背後で
不在が ゆっくりと 翼を ひらく
なにかが 滴る 音
絶え間なく
柔らかく 遠く
遙かに 浮かび上がろうとする ものから
間近を そっと かすめ
伝い降り
温かく馨る 大地へ
しみ込む
已むことなく 潮のように
惜しみなく
それが 涙なのか 血なのか
まだ 闇は 決めていない
雨であれ と
翼は 祈る
メラブ・アブラミシュヴィリ Merab Abramishvili は
1957 年 3 月 16 日 旧ソビエト連邦 グルジア共和国 の
首都 トビリシ に生まれた
幼い頃から絵を描き始め コーカサス地方 で最も古い
大学の一つ トビリシ国立美術アカデミー に学び
彫刻家の Jacob Nikoladze や
画家の Alexander (Shura) Bandzeladz に師事した
考古学者で哲学博士の父が調査し紹介した
12世紀の教会 壁画 を 模写し
その技法と物語表現を身につけ
やがて ペルシャの細密写本装飾 に見られる
繊細な描写と色調を研究
黒海の縁で幾重にも交叉する コーカサス から
ロシア・クルガン・バルカン・メソポタミア・アナトリア・
イリュリア・ペルシャ・フェニキア・エトルリア・
ギリシャ・ローマ・エジプト・インダス までの
遊牧と流浪と望郷の 物語を覆う 草木のそよぐ
夢へ流れ込む 憧れと歓びと哀しみの 渦巻く
響きへと編み込み 生き生きと開花させた
紀元前 9 世紀 の アッシリア 王妃 Shammurāmat
サンムラーマート (セミラーミース) は 伝説に彩られた生涯に
夫 が征服した バビロニア に 空中庭園 を造らせた とも
ニネヴェ建国の王 の妃となったが 王を毒殺
幼い息子の摂政として女王になり
アルメニア の 美麗王アラ を夫にせんと 攻め入り
戦死させたのちも 生き返らせんと 魔術を用いた とも云われる
が ここでは クジャクの散らばる庭園内を
歴史と伝説の織り込まれた マントを捧げ持つ人々と
無限の距離を隔て 誇り高き女王として 独り歩む
∞ ∞ ∞ ∞ ∞
落ちて跳ね はなれる 満ちて溢れず 引く
ハラッパー に刻まれた
始まりも終わりもない 文字は
グルジア女王タマル の署名にも
入り込んでいる だろうか
リラ のような ウード のような
内へ窪む円い胴にひらく 内なる無限への 通り道
草原をわたり 山々を吹きぬく
風に運ばれる 時の滴
無限は跳ね あちこちに
形と影 音と響きを穿ち
影と響きが 消えゆく間 通り抜け
來たりて去り 留まりて往く
永遠への入口 無限からの出口
光と同じ とじた輪のような波
光の往ったあと 耀く闇に沈む 時の道
無限の滴に映り 束の間 かすかに宿る
どれも同じで すべて ちがう時
∞ ∞ ∞ ∞ ∞
∞ ∞ ∞ ∞ ∞
Merab Abramishvili Flowers 花 板に テンペラ tempera on wood
草木染や泥染 織物にしみ込む 植物の色と影
花と実と 枝と葉と 根と幹と
根は どこまでも 土を編み廻り 地下の川を渉り
枝は どこまでも 大気を編み伸び 光を浴び
実は どこまでも 空に馨り響き 歌い舞い 伝え運ぶ
木洩れ日舞う森 風わたる草原
漣きらめく川の畔 日没を追い
洞窟の奥 松明ゆらめく中
太古の壁画 に 集い 躍動する 獣の姿
若き日 遙か昔 遠い祖先
獣と走り 寒さをしのぎ 命の糧を探した
氷河に覆われた四季を 物語る聲
耳を傾け 目を輝かせる 人々の息遣い
闇に遠く近く 風が吹き荒び 雪が舞う間
かすかに
脈打つ血の どこかで
洞穴を吹き抜ける風にゆらめく 灯明かりの影
雨の滴る中 獣は じっと蹲る
まもなく止む 陽は俟たず 沈んでゆく
山の端から 雲が渦巻いては 千切れ
あちこちの茂みや梢で さまざまな獣が佇み
雨の音を聴いている 葉から落ちる
音だけに 変わりゆくのを 耳を澄ませ
鼠が 巣穴に溜めた 花粉の中で蠢き
栗鼠が どこかに埋めた 団栗に想いを馳せる
