恩も、知らされていなかったので、本当に核実験に成功したと思っていたようだ。今も思ってる。
金正恩体制になって、それを訴えても、本人の意に沿わない意見を言えば簡単に粛清される。こわくて関係者は、核を作れなくても核を作ったというしかない。
実験だって、地面の下で、核もどき実験をしているのだろう。まさしく「人工地震」以外の何物でもなくても。

人の心は、一旦恐怖に染まると、枯れすすきも幽霊に見える。最初は憶測だったはずが確定になる。
どっちもどっちのリーダーなので、チキンレースの真っ最中にも思えてくる。
またぞろ、軍備増強、日本も核を持て、という話もでてきそう・・・もう、なんだかなあ・・・



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 北の水爆実験は虚偽



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官邸への放射能ドローンと神社仏閣への油かけで思ったこと

2015年04月28日 | ふと思ったこと
官邸ドローンの犯人は、自首してきました。
また、日本各地の有名神社仏閣への油かけも、似たような人物と思われる者が、防犯カメラに映っていたとのこと。

まったく、どちらもひどいことするなあと思いますし、犯人を批判するのは簡単だけれど、なんだか心に引っかかるものがある。

それは福島のこと。
個人がしたことは、逮捕されて終わりますが、有無をいわさず、自分の土地の放射能汚染や先祖から受け継がれた家宝の破損、同じことを、国をあげてしてしまったのではないですか。




先祖代々伝わる大切な家宝が、野生動物に荒らされた家の中で壊されてしまったこと。
住んでいた土地も家屋も放射線に汚染されて、住めなくなってしまったこと。
官邸のドローンは撤去され、油をかけられた神社仏閣は修復できるかもしれないが。
しかし、福島の原発事故被災者は原発事故によって全てを失った。
この件に関して誰も逮捕されず、この責任を誰も取らない。
その罪の重さは、官邸ドローンや油かけの比ではないと思うのですが。

明るい日差しが降り注ぐ、連休の前の心躍る季節だからこそ
いつもどこかに誰かの悲しみがあることを、心の片隅においておきたい。
 
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光はある

2015年01月24日 | ふと思ったこと
24日のTBSテレビ・報道特集によれば、昨年10月には、外務省や政府は、後藤健二さんの誘拐情報を把握していたということだ。

ならば、なおのこと、もし邦人を守ること最優先にするならば、水面下で交渉したり、中東に向ける言行には特に注意すべきだったのに、やっていたことはまるで逆。
わざわざ中東を歴訪して、イスラム国対策のためと支援の方針を明らかにするなど、挑発して人質を危険に晒したとしか思えない。

殺人予告ビデオの後も、安倍さんはイスラエル国旗の前で会見したり、テロとの闘いの先陣をきっている米英に協力を要請したりと、これじゃ露骨に挑発しているようにしか見えない。

安倍さんは、霧の中で生きているように見える、と前にどこかで書いたけれど、あいかわらず五里霧中なのか。
前々から、安倍政権の人達、うかつ、うかつと思っていたけれど、フォローするはずの外務官僚も含めてここまでダメだったとは・・・

こんなにだめじゃ、さすがに日本人も安倍政権に対して目が覚めるよね、と不思議人間に言ったら、「いや、まだまだだ」とやけにはっきり明言するから力が抜けた。


関連サイト
 http://lite-ra.com/2015/01/post-810.html

****


・・・どんより気分を、晴らしてくれるような美しい光の画像でも御覧ください。CGでも作り物でもない。

氷晶が生み出す、光のダイヤモンド
(ナショナルジオグラフィックニュース)



氷の結晶によって屈折した太陽の光が、雪をかぶった稜線の上で弧を描いている。
ニューメキシコ州レッドリバーで撮影。(PHOTOGRAPH BY JOSHUA THOMAS)



私達の世界は、一方では悲しみに溢れても、また一方では不思議と驚きに満ちている。どんな時でも、見えない救いはきっとある。



1月25日追記

 昨晩遅くに、イスラム国から新しい画像がアップされました。
 湯川さんのこと、残念でなりません。後藤さん、どうかどうか、ご無事で帰ってきてください。


1月26日追記

 一つ前の記事でご紹介した署名サイト、名称を変え続行中です。
 [緊急署名]日本人人質、後藤健二さんの人命を救ってください
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イグアナ

