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命からエネルギーを奪うフォースの力

どちらを選ぶかは自分次第

被爆者に涙で謝罪したオッペンハイマー

2024年08月09日 | 歴史・文化

オッペンハイマー “涙流し謝った” 通訳証言の映像見つかる | NHK

オッペンハイマー “涙流し謝った” 通訳証言の映像見つかる | NHK

【NHK】原爆の開発を指揮した理論物理学者、ロバート・オッペンハイマーが、終戦の19年後に被爆者とアメリカで面会し、この際、「涙を…

NHKニュース

 


広島・長崎の原爆投下から79回目の8月ですが、アメリカは日本への原爆投下を決定したトルーマン大統領以降、ずっとそれを正当化してきたけれど、開発責任者だったオッペン・ハイマーは、被爆者に涙で謝罪したと話す通訳者の映像が見つかった。

リンク先に通訳の方の証言映像動画がありました。どうか上のリンク記事は、NHKは削除せず、誰でも、ずっと見られる形で置いておいて欲しいです。


記事抜粋

前略

 今回見つかった映像資料は、1964年に被爆者などが証言を行うためにアメリカを訪問した際、通訳として同行したタイヒラー曜子さんが2015年に語った内容を記録したもので、広島市のNPOに残されていました。

 この中でタイヒラーさんは、訪問団の1人で、広島の被爆者で理論物理学者の庄野直美さんなどが非公表でオッペンハイマーと面会した際の様子について「研究所の部屋に入った段階で、オッペンハイマーは涙、ぼうだたる状態になって、『ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい』と本当に謝るばかりだった」と述べています。
 面会については、被爆者の庄野さんも後に旧制高校の同窓会誌などで明らかにしたうえで「博士は私に『広島・長崎のことは話したくないのでかんべんしてほしい』と語りかけた。背負っている重荷をひしひしと感じた」などとつづっています。

中略

タイヒラー通訳が語ったオッペンハイマー

今回見つかった映像資料で、タイヒラーさんは面会に同行した際の自身の受け止めや面会の様子、それにオッペンハイマーの印象などについて次のように話していました。

「私自身がすごくまだ未熟だったので、重要性を個人としては当時認識していなかったと思う。オッペンハイマーというのは、マンハッタン計画の学者の中でも特に核の開発で重要な役割を果たした人で、核開発をしたこと自体、ものすごく後悔していた。被爆者に会った時に私は『同行してください』と言われて行ったわけだが、研究所の部屋に入ったその段階で、オッペンハイマーは涙、ぼうだたる状態になって、そして『ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい』と本当に謝るばかりだった。会合の記録はたぶんないんだと思うし、重要性というのは私自身も分かっていなかった。その前に、トルーマン大統領のライブラリーに行った時に、トルーマンは被害者の人たちを前にして『これはアメリカが取った正当な行為だ』とあくまでも原爆を投下したことを正当化した。それはそれなりの論理があるんだろうと思うが、トルーマン大統領のことばとオッペンハイマーのことばの、この対比。これは私にとって重要な経験だった」

後略
ーーーーーーーーーーーーー

以下、宗教学者・島薗進氏のXより。



「ごめんなさい」
オッペンハイマーの涙は、今、朝ドラの「虎に翼」を見ている最中なので星航一の涙とかぶってしまう。
星のモデルとなった三淵乾太郎は、太平洋戦争開戦前に、総力戦研究所で模擬内閣の一員として、アメリカとの戦争をシュミレーションするという任務をうけ、日本はアメリカに完全に負けるという答えを出した。しかし、それは時の政府の方針とあわず、その結論は無視された。その結果、戦争は始まり、シュミレーション通りに日本は負けた。




ドラマの中の星航一は、戦後、寅子と出会うまで、心を閉ざして生きてきた。
彼も戦争で家族を亡くした人を見るたび責任を感じ、自分のせいで死んでしまったのだと心を痛めて、「ごめんなさい」「ごめんなさい」と何度もつぶやいていた。
オッペンハイマーも同様に、戦争の重荷を一人で背負って、当事者なのだからよけいに心を閉ざさなかったら生きていけなかったかもしれない。
それが、被爆者と会ったとき、心に蓋をしていた思いが一気にあふれて、涙で謝罪したのだろう。

戦争のむごさ。戦争に勝者はいないと改めて思う。

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関東大震災・火のないところに煙を立てたのは誰なのか

2024年08月01日 | 歴史・文化

7月30日の「寅に翼」今週は、差別について問題提起している。

自分の店が火事になり、在日朝鮮人の店主が放火の罪で起訴された。

在日朝鮮人への差別は今に始まったことではなく、昭和20年代なら、今よりなお一層の差別があったのだろう。
若い裁判官ですら偏見の目で見て、ことあるごとに彼らに批判的なことを言った。

岡田将生演じる年長の裁判官は、20代の若い裁判官が昭和生まれであることを理解し、大正12年に起こった関東大震災の時に、朝鮮人が襲ってくる、井戸に毒を入れた・・というデマに踊らされた人々が、朝鮮人を見かけるやいなや殺戮するという、恐ろしい出来事があったことを伝えた。