兔や鹿が 小刻みに体を震わせながら 佇み
山羊の黄色い目は 雨を透かし なにも見ていない
蛇の目は そこにない なにかを見て 動く気配はない
鳥どもは 陽が沈むので 気が気ではない
獣は うつらうつらする
草原に 森に 山に 洞穴に 散らばる生き物が
きらめき 湯気を立て 震え 夢見 蠢いて 輪を描き
戻ってゆく きらめき始めた星々に 応えるように
地上の星々が瞬く すると 間に 見えない川が流れる
川がめぐると 瞬きが強まり 明るく透きとおって
温かい 川がめぐらぬところは 暗く冷たい
獣は うっすらと 目をひらく
昨日ここに 傷ついた人が 倒れていなかったか
冷たい 毛のない肌に 雨と血が滴り 流れ落ちていた
その目から 光が消えゆくとき どこかにいる幼子へ
流れが走り通じ 幼子へ 光り輝く毛皮が被せられた
それは歓喜し感謝し 雨水を伝い昇り どこかへ帰っていった
それが歌った歌は いまも 耳の底で渦巻いている
獣は 前肢の裏を舐める
自分も傷つき去るとき そうするのだろうか
兔も鹿も皆 そうしている
光の毛皮を まとっているものは 傷つけられぬ
いつの日か それが擦り切れ 消える時まで
息をひきとる時 それは よみがえり 受け渡される
もしも 光の毛皮を まとっているものを 傷つけたなら
息をひきとる時 自らがかつてまとっていた それは
よみがえらぬ そのとき傷つけたものに 渡るからだ
だから なにも受け渡せず 帰るところもない
かれらは どこへゆくのか
無限の涙に 時の滴になって
渡せなかったものを 運び続けるのかもしれぬ
雨上がり
背後で ゆっくりと 翼が ひらく
だれも いない
広やかで がらんどうの 隙間から
響く 雨だれの 音
微笑んでいる
息と 耀く瞳が
辺りを 静まり返らせ
澄み亘らせている
まだ
夜明け前 深い 霧の中
壁は 静かに 遙かに 遠ざかる
景色と 響きを とどめる ために ある
窓の ように 瞼の ように 虹彩の ように
戸口のように 唇の ように 声帯の ように
数多の小さき滴の 行き交い かたちづくる
壁を廻らせた 塔の中で
天辺に穿たれた 窓の傍らに
心は 生まれる
ともに生まれた 光の中で
その窓から 外を眺め 聴き
ともに生まれた 闇の中で
壁に それを記し 遺す
いつか 窓から心が 旅立つと
その塔は 崩れ去るかに見え
壁に残されたものから 漂う風にのり
内側だけの塔になって 霧の中で待っている
いつかまた そこに 心が宿り
霧が晴れ 景色が広がってゆく
闇の中で ふり返り
新たな心が 記してゆく壁には
ふれると ふれ返し 動き出す
景色の歌が 流れている
澄みわたり 透きとおり 生き生きと
微笑み 耀いている
光が生まれ 闇が生まれる Merab Abramishvili Baia Gallery Tbilisi 2012
不在が ゆっくりと 翼を ひらく
なにかが 滴る 音
絶え間なく
柔らかく 遠く
遙かに 浮かび上がろうとする ものから
間近を そっと かすめ
伝い降り
温かく馨る 大地へ
しみ込む
已むことなく 潮のように
惜しみなく
それが 涙なのか 血なのか
まだ 闇は 決めていない
雨であれ と
翼は 祈る
Merab Abramishvili (Georgia 16 March 1957 – 22 June 2006) Black Panther 黒豹
白亜 半油性 地の板に チーズ・テンペラ casein tempera on wood 98 × 151 cm 2005 年
白亜 半油性 地の板に チーズ・テンペラ casein tempera on wood 98 × 151 cm 2005 年
メラブ・アブラミシュヴィリ Merab Abramishvili は
1957 年 3 月 16 日 旧ソビエト連邦 グルジア共和国 の
首都 トビリシ に生まれた