2015年01月15日 | ふと思ったこと


うちのイグアナが一番! インドネシア中部

イグアナの体型や健康などを競うコンテストに愛好家が集合(アナトリア通信・ゲッティ=共同)
(共同通信) 1月11日(日) 13時47分


イグアナ、人にも慣れるようですね。見れば見るほど、興味深く美しい不思議な生き物。
(写真クリックで大きな画像が見られます)

そういえば、昭和天皇が崩御された時、テレビがすべて喪一色になってしまったので、「V」というアメリカのテレビドラマシリーズのビデオをレンタルショップで借りて見ていました。
他の惑星からきた爬虫類の知的生命体が、人類を制圧しようとする物語で、彼らをナチにたとえ彼らに抗する地球人たちを、レジスタンスのように例えていました。Vとは、ビジターの「V」だけど、ビクトリーの「V」でもあった。

最近話題のフランスの「表現の自由」。人間はいろいろなことを考えるものです。でも、風刺であっても、思わず眉をひそめたくなるようなもの、笑いたくても笑えないものを風刺と言われても・・・あまりにも暴走してしまうのもいかがなものかと思いました。
意見は自由だし、権力や暴力で言論を封じるのも間違っている。それだけは言えますが。
・・・でも、自由の底辺には、いつも人や命への尊厳がないとね。

それぞれの立場立場で、それぞれの正義がある。一方の見方をすればテロリストでも、また別の視点ではレジスタンスにもなる。難しい。
だからこそ、心の一番デリケートな部分に土足で踏み込むようなことをして、わざわざ争いの種を蒔いて育ててはならないとも思う。

「V」のようなドラマを作っても、爬虫類たちが怒らなかったのは、本当によかったです(笑)
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年末モード堪能中

2014年12月26日 | ふと思ったこと
個人的なことを言えば、昨年11月に父を見送り、介護が終わった。
しかし、心も体も、簡単に切り替えモードにはならず、上がったり下がったり、ぐだぐだと1年。
なくなった直後、不思議人間が、父から受け取ったメッセージは「疲れをとってくれや」だった。
当時は、1~2ヶ月位はゆっくり休んでもいいよね、というくらいの受け止め方だったけれど、あにはからんや、その後ほぼ1年は、気力体力が追いつかず、なかなか立ち上がれなかった。
ようやく最近になって、世間と歩調が少しずつ合ってきた感じ。

そういえば、介護生活には日曜日も盆も正月もなく、修行僧のごとく毎日同じことの繰り返し。
いつか、旅に行きたいとか、美味しいレストランで食事したいとか、誰かに会いたいとか、そんな願望もすっかり消えて、それが習いになってしまった。

父のメッセージ「疲れをとってくれや」が1年後まで効いているとは、思ってもいなかった。

今年は、はじめて25日までに年賀状を出せた。ほったらかしだった庭も少しずつ片付いてきた。大掃除も、好きなときに好きなだけできる。

昨夜は、深夜まで小田和正さんの「クリスマスの約束」を見て、「圧巻」という言葉の意味を体で実感した。歌の圧に巻かれたの(笑)
2009年の約23分間の出演者全員の歌のメドレー。すごかった~。
歌のエネルギーに体の細胞が共振しまくり?・・・心と体にものすごく元気をもらった。

 韓国の動画サイトらしいがネットでも見つけた→http://tvpot.daum.net/clip/ClipView.do?clipid=25264190

今年は、年末らしい年末を過ごしているなあ、としみじみ思う。

疲れがたまっているときは、休みをとることも必要な時間じゃないかって思える。
あせる気持ちを抑えて、エネルギーをチャージする。時が来れば、よい未来は必ず訪れると今なら思える。


今年はこの記事で終わります。
今年もお付き合いくださいましたみなさま、本当にありがとうございました。
また、来年もよろしくお願いいたします。どうぞ良いお年をお迎えください。 