現代の私たちは、このことを幾度となく話に聞かされて知っているが、この検証がされたのは昭和30年代に入ってからだというから、昭和30年以前は、関東大震災時に起こった残虐行為は、おおやけには出てこなかったようだ。それで、寅子さんも知らなかった風情だ。

以下は、「寅に翼」の脚本を担当されている吉田恵里香氏のX
   ↓


(続き)
それが心のケアの為に必要な時ももちろんあります。私は、今を生きる自分にできることを考えていきたい。あらゆる国で起きている虐殺に反対していきたいです。




吉田恵里香氏への返信。フリーの映像ジャーナリストペテルギウスさんは、この件に関して、「外交的に批判される懸念から、直後から箝口令と証拠隠滅が図られた」と補強してくださってます。ドラマで歴史を学びますねえ。




ドラマの中で、この虐殺事件をおそらく初めて知っただろう若い裁判官は、「でも火のない所に煙は立たない」と反論する。
そこで年長者の星航一(岡田将生)が言って曰く

「その煙を立てたのは誰なのか」

ここでこの話は、一区切りついて次のシーンに移ったわけですが。

思えば、この件は、なんと30年以上、箝口令が敷かれて、公にならなかったのだから、ひどい話だ。
でも人の口に戸は立てられない。見た人たちは、その事実を子や孫に伝えてきた。



なお、「シュウゴエンゴジュッセン」とは朝鮮人を識別するための方法だったという。

朝鮮人であるかないかを調べるためには、必ず濁音のある言葉を言わせたそうだ。例えば座布団、ザブトンをサフトンと発音して、その場で自警団のために惨殺された鮮人もある。私が汽車の中で目撃した出来事。「ジュウゴエンゴジッセン」と云う濁音の多い言葉を、若(も)し満足に発音できなかったとしたら、恐らくあの労働者もどんな目に遭わされたかも知れない。
     ↑
 出典:<不逞鮮人>とは誰か~関東大震災下の朝鮮人虐殺を読む(6) 「十五円五十銭」の闇その4…「朝鮮人識別法」より



怒りと恐怖で頭に血が上った人たちの怖さは・・恐ろしい

ところで、煙を立てたのは誰なのか。
Xの返信の一つに「煙を立てたのは正力松太郎」というものがあったのだが、言われたら、いかにもありそうな話だとは思ったが。
正力松太郎と言えば、実業家として、読売新聞社社主、日本テレビ放送網代表取締役社長、讀賣テレビ放送会長、日本武道館会長などを歴任した(Wikipedia)。
そして、中曽根康弘と並んで「原発の父」と言われる人物。CIAの工作員だったとも言われている。
しかし、正力の実業家になる前については、私はよく知らなかったかったから、それは真実なのかと。

で、Xでは、事実の確認が取れずに、元の資料を探してみた。

ふらっと 人権情報ネットワーク

ふらっと 人権情報ネットワーク

部落問題、障害者問題、男女共生、高齢者問題、多民族共生など様々な人権問題に関する総合情報サイト、ふらっと 人権情報ネットワーク

ふらっと 人権情報ネットワーク

 


上記サイトの中にあったこちらの一文より抜粋
   ↓
関東大震災100年 朝鮮人虐殺を忘れない ノンフィクション作家加藤直樹さん 記念講演

 後に正力はこう述べています。

――朝鮮人来襲騒ぎについて申し上げます。朝鮮人来襲には警視庁も失敗しました。大地震の大災害で人心が非常に疑心暗鬼に陥りまして、1日の終わり頃から朝鮮人が不穏な計画をしていると風評が伝えられ、私はさては朝鮮人が来襲すると信じるに至りました。

 さらに、流言を真実だと信じた正力は軍でも取り締まりをしようと軍の司令官と打ち合わせをしています。居合わせた朝日新聞の記者が、正力が「こうなったらやりましょう」と腕まくりをして叫んでいたと回想しています。ところが時間が過ぎていく中で、「朝鮮人来襲」などというものはないと次第に正力にはわかってきます。

――しかるに鮮人がなかなか東京に来襲しないので不思議に思っているうちにようやく夜の10時頃になってその来襲が虚報であることが判明いたしました。誠に面目ない次第であります


 面目ないでは済まない話です。軍隊も警察と同様でした。戒厳令を受けて軍隊がどんどん被災地に入ってきますが、先述した通り、具体的な命令を受けていない。そこに「朝鮮人が集まっている、進撃してくる」という話が上がってくる。それで軍も虐殺を始めます。

 自警団による虐殺もありました。各地で自警団がどんどん作られ、後に政府が調べたところでは、東京で1593、神奈川603、千葉366、埼玉300、群馬469、栃木19、合計3689の自警団が作られたと言われています。自警団というと確定したメンバーシップを持った組織だと思われますが、さまざまな証言を見ていると、そういう団体が虐殺をしたというより、群衆が朝鮮人を見つけ次第殺したという状況が多いです。

ーーーーーーーーー


軍も民間人も、一緒になって、朝鮮人虐殺に加担した。全く許されない出来事でした。

警察トップの正力松太郎の発言が虐殺にお墨付きを与え、戒厳令を受けて被災地に入ってきた軍や警察まで同じことをしていたというのは、今回私自身も、初めて知って、大変驚きました。
単純に、デマに踊らされた民衆が起こした事件とばかり思っていたからです。