幼い頃から絵を描き始め コーカサス地方 で最も古い
大学の一つ トビリシ国立美術アカデミー に学び
彫刻家の Jacob Nikoladze や
画家の Alexander (Shura) Bandzeladz に師事した
考古学者で哲学博士の父が調査し紹介した
12世紀の教会 壁画 を 模写し
その技法と物語表現を身につけ
やがて ペルシャの細密写本装飾 に見られる
繊細な描写と色調を研究
黒海の縁で幾重にも交叉する コーカサス から
ロシア・クルガン・バルカン・メソポタミア・アナトリア・
イリュリア・ペルシャ・フェニキア・エトルリア・
ギリシャ・ローマ・エジプト・インダス までの
遊牧と流浪と望郷の 物語を覆う 草木のそよぐ
夢へ流れ込む 憧れと歓びと哀しみの 渦巻く
響きへと編み込み 生き生きと開花させた
紀元前 9 世紀 の アッシリア 王妃 Shammurāmat
サンムラーマート (セミラーミース) は 伝説に彩られた生涯に
夫 が征服した バビロニア に 空中庭園 を造らせた とも
ニネヴェ建国の王 の妃となったが 王を毒殺
幼い息子の摂政として女王になり
アルメニア の 美麗王アラ を夫にせんと 攻め入り
戦死させたのちも 生き返らせんと 魔術を用いた とも云われる
が ここでは クジャクの散らばる庭園内を
歴史と伝説の織り込まれた マントを捧げ持つ人々と
無限の距離を隔て 誇り高き女王として 独り歩む
∞ ∞ ∞ ∞ ∞
ハラッパーの一筆文字 Harappan endless knot symbol
∞ ∞ ∞ ∞ ∞
無限に滴る 終わらない時の足跡∞ ∞ ∞ ∞ ∞
落ちて跳ね はなれる 満ちて溢れず 引く
ハラッパー に刻まれた
始まりも終わりもない 文字は
グルジア女王タマル の署名にも
入り込んでいる だろうか
リラ のような ウード のような
内へ窪む円い胴にひらく 内なる無限への 通り道
草原をわたり 山々を吹きぬく
風に運ばれる 時の滴
無限は跳ね あちこちに
形と影 音と響きを穿ち
影と響きが 消えゆく間 通り抜け
來たりて去り 留まりて往く
永遠への入口 無限からの出口
光と同じ とじた輪のような波
光の往ったあと 耀く闇に沈む 時の道
無限の滴に映り 束の間 かすかに宿る
どれも同じで すべて ちがう時
∞ ∞ ∞ ∞ ∞
∞ ∞ ∞ ∞ ∞
Merab Abramishvili Flowers 花 板に テンペラ tempera on wood
草木染や泥染 織物にしみ込む 植物の色と影
花と実と 枝と葉と 根と幹と
根は どこまでも 土を編み廻り 地下の川を渉り
枝は どこまでも 大気を編み伸び 光を浴び
実は どこまでも 空に馨り響き 歌い舞い 伝え運ぶ
木洩れ日舞う森 風わたる草原
漣きらめく川の畔 日没を追い
洞窟の奥 松明ゆらめく中
太古の壁画 に 集い 躍動する 獣の姿
若き日 遙か昔 遠い祖先
獣と走り 寒さをしのぎ 命の糧を探した
氷河に覆われた四季を 物語る聲
耳を傾け 目を輝かせる 人々の息遣い
闇に遠く近く 風が吹き荒び 雪が舞う間
かすかに
脈打つ血の どこかで
洞穴を吹き抜ける風にゆらめく 灯明かりの影
Merab Abramishvili Paradise 楽園
板に テンペラ tempera on wood 76 × 76 cm 2006 年
板に テンペラ tempera on wood 76 × 76 cm 2006 年
Merab Abramishvili Paradise (detail) 楽園 (部分)
板に テンペラ tempera on wood 44 × 150 cm 2006 年
板に テンペラ tempera on wood 44 × 150 cm 2006 年
Merab Abramishvili Seeds of Paradise 楽園の種子
板に テンペラ tempera on wood 75 × 75 cm 2005 年