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緑あふれる惑星

2014年08月19日 | ふと思ったこと




立秋も過ぎ、お盆も過ぎ、子どもたちの夏休みも半分以上過ぎた。
しかし、蝉の声は今日も世界に響き渡り、ショウリョウバッタは、小さな庭のシソの葉に襲いかかるなり。
アゲハチョウは、サルスベリの花から、ゴーヤの花めがけて、緑のカーテンを舞上る。

夏は、虫たちが命を謳歌する季節でもありますね。


そういえば、菅善総理が以前「植物党」を作りたいと言っていたけれど、菅さんが言われていたように「地球の生物は、植物によって生まれ生かされている」という事実を忘れちゃならないなあと思います。
原発再稼働のために「停電になったら死人が出る。」と脅しをかけていた人もいたけれど、この世から植物が消えてしまったら、すべての生物が死に絶えてしまいます。電気も大事だけど、その重要さはとてもじゃないが電気の比じゃないよね。・・・な~んて話はさておいて。


bs朝日の「BBC地球伝説/緑の惑星」が、おもしろいんです。第2回は、「花の誕生

植物の一大革命は、「花」が生まれたこと。
それまでは、花粉は風に頼って、運ばれていたものが、花が生まれたことにより、花と共存する生物が生まれた。花粉や蜜を求める虫はもちろん、動物も花がつくる実を食べることで、種が運ばれ、共存共栄の道ができた。

花や果実は、より効率的に子孫を増やすため、受粉や、種の運搬を特定の虫や動物にターゲットをしぼり、昆虫や霊長類だけが見分ける色を持つように進化した。

それは驚くべきスピードで「突然変異」を繰り返した、とナレーションでは、いっていたけれど・・・



オルフィウムとクマバチ(「緑の惑星」より)

 

たとえば、南アフリカ共和国の、とある崖の下に咲く「オルフィウム」というリンドウ科の花には、蜜がない。
この花は、クマバチだけに特化して、花粉を供給することで、自分と同じ花だけを行き来してもらうことに成功した。
また、クマバチは、他の虫と競争することなく、独占的にオルフィウムの花粉を享受できるという、ウィンウィンの関係。
つまり、そのクマバチのだす特別な羽音だけに反応して、雄しべが開き花粉が出てくるという、互いがいなければ、種として成立しない密な関係を構築している。(蜜はないのに)

植物が虫をよぶために進化したように、虫たちも、植物とともに進化しなければ、共存共栄の道は開けない。
それはどちらが先というより、同時に起こらなければならないという不思議。



スギナと同調するバッタ



虫と植物の関係においては、「同調進化」という可能性があると思う。
つまり、虫と植物は、別々の個体ではあるけれど、地球全体をひとつの進化する生命体と考えてみると面白い。
たとえば人の体で、右手と左手の爪が同じ早さで伸びてゆくこと、それは右手の爪、左手の爪はそれぞれ別の存在でありながら、同じ体の一部である、とわかっているから不思議には思わない。
同じように、植物も虫も動物も、同じ地球という生命体の部分だとしたら、それらの一部として、互いが同調しながら同時進行で進化してきた・・・と。

多分こういうことが、以前、うちの不思議人間が口走った、「共鳴」するということの一つの表れじゃないかって思った。
(参照:真実は共鳴し続ける


★アゲハとバッタの写真は「写真素材足成」よりお借りしました。




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成功のコツは、お金のことを考えないこと

2014年05月12日 | ふと思ったこと




お金を目的にすると 全部発想が止まっちゃう

お金を目的にすると、ドーパミンがでて
目当ての物がゲットできた時は、うれしいけど
できなかった時は、ノルアドレナリンが出て
体をそこなう

成功のコツは、お金のことを考えないこと

世の中にいいものをつくろう、ひとに親切にしよう
すると自分もセロトニンがでて、脳が活性化する

そういうふうに、脳は神様から作られている




 ・・・と、今日、我が家の不思議人間が申しておりました。
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世界を動かす大きな力