ここに至るまでに、混乱の中で冷静さを欠いた国民の怒りが、国家にたいしての暴動に変わるのではないかという政府の恐怖心もあったかもしれない。
事実、悪者を外にむけて作ったことにより、そちらに人々の怒りは燃え上がり、そういった意味での暴動と殺戮が起きたわけですが・・いろいろな事情(詳しくはリンク先の記事をよく読んでから判断してください)があったのかもしれません。

煙を上げたのは正力率いる警察、煙を煽ったのは当時の新聞、そしてその火を広げたのは、国民。

正力も後になって虚報だったことを反省する言葉を述べています。しかしいくら面目ないと言ったところで、奪われた命は取り返しが付きません。愚かしく悲しく恐ろしい歴史の側面です。


上の講演をした加藤直樹氏によれば、正力は、警察官僚として「特高の親玉」とも言われるほど、特高(特別高等警察)で剛腕を振るっていたそうです。反政府運動を非常に強力に弾圧していたのです。

彼には彼なりの信念や正義があったのかもしれませんが、人の命を奪っても仕方ない、間違えても面目ない、で、すましてしまうことは許されるのだろうか。
また、原発も彼の考えの甘さから地震国日本に導入してしまった。まさか日本で原発事故が起こって、家族がバラバラになり、仕事を失い、ふるさとを奪われる人々が生まれることなど、想定外だったのだろう。
前半における特高の親玉、後半におけるアメリカの工作員と言われても仕方ないような行動、彼の人生とは、何だったんだろう。
彼がいなかったら日本の歴史は、変わったのか変わらなかったのか・・、彼がいなくても時代の空気によって第二第三の正力松太郎が生まれたのか。


現代でも同様に、今のネタニヤフやプーチンの終わりのない狂気を見るのだけれど、彼らの心の中も疑心暗鬼でパニックになっているのかもしれない。
人の心って、正義の名の下に、たやすく悪魔に乗っ取られてしまうのだと、今回のことを少しだけど調べてみて、つくづく思いました。
これは、時代は変わっても、人の心が変わらない限り繰り返されることなのでしょうか。

あらゆる国で起きている虐殺に反対していきたいです。 by吉田恵里香

「寅に翼」脚本家の吉田恵里香さんが、言われるたように私も同じ気持ちです。
そう思う人が、世界のほとんどの人たちになること。虐殺を許容する為政者は、必ず弾劾されること。
未来が、そんな世界であることを祈ってやみません。

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法隆寺の駐車場の植え込みが古墳だった件

2023年10月27日 | 歴史・文化

さすがは斑鳩、というちょっと前の先月のニュースで恐縮ですが

「興奮しました、古墳だけに 笑」



上のニュースの植え込み写真、誰がどう見たって植え込みですけどね。
1500年の時を隔てて、古墳だってわかったというのだから斑鳩は町自体がロマンだなって思います。

私め、日本の歴史上の人物の中では聖徳太子(=厩戸皇子)が大好きなので、太子ゆかりの法隆寺の駐車場の植え込みになって、近年は気づかれないまま守られていたんだねと。よかったねと。
亡くなった方がどなたかは、わかりませんけど、親しみを感じた話題でした。(^^)

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ホロドモール 「赤い闇 スターリンの冷たい大地で」

2022年05月16日 | 歴史・文化

ロシアとウクライナの関係は、歴史を学べとよく言われる。
1932年~33年、ウクライナで起こったホロドモール、ご存知だろうか。

私は、今回のロシアのウクライナ侵攻で、初めて知ったのですが、
歴史を学んだら、鉄のカーテンで隠されていたウクライナのロシアによる悲劇を知った。

今回の暴挙も過去と同じ、プーチンの「ウクライナはロシアの属国」という意識が起こした侵攻だったのだと思う。
2014年のクリミア半島のロシア併合含めて、ウクライナ人はロシアに対して、いやというほど危機感を持っていたことをあらためて知りました。


https://eleminist.com/article/1106より
ホロドモールとは、1932〜1933年にかけてウクライナ人が住んでいた地域で起きた人為的な大飢饉である。 当時のウクライナは、ヨシフ・スターリンが最高指導者を務める旧ソ連の統治下にあった。 この出来事は、飢饉を意味する「ホロド」と、疫病や苦死を表す「モール」を合わせて、「ホロドモール」と呼ばれている。



その当時のウクライナの状況、実話を映画化した「赤い闇 スターリンの冷たい大地で」(2020年公開)

映画『赤い闇 スターリンの冷たい大地で』予告編


映画概要
1933年、ヒトラーに取材した経験を持つ若き英国人記者ガレス・ジョーンズには、大いなる疑問があった。世界恐慌の嵐が吹き荒れるなか、なぜスターリンが統治するソビエト連邦だけが繁栄しているのか。その謎を解くために単身モスクワを訪れたジョーンズは、外国人記者を監視する当局の目をかいくぐり、すべての答えが隠されているウクライナ行きの汽車に乗り込む。やがて凍てつくウクライナの地を踏んだジョーンズが目の当たりにしたのは、想像を絶する悪夢のような光景だった……。