板に テンペラ tempera on wood 75 × 75 cm 2005 年
雨の滴る中 獣は じっと蹲る
まもなく止む 陽は俟たず 沈んでゆく
山の端から 雲が渦巻いては 千切れ
あちこちの茂みや梢で さまざまな獣が佇み
雨の音を聴いている 葉から落ちる
音だけに 変わりゆくのを 耳を澄ませ
鼠が 巣穴に溜めた 花粉の中で蠢き
栗鼠が どこかに埋めた 団栗に想いを馳せる
兔や鹿が 小刻みに体を震わせながら 佇み
山羊の黄色い目は 雨を透かし なにも見ていない
蛇の目は そこにない なにかを見て 動く気配はない
鳥どもは 陽が沈むので 気が気ではない
獣は うつらうつらする
草原に 森に 山に 洞穴に 散らばる生き物が
きらめき 湯気を立て 震え 夢見 蠢いて 輪を描き
戻ってゆく きらめき始めた星々に 応えるように
地上の星々が瞬く すると 間に 見えない川が流れる
川がめぐると 瞬きが強まり 明るく透きとおって
温かい 川がめぐらぬところは 暗く冷たい
獣は うっすらと 目をひらく
昨日ここに 傷ついた人が 倒れていなかったか
冷たい 毛のない肌に 雨と血が滴り 流れ落ちていた
その目から 光が消えゆくとき どこかにいる幼子へ
流れが走り通じ 幼子へ 光り輝く毛皮が被せられた
それは歓喜し感謝し 雨水を伝い昇り どこかへ帰っていった
それが歌った歌は いまも 耳の底で渦巻いている
獣は 前肢の裏を舐める
自分も傷つき去るとき そうするのだろうか
兔も鹿も皆 そうしている
光の毛皮を まとっているものは 傷つけられぬ
いつの日か それが擦り切れ 消える時まで
息をひきとる時 それは よみがえり 受け渡される
もしも 光の毛皮を まとっているものを 傷つけたなら
息をひきとる時 自らがかつてまとっていた それは
よみがえらぬ そのとき傷つけたものに 渡るからだ
だから なにも受け渡せず 帰るところもない
かれらは どこへゆくのか
無限の涙に 時の滴になって
渡せなかったものを 運び続けるのかもしれぬ
Merab Abramishvili Pianoforte ピアノ
板に テンペラ tempera on wood 150 × 150 cm 1990 年
板に テンペラ tempera on wood 150 × 150 cm 1990 年
雨上がり
背後で ゆっくりと 翼が ひらく
だれも いない
広やかで がらんどうの 隙間から
響く 雨だれの 音
微笑んでいる
息と 耀く瞳が
辺りを 静まり返らせ
澄み亘らせている
まだ
夜明け前 深い 霧の中
壁は 静かに 遙かに 遠ざかる
景色と 響きを とどめる ために ある
窓の ように 瞼の ように 虹彩の ように
戸口のように 唇の ように 声帯の ように
数多の小さき滴の 行き交い かたちづくる
壁を廻らせた 塔の中で
天辺に穿たれた 窓の傍らに
心は 生まれる
ともに生まれた 光の中で
その窓から 外を眺め 聴き
ともに生まれた 闇の中で
壁に それを記し 遺す
いつか 窓から心が 旅立つと
その塔は 崩れ去るかに見え
壁に残されたものから 漂う風にのり
内側だけの塔になって 霧の中で待っている
いつかまた そこに 心が宿り
霧が晴れ 景色が広がってゆく
闇の中で ふり返り
新たな心が 記してゆく壁には
ふれると ふれ返し 動き出す
景色の歌が 流れている
澄みわたり 透きとおり 生き生きと
微笑み 耀いている
光が生まれ 闇が生まれる Merab Abramishvili Baia Gallery Tbilisi 2012
繊細なプリミティヴ・アートのような。
色調も日本画のような渋さですね。
音の組み合わせもそうですが
色や形の組み合わせも当然無限な訳で
芸術表現は本当に無限ですね。
完全な模写はともかくあらゆる芸術作品は生まれた瞬間、なんらかの価値があるように思います。