2014年04月03日 | ふと思ったこと
2007年に書いた記事で、古くて恐縮ですが。
薬害と製薬会社のおっぱっぴー

この記事で、「病気にならない人は知っている」という本をご紹介しています。
繰り返しになりますが、もう一度ご紹介したい部分がありますので以下に再掲します。



そしてもうひとつ、「病気にならない人は知っている」という本に、製薬会社の経営者の本音を表すものすごい告発が載っていました。以下青字243ページより抜粋します。太字は私の判断です。

私は本書を通じ、先駆者の一人として、製薬会社の内部から進み出て、大手製薬会社の経営者に関する真実を明らかにするのである。皆さんは製薬会社の経営者というものは、人類のために病気を予防・治療することのみに情熱を注ぎながら人生を送っている人々だと思っているかもしれない。だが私は彼らの化けの皮をはぐ。
彼らはこの世から病気をなくそうと努力するやさしくて情け深く、徳の高い人々ではない。飽くことのない金銭欲にまみれ、仰天するほど人間に対する敬意を持ち合わせていない、けた外れに裕福な人々だ。彼らの目を見て握手するなら、あなたも身の危険を感じるだろう。
ヘルスケア業界には病気を治したいという動機はない。信じられないかもしれないが、彼らの関心の焦点は、より多くの人が確実に病気になり、治療を必要とすることにある。皆さんの病気を治してしまったら、ヘルスケア産業としては商売上がったりだ。この業界は『健康』産業というより、『病気』産業と呼ばれるほうがふさわしい。病気の人を見つけて法外な金額の薬を売りつけ、高額な手術や治療を受けさせることで儲けるビジネスなのだ。その利益はアメリカでは年間1.3兆ドルにのぼる。
私は大手製薬会社のCEOたちが次のような言葉を言い放つのをこの耳で聞いてきた。

「この薬が肝臓にどれほど害を与えるかなんてことはどうでもいい。さっさとFDAの認可をとれ。しかるべき人間に金を渡せ。必要なロビイストを押さえろ。とにかく認可をとるんだ。そうすれば株価は3倍にはね上がる。株を売り抜けて我が社は前へ進む。5年後にFDAが肝臓への害を見つけたら、薬が市場から回収されるまでだ。だがそんなことは構いやしない。その前にこっちには金が入ってくるんだから。とにかくやれ」

私の燃えるような怒りがお分かりただけるだろうか?


【注】FDA:アメリカの、食品医薬品局。有害食品・有害薬品の調査・摘発を行う政府付属機関。

--------------------------


この世には、人の命を助けることより、経済や株価が重要だと思う人が、世界を動かしているということがあるのですね。

今は資本主義の世の中だから、どんな政治家もどんな研究者も「株価」というモンスターにはかなわない
(だけど、キューバやコスタリカは医療が「ただ」という国。そういう国なら株価とは関係無いですね。)


気づいた人は、自分の心と体を、洗脳社会の「~ねばならない」という呪縛から解き放とう。いつか世界が変わると信じて。



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治せないのか、治そうとしないのか

2014年03月27日 | ふと思ったこと
STAP細胞に関して、小保方さんの論文に抜けがありすぎたとしても、現実に偶然に出来てしまったSTAP細胞の可能性に対しては、窓口を閉めたらいかんと思います。

論文の引用文には出典を書かなければいけないということや、写真の切り貼りをしてはいけないということが(もちろんそれは当然のことだけれど)、ips細胞よりもがん化のリスクが少なく容易に作れた万能細胞の可能性を追求することよりも、重きを置かれてしまうなら、本末転倒じゃないですか。
ましてや、研究内容とは何も関係ないところで、小保方さんの人間性や人格攻撃に向かうのは、正義面したマスコミのいじめにしか見えず、非常に気分が悪くなります。

  

新潟大学の医学部教授・安保徹先生の著作の中で、今の医師と医学を批判している部分があります。治すことよりメンツ優先、たとえ治せなくても「今まで通り」がよいという慣性の法則が働いてしまう偉い先生たち。
治る医療は、すぐそこにあるのに。答えがあっても「ない」と思い込んでしまう。なんとなくSTAP細胞と似た感じ。(いや、ぜんぜん違うから・・・と、気色ばんで即ツッコミを入れたくなる方もいらっしゃるだろうけど、私にとっては同じことなのよ。)