14日の東京新聞筆洗がこの映画に言及されていた。

映画『赤い闇 スターリンの冷たい大地で』(二〇一九年)は、…:東京新聞 TOKYO Web

 映画『赤い闇 スターリンの冷たい大地で』(二〇一九年)は、ソ連時代の一九三二〜三三年に起きたウクライナの大飢饉(ききん)を描く▼政府が隠す中、主人公の英国人記者が現地に潜入。積み重なる遺体を馬車が運ぶのを見る▼数百万人が死んだ惨事は人災といわれる。スターリンが強いる農業集団化で、一部の「豊かな農民」が追放されるなど現場は混乱。収穫が減ったのに、輸出で外貨を得たいソ連政府の穀物調達は過酷で、人々の分がなくなった。映画でも、モスクワに行くという袋詰め穀物が駅で積まれる場面がある▼ロシアの侵攻で農業生産が落ち込む見こみの今のウクライナで、ロシア軍が穀物を略奪しているらしい。国連食糧農業機関(FAO)の当局者も今月の会見で、トラックでロシアに運ばれた例を確認したと述べた。輸出を企てているという米メディアの報道も。かつてのように、食料が減る中で金を稼ぐつもりなのか▼ウクライナは、ロシア軍による海上封鎖で黒海沿岸の港を使えず、船で穀物を輸出できない状態という。世界的に供給が不足し、価格は高騰。貧しい人ほど影響は深刻だろう▼映画では、遺体が転がる町で主人公と出会ったウクライナ女性が「私たちは彼らに殺されてるの」と語った。彼らとは、モスクワで政治を司(つかさど)る人たち。今回の侵攻も延々と続けるのなら、遠い国でも命は危機に瀕(ひん)する。



筆洗と重複する部分もありますが・・あらためて。

旧ソ連、スターリンの農業政策の失敗により、食糧危機に陥ったソ連は、肥沃な穀倉地帯であるウクライナ穀物の強制的な搾取によって潤っていた。
ウクライナの人々は、食糧危機に陥り数百万人とも言われる餓死者があふれ、人肉さえ食べたという。

これをなかったことにはできない。


筆洗氏の書くように、過去と同じ事が今も起こっている。

ロシアの侵攻で農業生産が落ち込む見こみの今のウクライナで、ロシア軍が穀物を略奪しているらしい。
国連食糧農業機関(FAO)の当局者も今月の会見で、トラックでロシアに運ばれた例を確認したと述べた。
輸出を企てているという米メディアの報道も。かつてのように、食料が減る中で金を稼ぐつもりなのか

ウクライナは、ロシア軍による海上封鎖で黒海沿岸の港を使えず、船で穀物を輸出できない状態という。
世界的に供給が不足し、価格は高騰。貧しい人ほど影響は深刻だろう



ウクライナの人たちは悪夢を二度と繰り返さないために命がけで戦っている。その士気はロシア兵士の比ではないだろう。
自分たちの土地を守るために、絶対に負けるわけにはいかないのだと。

いいことなど何もない。ロシアは、一刻も早く兵士を引き上げるべきだと強く思う。


おまけ

ホロドモールとは何ですか? - 世界地図

●旧ソ連の農業に壊滅的な被害を与えた政策「ルイセンコ農法」に関して見つけた動画。
ルイセンコの顔、プーチンと重なる・・・目の錯覚でしょうか。
世界の奇書をゆっくり解説 第12回 「農業生物学」


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エジプト「今年最大の発見」 ミイラ包む木棺100基 2500年前、富裕層か

2020年11月18日 | 歴史・文化

2500年前(BC500年頃)と言えば、日本では縄文後期。
エジプトでは今年最大の発見と言われる、2500年前の棺が100基以上見つかった。
このような棺と言えば王家の人たちを想像しますが、民間の富裕層ということだ。
紀元前5000年頃から始まった古代エジプト文明としては、年代的には若いし、王家の谷ではなかったからか、盗掘のような目にも遭っていないのか、保存状態もいいようだ。
2500年の眠りから掘り出されてしまったミイラたち、きっともう魂は生まれ変わっているだろうから、無粋は勘弁してね。


エジプト「今年最大の発見」 ミイラ包む木棺100基 2500年前、富裕層か



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疫病退散!アマビエの伝説

2020年04月06日 | 歴史・文化

  



ネットで話題になっていた、アマビエ。ご存じでしたか?
右側の由緒ありげな古文書感に比べ、左側のイラストというか絵がなんともあれで、ユーモラス(笑)

アマビエは、江戸時代に肥後国(熊本県)に現れたと言う伝説の生き物です。
ウィキによれば、日本に伝わる半人半魚の妖怪。光輝く姿で海中から現れ、豊作や疫病などの予言をすると言われ、
もし疫病が流行することがあれば、私の姿を描いた絵を人々に早々に見せよ」と言って海へ消えたと伝えられている。




ペスト医師、奇妙な「くちばしマスク」の理由

恐ろしいパンデミックが過去に3度起き、数億人もの死者を出した感染症ペスト。患者の治療にあたる「ペスト医師」たちは、奇妙なくちばし付きマスクを...