個々の人間もまたそうであるように。
スピノザは「無限の中で疑いつつ生きる」と言いました。
私もまた、無限の中で創作しつつ生きたいです。
いつも ほんとうに どうも ありがとうございます
グルジア関係だったとは想いますが、なにかを検索中
この黒豹の画像に目が吸い寄せられ…なにもかも忘れ…
古い壁画のようにも見えながら、とても斬新なところもあり
いったいどこの、いつの時代の作家のものなのだろうと…
Wiki英語版にたどり着くと、同世代のかたなのに十年前に亡くなられ…
出逢えたことは、なんと幸運なことかと感謝いたしつつも
もっともっとずっと描いていただきたかったと…しばし茫然…
こうした絵を描かれた一瞬一瞬こそは無限の深みに達し
すべての生命の歓びや調和への道をたしかに見届け再現していたと…
もうupしたいと願った頃、一番右下にリンクした英対訳のカタログを見つけ…
https://www.yumpu.com/en/document/view/14050621/merab-abramisvili-baia-gallery/2
紹介いたしたいと想った作品の寸法や年代、技法材料をほぼ確認することができ…
黒豹の画像下の作品タイトルのところへリンクさせたWikiの詳細な拡大可能な画像
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/4/46/Abramishvili3.JPG
から、技法材料の専門家で画家の後輩に訊ね
テンペラであることは、わかっていました…
テンペラは、顔料を練るのに卵黄等を用いる技法で
仰るように日本画も膠を用いたテンペラの一種です
技法について整理させてください
技法とは、粉末の顔料を、何で溶いて絵具にし、どうやって画面に色を定着させるかです
水 彩 アラビアゴムで顔料を練った絵具を、水で溶いて、画面(紙)に描き
水分が乾くと、アラビアゴムで色素が定着
油 彩 油で顔料を練った絵具を、油で溶いて、(酸化防止の膠引き等の上に)
半油性地等の地塗りをした画面に描き、地塗りと絵具の双方の油分が
結びつきつつ水分が乾く際に、油分の酸化重合で色素が定着
テンペラ 卵黄(レシチン・アルブミン)、チーズ(カゼイン)膠(ゼラチン)
等にアルカリ溶液や温めた水を加えつつ、顔料を練った絵具を
溶いていき、半油性地等の地塗りや礬砂(どうさ)引きした画面
に描き、水分が乾くと(カッコ)内の成分により色素が定着
フレスコ 水で顔料を溶いた絵具を、漆喰を塗った画面に描き、漆喰に
絵具の水分が吸い込まれつつ乾く際に、漆喰として色素も固着
ですので、油彩以外は、すべて水性の技法で、乾きが早いため
緻密な計画性を以て、かなりの速度で全体を仕上げる必要があります…
水性の技法のなかでは、水彩のみが絵具の色に透明感があり、淡く仄かにですが
薄く塗り重ねることで、濁らずに下の色を透かし帯びた、光の混色ができます…
先のWikiの黒豹の画像を最大限に拡大してご覧になられますと、黒豹の身体に
かかった木の葉は、薄い白っぽい地塗りの部分が、そのまま生かされていて
そこに薄く、淡い緑や黄を刷き、まわりから、黒豹の毛並みの深い黒で、この地塗り
の色を、外から木の葉の形に縁どってゆく、「抜き」の技法で描かれています…
これは驚くべき、稠密で生き生きとした、生命の流れ耀く描写です…
「抜き」で、こんがらがった木の葉の絡まり合いが描かれている…あちこちに…
豹の身体の、外側を取り巻く、木の葉は、同じ色でも、地色の白っぽい色に対して
仄かな暗さを持つ、淡い緑や黄で描かれているため、シルエットになって見え…
いっそう体にまつわりつく木の葉が「抜け」ていってしまうのが
まるで豹の毛皮自体がシルエットであり影であって、闇であるかのように…
そこにたしかに居たけれども、いまはもう居ないかのように…
この技法は水墨画でよくみられるもので、特に顕著なのは雪を描いたものです…