以下、今の医学の問題点を指摘しています。

安保徹著「病気を治せる医学」p200より

「治せる医学」に興味なし 

 アトピー性皮膚炎の治し方やガンの治し方を医者の前で講演しても、多くの医師たちはあまり興味を示しません。感動して興奮するのは、20人に1人くらいのものです。病気を治せるというのですから、全員が興味を示して当然と思うのですが、そうはいきません。
 医者はプライドが高く、長い間自分がやってきた行為を否定するのが怖いのでしょう。
やはり、「治せる医学」は若いうちから教えないと身につかないのだと思います。医学生はまだ先入観がないので、素直に私の考え方を聞いてくれます。
「治せる医学」がこのように広まる速度が遅いのでは、益々多くの犠牲者が増えるので、一般書を出して患者側からの啓蒙が必要になるのです。


治らないのが当たり前と思い込んでいる医者

 ある新潟県立病院の病院長の就任挨拶が新聞に出ていました。驚いたことに次のようなことを述べていました。
「病気はなかなか治らないものなので、病気と仲良く生きていく必要がある。それがこれからの医療に必要な心構えである。医師も患者もこういう正しい考えを持ってほしい」というのです。
 長い間「治せない医療」を実践し、不思議な考えにとりつかれてしまっているとしか考えられません。こういう医師が指導的立場にあるので、実情はたいへんなのです。


治っては困る?薬の売り上げに頼る大病院

 臨床系の大学病院や大病院の院長クラスのいわゆる指導的立場にある人ほど、病気の謎に気づきにくいようにみえます。たくさんの製薬会社のセールスマンが薬の売り込みをかけていることと、無関係ではないように思います。
 現代医学は薬の売り上げで成り立っている面が多いので、薬を扱う指導的立場の人は徹底的にセールスマンに誉められます。誉められて悪い気はしないので、ますますたくさん薬を使用する医療から抜け難くなると思うのです。
 地方では、医師不足が叫ばれる一方で、大都市では医者があふれています。医者ひとりいれば、スタッフも必要で、それぞれの生活がかかってくるので、多くの薬を使って利益をあげなければなりません。
 現代の医療を直すには、薬に頼る経営から、病気を治すことでお金を受け取る経営に変えていかなくてはなりません。「治せる医学」を導入すれば患者はどんどん減ります。医者の数を減らしていく必要すら、出てくるかもしれません。



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「八重の桜」最終回を見ながら思ったこと

2013年12月18日 | ふと思ったこと
今年の大河ドラマ『八重の桜』は、ほんとうに色々と考えさせられたし、胸に迫るシーンがたくさんあって、私の中では、もう単なるドラマの枠を超えていた。
もともと、大河の主流である幕末ものや戦国時代に、個人的には興味が無いというか、あまり好きじゃないので、私自身、こんなに魅入られるとは思ってもいなかった。
大好きな福山さんの『龍馬伝』すら後半は、残虐シーンがつらくて見るのやめてしまったし・・・。

幕末モノは、誰に焦点を当てるかで、時代の見方ががらっと変わってしまうものだ。今回の『八重の桜』を見ながら誰が正しくて誰が間違っていたかなどと、一言ではとても言えないのだと、教えられた気がした。
逆賊の汚名を着せられた会津藩が、とても誇り高くまっすぐに生きてきたことを知った。ドラマの前半はそれで十分満足だったけれど、負けたあとの後半にこそ、このドラマのテーマがあったのだと思った。

何をしても人一倍の能力を見せてくれる八重さん。だけでなく、会津出身者では、京都府政の礎を作った兄の山本覚馬はじめ、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)と同僚になったという秋月悌次郎、山川浩・健次郎・捨松の山川家の兄弟姉妹など、明治になっても活躍した人々が多く、文武両道、教育がゆきとどき、教養豊かな人々を作った会津という国の懐の大きさを感じた。もし、戦争なんかしないで、死なずにすんだ会津の人材が新しい国造りに参加していたら、また違った日本の姿ができていたかもしれないしね。