 



当初、わたしは、アマビエのモデルは、疫病を治療すると言うことと、海の向こうの国の話ということと、何より治療の際のくちばしみたいなマスク姿が。
中世フランスの医師が考案したというペストを治療するときの姿かもしれない、と思ったけど。
アマビエの愛らしさに比べると、死神みたいですからね。うーん、結びつけるには無理があるかなー? 




  


と思っていたところ、きょう、偶然アデリーペンギンの画像を見た。

サイズ的にも体のバランス的にも、アマビエさんに似ている! と気づいた瞬間から妄想が止まらない。
頭に海草でものっかてたら、それっぽく見えそう。・・・な、気がしてきた。
突然海から現れて、海に消えてゆく感じもペンギンぽい。

うろこがないのは残念だが、白い腹の部分の羽のふかふかが、うろこに見えないこともない。
頭から背中にかかる黒い羽色が、長い髪に見えないこともない。
しかも尾羽というかシッポが3本目の足に見えないこともない。
見た人の記憶による口伝が、こんなになりました、といえないこともない。・・・ぺこぱ?

何の因果か知らないが、見たこともない南極の生き物を突然目にしたら、江戸時代の人間には妖怪としか言い様がないだらう。



ネットではクリエーター心をくすぐるのか、様々な21世紀のアマビエさんたちが出現中。
心をゆるめて、免疫力をあげましょうか。
 ↓
https://togetter.com/li/1477527


このアマビエ様は、かわいくてとても力強い。
 ↓


※個人的には アデリーペンギンさんの写真も、ご利益高そうな気がする。
 リアルにかわいいので、オキシトシン出てきて免疫力アップ。



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穏やかで平和な暮らし

2019年09月06日 | 歴史・文化
突然ですが今、縄文時代と縄文人が、私どもの心に響くものがあります。
東京新聞の筆洗記事(2019・5・23)ですが、もうとっくにリンク切れました。

以下、メモのために。切り抜きを見ながら自分のために入力します。よろしかったら、ご一緒にどうぞ。



一日に働くのは四時間ほどだが、家族ともども食べていくには困らない。自然の恵みをとりすぎないから、環境の悪化に苦しめられることも少ない。おかげで安定した暮らしが続く。

働き方改革に成功し、地球環境問題にも力を入れるどこかの国のようだが、わが国のことである。ただし、縄文時代の話だ。考古学者岡村道雄さんの『縄文探検隊の記録』などに教わった。

現代のわれわれは、そんな暮らしを実現したご先祖様たちを、ささやかながらも誇る資格があるということだろうか。国立科学博物館のチームが今月、現代の日本人は縄文人が持っていたDNAの約10%を受け継いでいるという研究の結果を明らかにした。

現代日本人は主に、縄文時代の狩猟採集民と弥生時代以降の渡来人のDNAを受け継いでいると考えられてきた。この分野の技術の著しい発展もあり、縄文人のDNAまでも高い精度で解析することに成功し、現代人との共通性がわかった。

自然と共生し、穏やかで平和な暮らしを実現していたと近年、再評価されている縄文人である。実際には貧富の差や争いごともあったという研究もあるようで、寿命も現代人に比べれば、はるかに短い。

とはいえ、戦争の記憶が薄れ、環境問題も積み重なるばかりの昨今である。1万年もの長きにわたり縄文時代を持続させてきたご先祖の知恵をあおぎたくもなる。

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狩猟採集の縄文人の主食は、クルミ、クリ、トチ、ドングリなどの堅果類と、その土地ごとの海の幸・山の幸だったそうです。
特にクルミとクリは、今でも、みんな大好きですよね。
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100年前の東京の大通りと人間たち

2016年12月23日 | 歴史・文化
年内おやすみ、って書きましたが、毎度また出てきました(笑)
カラパイアに出ていたこの動画があまりにも興味深かったので、ブログにクリップしたくて。


1913-1915: Views of Tokyo, Japan (speed corrected w/ added sound)



100年前の、日本、東京。見ながら、いろいろなことを考えさせられました。
カメラに興味津々の人、怪訝そうに見る人。
町並み、着ている着物、子供の遊び、人がこれだけ溢れているのに道路がきれい。

便利な道具も家電もなく、冬は寒くて、今の暮らしよりも、ずっと大変だったろうなあ。
でも、大通りには、人が溢れていて、賑やかでいいですね。
すっかり人のさびれた、わが町のシャッター通りと比べ物にならないわ。




では、また来年  ・・・と、言いながら、また更新しちゃうかもしれませんけど。
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平城京にペルシャ人の役人がいたらしい?