様々なものの上に積もり、下のものをかすかにのぞかせているのを、紙の地の
白を雪とし、陰影や下からのぞく枝葉を墨で描き、雪の部分を「抜いて」描く…
細かな木の葉は、唐草模様のように、ステンシルのように、黒い深みのある毛皮を
さらさら、ちらちらと覆っては 離れ、藪へと後退し…
黒豹が居る、居たことで生み出された深い闇を、生きた闇をつくり出す…
ステンシル(型抜き)とは、まさに逆の技法で、しかもフリーハンドによるものですが…
一定ではなく荒いのと、反りが厳しいのでふつうは布でぐるぐる巻きにしてから
地塗りを施すのですが、カゼインによる白亜半油性地を厚く合板の間にも
幾重にも施して塗り壁のようにしているのかも知れませんが、それは確かめられず…
また、カタログでは、彼の制作法の特徴として、何度も消す、拭き、ぬぐっては、そこに
かすかに消え残り、重なり合い、透き通るように 仄かに残った色と形が得られる…
というようなことが書いてあったのですが、テンペラでは、あまりなし得ないようにも
想われ…油との混合技法ではないかとも想われますが、アルコール系の溶剤で
地塗りまで溶かさぬよう、こすり消し、翳のようにぼかすことは可能とは想われますが
そのあたりも実物を見ておらず確かめる術もありません…
カタログでは、氷河期の動物壁画、染め物、アッカドの門の動物群、ポンペイの庭園や
後姿のサッフォー、インド曼荼羅などと通底する穏やかさ静謐な繊細さが挙げられて
いましたが、このきわめてアジア的な水墨画の技法は、失われた古代文明の源とも
されるコーカサスのどこかからグルジアに通じ、あらゆる源へ通じる湧水のごとき
澄み渡った穏やかな輝きを維持しつつ混交し調和することができたのだと…
グルジアのことをあまりにも知らず、昨日やっと
岩波ホールで、あの二編を観てきました…
https://www.iwanami-hall.com/movie/%E3%81%BF%E3%81%8B%E3%82%93%E3%81%AE%E4%B8%98%EF%BC%8F%E3%81%A8%E3%81%86%E3%82%82%E3%82%8D%E3%81%93%E3%81%97%E3%81%AE%E5%B3%B6
どちらの映画でも、年老いた少数民族の、子を失った父親が、傷つき追われ
倒れた瀕死の兵士を助け、互いに敵と呼んで、ひたすら殺し合うことの愚かさを
身を以て示しますが…
未来はとても暗く混沌として、行き場もなく、そうして生き抜くことの苦しさが重く
のしかかって来…
一つは、幼さの残る孫娘の行く末を見届けられるように神に祈るとつぶやいた老人は
豪雨の中、見る見るうちに削り取られてゆく島で、やっとの想いで、わずかな収穫と孫娘を
舟に乗せ押し出す…舟は離れゆく…見送り、天を仰ぎ崩れゆく小屋にしがみつくも…
たがいに殺し合ったジープとバンが、独り残っていた老人の家の脇に衝突…隣家の友人
一人と助けた、二人の生き残りの兵士は敵同士…自分たちはエストニアからの移民…
爆撃で隣家は崩れ、回復しつつあった、憎しみの波の満ち退く双方の兵士二人と
家を失った友人と四人で暮らす老人の家に、混乱した兵士の一団がジープで乗りつけ
薪を割っていた、味方のほうの兵士を敵と断じて殺そうとし、本来の敵のほうの兵士が
室内から銃撃して助ける、初めの敵同士二人は協力して撃退するも、薪割を手伝いに
出て来ていた隣家の友人は撃たれ亡くなっていた…そして…家から歩み出た兵士を
ジープの前で瀕死の腕が嘲り放った銃が殺す…老人と生き残った雇われチェチェン人の
兵士は、アブハジアの地で、隣家の丹精込めた蜜柑の丘に、エストニア人の友人を葬り
グルジア人の若き兵士を、老人の息子の墓の傍らに葬る…老人は止めたが、息子は
志願してアブハジアの兵士となり、すぐに殺されたと…、それなのに、グルジア人に
殺されたのに、グルジア人を隣りに葬るのか、と訊くチェチェン人に、なにが違うのだ