人を殺すことに正義などなく、誰かを打ち負かすことが、喜びではなくて、次の憎しみを生んでしまう。
維新の誰もが、不完全で未熟だった、しかし歴史を動かしたそれぞれが、一生懸命に良かれと思ったことをしていたのだ、というメッセージは伝わってきた。

ドラマ後半は、戦いのあとの喪失感や心の葛藤に悩みながら、新島襄というかけがえのないパートナーに出逢い、心を救われて再生していった八重さんの姿。
それらを通して、番組の本当のテーマは、人生は勝ち負けではなく、愛をもって支えあうこと、戦うことの虚しさを知り、相手を許し、憎しみを乗り越えてゆくこと、・・・だったんじゃないかと、ひしひしと感じて、知らずに涙が出てくる場面が多くて・・・参ったよー。


   


今現在、明治維新の時代に戻したいような安倍政権が復活したおかげで、現在に通じるメッセージがタイムリーに伝わってくるのは、偶然だったのか。

新聞社を立ち上げた徳富蘇峰は、同志社大学の前身である同志社英学校の出身で、新島襄や八重さんの教え子に当たる人なのだけれど、日清戦争の記事を書くにしても、勇ましいことばかりを書いていた。
八重さんが創立したばかりの日赤の看護婦として働いていた広島の従軍病院を訪ねてきて、戦況を病人にまで取材する姿。思わずたしなめる八重さん。



だが、彼は、「今は士気を鼓舞する記事を優先する時だ、読者もそれを望んでいる」と言い放ち、聞く耳を持たなかった。

その上、自由党の板垣退助のところにまで出向いて、「講和会議には、強い態度で臨め、国民はそれを望んでいる」と、強硬外交を唱える。



戊辰戦争を戦い、たくさんの悲劇を目の当たりに見てきた板垣は、「おぬし若いの」と一喝するが、彼の耳には、何も届かない。
当時のすべての新聞社は、皆こういう論調であったという。

京都の八重さんの茶室で、八重さんと蘇峰の会話は、とても印象的だ。
八重さんのたてたお茶を飲み干した蘇峰は、急いで東京に戻ろうとする。それをとめる八重さん。

「もう一服してゆきなんしょ」

「急いで東京にもどらんといかん。時局が切迫している時ですけん」

「徳富さんの国民新聞、近頃は、政府の機関誌のようですね」

「軍備増強ば、あおっちょるということでしょうか」

「・・はい」

「国家のためです。私は国を愛するものです」

「襄も愛国者でした。
 でも、襄が愛した国というのは、そこに暮らす人間、一人ひとりのことです」

「・・・・」

「同志社にきた頃、徳富さんは自分の目で世の中の本当を書きたいと言っていた」



「言論が人を動かす時代がきたっです」

「その力を何に使うのですか」

「え?」

「人を動かす大きな力を」

「・・・・」



力は、未来を切り開くために、使わねばなんねえよ


「・・・・」

「昔、私が生まれた会津という国は、大ぎな力に飲みこまれた。
 わたしは、銃を持って戦った。最後の1発を撃ち尽くすまで。
 ひとりでも多くの敵を倒すために
 だけんじょ・・・もしも今、わたしが最後の1発の銃弾を撃つとしたら・・・」


会話はそこで終わる。
しかし、映像は続く。スペンサー銃を持ってお城に立てこもった若き日の八重の姿。
彼女は、最後の弾を、高く空に向けて撃った。
それは、人を動かし、戦をしむける「大きな力」に向かって撃ったのだろうか。
そして、もう、他者に向けて銃弾を撃たないという決意、戦さをしないという決意の表れであったかもしれない。


  


史実とはいえ、ドラマだから脚色はあるだろうけれど、このような良質の物語を書いてくださった脚本家の山本むつみさんには、心から拍手を送りたい。

八重さんの願いもむなしく、この後、時代は、日露戦争へと進み、そして、日本を含めた世界は、世界大戦に向けて突き進んでいった。
1945年、日本の国土にふたつの原爆が投下され、一瞬にして数十万人もの普通の人々の命が奪われた。
日本は、2度と戦争をしないと憲法で誓った。
たくさんの人々の命の代償、血と涙の結晶が、今の日本国憲法だ。それを忘れてはなんねえよ。