2016年10月06日 | 歴史・文化
平城京にペルシャ人の役人か 8世紀の木簡に記述
(NHKNEWSWEB 2016年10月5日)

奈良市の平城宮跡から出土した8世紀の木簡に、ペルシャ人とみられる人物が役人として働いていたことを示す記述があることがわかりました。調査した奈良文化財研究所は「平城京が国際色豊かな都だったことを示す、貴重な資料だ」としています。

木簡が見つかったのは奈良時代の都、平城京の中心部、平城宮跡の南東にあたる場所です。
奈良文化財研究所によりますと、50年前の発掘調査で見つかった木簡を、ことし、赤外線を使って調べたところ、「破斯清通」(はし・きよみち)という人名が記されていることがわかりました。

「破斯」という名字は、ペルシャを意味する漢字「波斯」と読み方が同じことから、木簡に記された人物はペルシャ人とみられるということです。
また、この木簡は役人を養成する役所、「大学寮」の宿直勤務の記録だったことから、この人物が平城京の役人だったこともわかったということです。


古代の歴史書「続日本紀」には、736年、遣唐使が連れ帰ったペルシャ人が聖武天皇と面会し、その後、位を授けられたという記述があります。
研究所は、このペルシャ人は木簡に記された人物と同一人物の可能性がある
としています。

ペルシャ人とみられる人物の名を記した遺物が出土したのは全国で初めてで、木簡を分析した奈良文化財研究所の渡辺晃宏史料研究室長は「平城京が国際色豊かな都だったことを示す貴重な資料だ」と話しています。
この木簡は平城宮跡資料館で開かれる展示会で来月1日から公開されます。

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このような発見は楽しく面白いものですね。歴史の一部分にスポットライトがあたり、小さな事実が浮かび上がってくる。
そういうことの一つ一つが、過去の出来事を蘇らせてくれる。

よく考えれば、シルクロードの終着点の日本の都ですから、さもありなんとも思いますが、渡来人と言えば朝鮮半島か中国大陸の方たちだとばかり思っていました。
ペルシャ人と言えば、イスラム系の方ですよね。さぞかし、エキゾチックなお顔立ちが目立っていたことでしょう。
そう言えば、以前読んだ本には、聖徳太子はペルシャ人ではないかという説もありました。
私はその説を支持してはいませんが、こういうことがわかると、そのような仮説が出てくるのも一理あります。太子の身近には、いたかもしれません。



それにしても、この世というのは、時間と空間の限られた場所であるからこそ、どこかへ旅したいと願うのは、古来より人間の本能的なものなのでしょうか。
シルクロードもそうですが、世界には、長い距離を歩く「巡礼の道」というものもありますね。
「ここではない、どこか」に、何かを求めて移動する。それは、人間らしい好奇心や冒険心だったり、願いを叶えるための旅だったり、止むに止まれぬ理由もあった逃避行だったかもしれません。

日本にやってきたペルシャ人の方は、故郷を遠く離れた日本の地で、どんなことを思ったろうか、などと考えていると、人生そのものが「旅」、毎日繰り返される日常も「この世」という世界の「旅」の一過程じゃないか、とも思えてきます。



おまけ
ガンダーラ 〜ゴダイゴ〜


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飯舘の守り神・オオカミ絵復元

2015年08月25日 | 歴史・文化
福島県飯舘村は、村づくりの基本理念としてまでいライフをキャッチフレーズにしていたそうだ。
「までい」とは、「手間暇を惜しまず」「心を込めて」「丁寧に」「慎ましく」といった意味の方言。

http://www.magazine9.jp/don/110824/

よりによって、原発交付金とも無縁の、人間らしいスローライフで自立をはかっていた村までも、原発事故は台無しにしてしまった。

飯舘村の山津見(やまつみ)神社、11世紀に創建され、神の使いとして白いオオカミを祀ったこの神社で、2013年火災発生。
が、避難指示区域のため消防団がいなくて、消火が遅れ拝殿消失。天井に描かれた240枚のオオカミの絵も燃えてしまった。

・・・原発事故は、人々の暮らしだけでなく、長年培ってきた土地の文化も奪ってしまうのですね。

この現実、原発立地地域の方たちは、決して他人ごとではないはずです。



東京芸術大学の大学院生らが写真を元に杉の板に描いたオオカミ
=18日午後、東京都台東区、井手さゆり撮影


飯舘の守り神・オオカミ絵復元へ 「復興のシンボルに」
08月21日 10:12朝日新聞

 東京電力福島第一原発事故で全村避難が続く福島県飯舘村の山津見(やまつみ)神社で2013年に焼失した、オオカミの天井絵の復元が東京芸術大学(東京都台東区)で始まった。「被災地の文化の継承に貢献できれば」と取り組む日本画の専門家に、避難中の住民らは「復興のシンボルに」と期待する。
 11世紀に創建された神社は山の神のつかいとして白オオカミをまつる。1904年にできた拝殿の天井には約240枚のオオカミの絵があった。2013年4月、火災が発生。避難指示区域で住民の消防団がおらず、村外の消防が着いた時には、拝殿はほぼ焼失していた。
 ニホンオオカミを調べていた和歌山大学の加藤久美教授(環境学)らが火災直前に偶然、天井絵を全て撮影していた。NPOなどが写真を元にした復元を模索し、伝え聞いた東京芸大の荒井経(けい)准教授(日本画保存修復)が引き受けた。

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再現された絵のオオカミは、どこかユーモラス。(*´艸`*)
火災直前に、偶然、すべての天井絵が撮影されていたのは、神様のはからいだったのか。

原発事故のため人がいなくなった地区は、イノシシやネズミなどの野生動物が増え、家屋を荒らしていた。
西洋のオオカミは、家畜を殺すにくい奴、という感じですが、かつて日本にいたオオカミは、神の使いとして、田畑を守る頼もしい動物だったのだろう。