と尋ねる老人、教えてくれ、なにが違うのだ、いや、なにも違わない…もし死んだのが
俺だったら息子の隣りに埋めてくれたか、もちろんだ、別れは苦手だから早く行け、と…
チェチェン人は故郷を目指す…ジープに、グルジアの兵士が一生懸命継ぎ直していた
カセット・テープが…あなたのもとに帰る、必ず帰る、という歌が流れる…
最初の老人と孫娘はアブハジア人、彼らの浮島を洲に流れる川を挟んで
アブハジアとグルジアの兵が戦い、グルジアの兵士がある日、畑に倒れていた…
回復し老人を手伝って杭を作っていた彼に、話しかける少女にアブハズ語は解らない
と若者は言う…いつか少女は、対岸の兵士を見て老人に訊いていた…ここは
かれらの土地なの…いや…じゃあ、誰の土地なの…耕す者の土地だ…と…
アブハジア、オセチア、チェチェン、グルジア、アルメニア、エストニア、ロシア…
映画の中では、グルジアと言っているように聴こえました…
ああ…哀しい…困難と闘い、助け合いたいのに、できない…
困難は敵がもたらすものだと決めているから…
困難は殺すとか排除するのではなく、解決し乗り越えて、共に進まなくては…
それであの絵には独特の透明感があったのですね。
ともあれ、あの黒豹の絵には特に魅力があります。
すぐにリルケの詩を連想しました。
色や線の繊細さと生命力の混合比が唯一無二ですね。
映画はお決まりの民族対立でしたか。
私は自分と違うものに魅力を感じますが
そうではない人も多いようです。
それだけなら良いんですが、往々にして憎んだり蔑んだり支配したがったりするのがうんざりです。
でもまぁ、そういう人達の心を変える方法を知りませんので、とりあえず、自分はトランス・ナショナルでありトランス・ジャンルであり続けたいです。
ですので、偏狭なナショナリストやガチガチの権威主義者、あるいは差別主義者等が私の敵です。
最近では沖縄のヘリパッド基地反対の市民を「土人」と呼んだ機動隊員のような。
いつも ほんとうに どうも ありがとうございます
リルケの詩を読んだことがありませんでした…
https://en.wikipedia.org/wiki/The_Panther_(poem)
これですね…
英訳が二つあって、かなり感じがちがうような気がいたし…
でもドイツ語を見てみると、どちらでもいいような、結局同じなのかな…と…
最初の英訳に似ているように想われる和訳と…
http://www.home.ix.netcom.com/~kyamazak/lit/rilke/neue1.htm#1ng04
二つ目のに似ているように想われるのを見つけ…
http://blogs.yahoo.co.jp/fminorop34/49551350.html
最後のところは、瞳孔が開く、すなわち死が訪れているようにも想われ
なので、心であり心臓であるところへ達して、そこで已み、出てゆく…
すべてのスリットを同時に潜り抜ける、光の波となって…
それは、この大地を駈けめぐる生命を、この牢獄から連れ出してくれる、唯一のもの…
それが遠く、自らの影のような姿で、亡霊のようにうろつき、出て来い、といざない
駈け去っては戻ってきて、辛抱強く待っているのを捜しているかのよう…
それは眼底から、脳内でがんじがらめになり、帰り道を知っている
海馬が、千切れのたうち、森へ平原へ帰ろうとするかのよう…
こんなことは、してはならないですね…
狩ることも、捕らえておくことも…
だれに対しても、なにに対しても…
pantherというのは黒豹で、点々の模様は黒の中にもあるのだけれども
見えないのだとか…白っぽい地に点々のあるのは豹でleopard…
この黒豹に、後ろから、ひきとめるように、棕櫚の葉がかぶさっている