(ところで、八重さんが徳富蘇峰に「近頃は政府の機関誌のようですね」と言ったのを聞いて、思わず、読売と産経を思い出したのは、私だけではありますまいて。)


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悲しみによりそう時間

2013年10月19日 | ふと思ったこと



悲しみは 古い仲間
 
                  やなせ・たかし

 
そこにいるのは悲しみか
霧がふかくてみえないけれど
こっちへおいで悲しみよ
ぼくに涙をわけておくれ

ひとりぼっちの悲しみよ
つらい心でうなだれているね
なかよくしよう悲しみよ
ぼくとおまえは古い仲間

どこへ行くのか悲しみは
くらい荒野を涙こぼして
昔なじみの悲しみよ
ぼくを今夜は泣かせてくれ




   「詩とメルヘン」1974.10月号より



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悲しみというとネガティブなイメージはあるけれど、悲しみは哀しみ。
人生の喜怒哀楽を考える時、喜と楽はうれしい。怒は、外に向かう。
哀はどうだろう?・・・喜怒哀楽の哀こそが人の心の内側に、最も深く入りこんでくるのではないか。

人生には、突然の病に倒れたり、事故や災害に直面したり、信じていたものに裏切られたり、愛するものとの別れがあったり、・・・なんで?と思うような理不尽な出来事が襲って来る時がある。
しかし、いいことばかりではわからないことがある。つらくて悲しくてたまらない逆境の中でこそ、生きる意味や人生の奥深さを知るのではないか。
悲しみと深く寄り添う時間を経験し乗り越えてゆくことで、他者の悲しみも痛みも知ることができる。


やなせさんの訃報に際して、昔読んでいた「詩とメルヘン」をひっぱりだしてあらためて、読んでみた。
この詩はその中のもの。若き日のやなせさんの姿も浮かぶ。
広告がなくて、毎号、表紙のすぐ裏には、大きめの活字で「お金はないが志は高いぞ」的な、やなせさんの熱い編集前記があったっけ。

私が学生だった頃は、アナログ時代だったので、お小遣いは本とレコードくらいしか使い道がなくて、今の学生さんに比べたら、情報量は圧倒的に少なかった。
スマホもケータイもない時代なんて、今や考えられないと思う人がほとんどかもしれないけれど、自分の学生時代を振り返れば、ネットがなくて本当によかったな。
一人でぼんやりする時間は、ずっとあったし、家に帰ってもメールやラインに縛られないぶん、心だけは、自由だった。

情報が怒涛のように押し寄せる現代だけど、あの頃は、おんなじ雑誌を、何度も何度も読み返しては、心に染み込ませていた、そんな悠長な時間を持てたのだ。悲しい時も、時間をかけてちゃんと悲しめた。
それは、今の私の心の財産になっている。



★関連サイト

東京新聞:従軍 一度も発砲せず 反戦こそ正義 やなせさん
「正義の味方は格好悪い方がいい」
より抜粋

 本紙連載「この道」でも従軍体験を基に戦争反対を強く訴えた。一度も発砲することのないまま、目の前で人が死に、飢えに苦しめられた。弟の千尋さんは海軍の特攻潜水艇「回天」に乗り込み、二十一歳で亡くなっている。「真に憎悪すべきは戦争です」
 一九四〇年に召集され、陸軍の野戦砲部隊に配属。四一年春、暗闇にまぎれて中国・福州へ上陸したが敵部隊はおらず、戦闘にはならなかった。軍務の間を縫って紙芝居を作り、農村地帯を巡演したこともあったという。
 戦況の変化に合わせて徒歩で転戦する際には、迫撃砲や小銃による敵襲で目の前で何人か死んだ。「全くの無駄な兵隊で、なんの役にも立ちませんでした」と皮肉まじりに振り返っている。
 敗戦は中国大陸で迎えた。その時「お国のために戦え」と勇ましく部下に命令していた上官が敵国の軍人にペコペコしている姿を見て、正義の意味に疑問を感じた。
 やなせさんが生み出したアンパンマンの顔は真ん丸いあんパン。格好は決してよくないし、顔が水にぬれると力もなくなってしまう。それでも困っている人に出会うと、自分の顔を食べさせ、ぼろぼろになってでも人を助ける。主人公のその生きざまに、やなせさんは、正義の本当の意味をたとえたのだ。
 派遣切りによる失業者の増大や社会の格差に話題が及んだ時には「勝ち組や負け組がはっきりする社会はだめだ」と言い切った。
 「アンパンマンは『ばいきんまん』を徹底的にやっつけない。生き物は、ばい菌と戦いながら強く成長する側面もある。強い人が弱い人を徹底的にいじめる社会はよくない」と語気を強めた。