私も、今一度、人々の暮らしを守ってほしいと、すべてのオオカミの絵の復元を祈りたいです。

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古代マヤの翡翠(ひすい)の仮面

2014年01月06日 | 歴史・文化
こういう特番、大好きなんです(笑)・・「古代文明ミステリーたけしの新・世界七不思議シリーズ

5日放送分の中で、古代マヤ文明の「翡翠の仮面」が取り上げられていました。
古代マヤの王の遺体を飾った翡翠の仮面。



翡翠の仮面


パレンケのパカル王の遺体を飾った仮面は、340片の翡翠と4片の貝殻、2片の黒曜石でつくられている。木製の土台の上にあしらわれていたと思われるが、すでに朽ちてなくなっている。仮面に刻まれた記録によると、パカル王は70年近い在位期間のうち8年を、自らの豪華な埋葬の準備に費やした。西暦683年8月28日に死去すると、仮面、大きなペンダント、耳栓、指輪、ネックレス、ブレスレッドなど、翡翠づくしの副葬品と共に、末代まで崇められるべく神殿の下に葬られた。
(ナショナルジオグラフィックより)



番組では、なぜ翡翠かということに焦点が当てられ、マヤ民族にとって当時の翡翠は、非常に希少であったことから、とても価値があり、マヤの世界観では、緑色が世界の中心を示すものとして、権威の象徴であった、などということが研究者によって、語られていました。

勝手ながら、私どもの仮説も申し述べさせていただきますと、生前より身につけて、病やケガの平癒への祈願をしていたとか、亡くなった後もそばにおいて、死からの復活、あるいは死出の旅への安全や死後の幸せへなどの願いがあったのではないか。
・・・などど、理由はいくつか考えられますが、単なる権威の象徴だけでなく、翡翠の持つエネルギーに何かしらの期待があったのではないかと思いました。

古い記事ですが、以前マオリの石でびりびりびり~で、書きましたが、翡翠には特別のエネルギーがあるように感じるからです。

今は科学的な論証や思考が最優先される時代ですが、古代においては、呪術やシャーマンの存在がある一定の重きをおかれていました。
すれば、当時、そういうことを敏感に感じ取れたシャーマンたちが、翡翠にエネルギーを感じて身を守る術として権力者に通達したことも考えられます。あるいは権力者自身が、シャーマンとして存在したかもしれません。
古代人も現代人同様、ネックレスやブレスレットなどのアクセサリーを身につけていたようですが、現代のような単純なおしゃれのためではなくて、エネルギーが感じられるある種の鉱物を身につけることで、自らを強め、身を守る目的があったのではないか。
と、テレビを見ながら、色々と想像してしまいました。

いずれにしても、マオリ、マヤ、そして日本や中国でも、翡翠は、古代人にとっては大切な石だったようです。
ただし、今現在、この翡翠の仮面に、その力があるかどうかは、テレビ画面だけでは、わかりませんが。
なぜなら・・・




■ご注意:ここからはオカルト的思考(現代科学では証明できない)になりますので、生真面目な方は、スルーするように 

その石の持ち主のネガティブな意識が強すぎた場合、その石の保つ特性の上に、悪い波動が上書きされて、人にエネルギーを与えてくれるはずのパワーの情報が消されてしまい、後にその石の所有者になった者に対して、悪い影響を与えてしまうってことも、あるのですにゃ~。
権力者などの持っていたものは、良くも悪くも、極端なことがありますから、こういうものはやはり博物館に保管することが一番ですね。




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中世の本に猫の足跡

2013年04月05日 | 歴史・文化
中世の本にネコの足跡、ネットで話題に(ナショナルジオグラフィック ニュース)

猫っていう生き物は、不思議。
なんでこんなに人の心を騒がすのか。その寝姿に癒され、時に野生を感じ、時に迷惑千万・・・

かわいい足跡を付けられたこの手書きの本の持ち主は、ショックだったのか、それとも、もう笑うしかなかったか?・・・この本の持ち主に同情しつつも、親しみが湧いてきます。

中世ヨーロッパでは、猫は魔女の使いとして、虐げられた歴史もあるが、15世紀クロアチアの古都の街に住んでいたこの足跡の主は、きっと大事にされていたのでしょう。
飼い主が書き物をしているところに来て邪魔をするのは、猫の大事なお仕事ですからねん(笑)


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蘇我馬子の家は、宮殿並み?

2013年02月13日 | 歴史・文化
蘇我馬子邸 宮殿並み? 奈良・島庄遺跡 塀跡の大型柱穴列見つかる

 飛鳥時代の大豪族蘇我馬子(そがのうまこ)(生年不明~六二六年)の邸宅とみられる建物群跡が確認された奈良県明日香村の島庄(しまのしょう)遺跡で、塀跡とみられる大型柱穴列が見つかっていたことが九日、分かった。二〇一一、一二年に村教育委員会が調査していた。

 この遺跡で建物群跡のものとみられる七世紀前半の塀跡が見つかったのは初めて。調査した西光慎治主任技師は「柱穴の一辺が一メートル以上あり、宮殿クラスの規模といえる。立派な塀で囲われた邸宅だったのではないか」としており、天皇をしのぐ権勢を誇ったとされる馬子の邸宅規模を探る貴重な手掛かりになりそうだ。

 柱穴は八基で、馬子が住んだ正殿とされる大型建物跡の西八十メートルで見つかった。柱を直接地中に埋める掘っ立て柱式で、柱穴は一辺が約一・三メートルの方形。二・一~二・四メートル間隔で並び、直径三十~四十センチの柱が立っていたとみられる。塀全体の長さは不明だが、南北十六メートル分を確認した。

 〇四年の調査で見つかった馬子邸とみられる建物跡三棟と平行に並んでおり、一連の施設として造られたらしい。

 日本書紀によると馬子邸は飛鳥川の近くにあり、庭には池があったとされる。現場は既に埋め戻されている。


 <蘇我馬子> 敏達から推古まで4天皇の大臣を50年以上務め、天皇家との血縁関係を背景に蘇我氏の最盛期を築いた。対立する物部氏を滅ぼし、自ら擁立した崇峻天皇も暗殺、めいの推古天皇を即位させるなど、政界を主導。仏教の受け入れに熱心で日本最初の本格的寺院、飛鳥寺を建立。聖徳太子とともに歴史書の編さんや遣隋使派遣などを進めた。

(東京新聞2013年2月9日 夕刊)

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随分前だけど、NHKで聖徳太子(=廐戸皇子・うまやどのみこ)のドラマをやっていて、緒形拳さんが蘇我馬子を演じていた。
あの時代って、ドラマにすると、住居、衣装、髪飾りなどの装飾品まで、昔過ぎて資料が少なく、よくわからないがゆえに、どこかファンタジーな空気が醸しだされてしまうようで。
そんな中、緒方拳さんの馬子の、狡猾さやなんとも言えない、えぐい感じが、今に通じるリアリティーを出していました。うまい役者さんだなあって思いましたね。おかげで、本木雅弘さんことモックン演じる廐戸皇子の純粋さが引き立っちゃうのなんのって。
豪族たちの混沌の中から、日本という国が天皇を中心とした「秩序」を持ちだしたあの時代、廐戸のピュアな良心と、馬子のしたたかさが両方あって、形成されてきたのかなあと思ったものです。

今回の発見で、馬子の邸宅規模がわかりました。彼が、緒方馬子のような人だったかどうかはわかりませんが、やはり、大きな力を持っていたことに間違いありませんね。

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大阪で出土・翡翠の勾玉

2012年04月20日 | 歴史・文化
大阪府高槻市の成合遺跡で出土した翡翠製の小型勾玉
(大阪府文化財センター提供)


長い時を隔てても、自然の石は色あせずきれいですね。
プラスティックや何か、人工で見た目だけ真似しても、地球が作った自然の造形物の持つ、目に見えないエネルギーは真似できないのです。
記事によると、翡翠は力のある集落しか所有できなかったというけれど、それだけ特別のものだったのでしょう。
また、ウィキペディアによると、勾玉の形の由来は

動物の牙で作った牙玉を基とする説
胎児の形を模したとする説
魂の姿を象ったとする説
巴形を模したとする説
月の形を模したとする説
形そのものに意味があったとする説
破損した耳飾を再利用したとする説


など、諸説あるようです。
たった一つの小さな古代の勾玉で、いろいろな想像をかきたてられるのも楽しいことです。


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 マオリの石でびりびりびり~


 
 大阪で翡翠の勾玉が出土 弥生中期、北陸産か

弥生時代中期の集落跡である大阪府高槻市の成合遺跡で、北陸地方で生産されたとみられる翡翠製の小型勾玉が見つかり、大阪府文化財センターが17日、発表した。
同センターによると、翡翠は新潟県の糸魚川周辺で産出するものが縄文―古墳時代にかけ全国各地に運ばれたことが分かっており、これまでに約400点が出土しているが、近畿地方での発見は珍しい。
勾玉は淡い緑色に乳白色が入り、長さ1・7センチ、幅1・4センチ。弥生時代中期によく見られるドーナツを半分に割ったような形。翡翠は力のある集落しか所有できなかったが、「近くの大集落から村が分かれ、譲り受けたのでは」という。
(西日本新聞)
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2600年の時を超えて現れた少女の顔

2011年02月13日 | 歴史・文化

わあ~~!どアップだあ!・・・と、自分でアップしておきながら(笑)

どこかでお会いしたことのあるような?この方は、「モーラ(Moora)」と名付けられました。
今から2600年前、鉄器時代に現代のドイツ・ニーダーザクセン州あたりで暮らしていたらしい。
2000年に発見された頭蓋骨の断片を元にして、現代のデジタル技術を駆使して描かれた画像です。
発見当初は、失踪した少女のものとして犯罪がらみで調査していたのですが、鑑定によって、古代人の頭蓋骨と判明。
このようなリアルな画像ができてしまうと、時間も空間も超越して、ついこないだまでそばにいた人のように思えてしまいますね。
時代をさかのぼると、人骨もロマンです。

2600年前の顔復元、鉄器時代の少女(ナショナルジオグラフィックニュース)


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