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重たい選択

2013年09月09日 | ふと思ったこと
映画「平成狸合戦ぽんぽこ」、変化(へんげ)ができない普通の狸たちが、船に乗り込み、踊り踊って「死出の旅」へ向かって行ったのを、ふと思い出しました。彼らには、そういう選択しかなかった。

2020年のオリンピック開催国が日本に決まり、祝賀ムードが先行しています。
人はより、楽しい愉快な方に心を奪われる、その気持はわかるけれど。
選手たちにとっては嬉しい限リでしょうし、その気持ちに水を差すのも申し訳ないけれど、違和感で、むしろ全然、喜べない自分がいます。

セリフを覚えるみたいに誰かの用意した原稿を口に出し、作り笑いに身振り手振りのプレゼンテーション。
安倍さんは、福島の事故現場にも行っていないのに、完全にコントロールされている、と言った。
前には、少しも科学がわかっていないのに、日本の原発は世界一安全な原発、と言っていた。

安倍さんは、日本のみならず、世界に向かって嘘をついた
大量破壊兵器がないのにあると嘘をついたブッシュ政権みたいに。
世界に向けてついた嘘は、やがてその国の信頼をなくし、次に真実を語っても信用されない。罪が深い。




安倍さん、一度出した言葉は、記録されています。もう逃げられないですよ。
世界の英知を福島に結集させて、まずは汚染水、事故収束に全力を挙げてください。
お願いします。


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「平成狸合戦ぽんぽこ」を見て思ったこと

2013年07月13日 | ふと思ったこと
昨日、テレビ放映された「平成狸合戦ぽんぽこ」を見ました。映画館でも見たし、テレビでも何度も見たけれど、やっぱりまた見てしまうんですね。
流れるような志ん朝の語り。鶴亀和尚の声は柳家小さん。おろく婆の清川虹子。今は亡き人たちも、ここでは永遠に渋い輝きをもって生き続けています。

好きなシーンは、圧巻の妖怪大行進の場面や、「山をこわさないで」というメッセージとともにテレビ局の人たちにたくさんの動物たちの幻影を見せた場面など、いろいろありますが、今回、特に、「はっ」としたのは、狸たちが最後に見せてくれた昔の多摩の景色を作る直前のセリフです。

あの昔の景色を作る前に、「なんで今さらそんなことを」と、佐渡から戻った文太が問うと、
おろく婆と四国から来た六代目金鳥が言うのです

 「きばらしじゃ、きばらしじゃ」
 「遊び心をなくせば、狸ももはや狸じゃない」


なくしたものを戻すことは出来ない。でも。
こうだったのだよ、と、もう一度思い出すこと、忘れないこと。
「きばらし」という言葉の裏には、遊び心を忘れ「もっともっと」と目を吊り上げて増殖するような拝金資本主義文明への頑とした抵抗があるのだと。
高畑勲監督の気持ちが、ここに凝縮されていたんじゃないかって、(今さらだけど)じんとしてしまいました。

よりリアルで美しいアニメーションを作るジブリ作品であっても、所詮、二次元の世界であり、狸が見せてくれた幻のようなもの。ある意味、アニメ制作は究極の「きばらし」ということなのかも・・・。
でも、この映画を見るたびに、この世界は人間だけのものじゃないと、思わずにいられなくなります。



★追記

「平成狸合戦ぽんぽこ」の、原作・監督・脚本は高畑勲氏でした。お詫びして、記事を一部訂正しました。

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