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%AD#/media/File:Trachycarpus_fortunei_%E6%A3%95%E6%AB%9A%E3%80%81%E6%A3%95%E6%A2%A0%E3%80%81%E6%A4%B6%E6%AB%9A_DSCF2826.JPG
のが、とても印象的なのですが、これも「抜き」で描かれ…
棕櫚の葉は、もともと戦に勝った軍隊が凱旋の際に持った勝利のしるしだそうで…
初期キリスト教絵画では、死に対する信仰の勝利を意味し、殉教をあらわすのだと…
光の剣の刃が車状になっているようにも見え…こういう天使がいましたね…
ウリエルとか熾天使とか…セラフィム、もともとは古代の神話の、稲妻の精
六枚の翼を持つ蛇の姿をして、炎のように飛んだという…
まわりの木の葉の花綱が黒豹をからめとるようでもあり
古代の神像に苔むし絡まるようでもあり…
自らの深い闇に息づく黒豹は、木の葉の絡まり脈打つように、しなやかな身体の内に
きらめく生命が流れ廻って、仄かに耀きながら歩みをとめ、耳を澄ませ、また歩み出す…
バベルの塔の建造が放棄され、言葉の通じなくなった人々が離れて暮らすようになった
ように、豊かな実りをもたらす川や谿に隣り合って暮らす人々が異なる言葉を話し
言葉は通じなくとも、ひとりひとりが名を持ち、父母を持ち、人を愛し、心を通わせる
ことはできるはず…違っても同じで、同じなのに違うから、おもしろい…
一緒なら、もっといろいろなことができるはず…
そんなことを、あの映画は伝えようとしていたように…
どんなにつらくても、人としてまちがったことを選ばない、選べない人は、たくさんいて
なにも言わず、途中で斃れようとも、力を尽くして身のまわりを少しでも良くし
困難に打ちひしがれている人を助けようとしている…
そして励まし
楽しく歌い、笑わせようとしている…だから、あなたにもできる…一緒にそうしようと…
リルケの詩やメラブの絵に通底している、生命や大地、自然の尊厳を守り
自由を尊重し、思い遣りと敬意を持って、alterd様が、日々淡々と、心を込め
揺るがぬ意志を以て、伸び伸びと、楽しく、なされようとされていること、そのものでした…
ほんとうにいつも ありがとうございます
そうそう。これです。
私は映画「レナードの朝」で知りました。
難病で体が動かなくなった主人公の心を表していて強烈でした。
映画自体も傑作でしたね。
当初、デ・ニーロは医者役だったそうですが、自ら患者役に頼んだとか。
どこかで心に猛獣を飼う人間には魅力があるというような文章を読みましたが
出来れば、私もそうありたいです。
ともあれ、法律とモラルの外では出来る限り自由でありたいですし、他者のそれも尊重したいです。
とても おいそがしくて いらっしゃられますのに、お読みいただきまして、まことに光榮です
みすず様は とても鋭い 感性をお持ちですので、書かなかった
クジャクの話も ご存知のようなので、ほんとうに びっくりです…
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/3/35/Abramishvili1.JPG
これは黒豹の絵と同じ、彼の絵の Wikiの画像で、虫めがねの中の + をクリックで
素早く リズミカルな筆触も わかる程に、拡大されます…
羽が ふんわり広がり、空気を含んでいる様子が、削り取るようだったり、重なり合う
間の暗い影を ぽつぽつと描き起こしたりして、ふさふさした 軽さと重さが 表されています
少し前に、黒豹の絵を、また観ていたとき、全体の 最初の 白の地塗りの上に、いろいろな
淡い色を薄く 重なり合うように 刷いていて、その上へ 墨色を薄く入れ、豹の身体を描きつつ
豹の身体の上や 前を横切る 蔓草の絡み合いを 描いていましたが、豹の身体の
すぐ外側の 後ろや まわりの草も、ずっと 抜きで 描かれているのですね…
草のまわりを囲む、陰のほうを描くことによって、画面では陰よりも奥にある
淡い色を、薄闇の中で かすかに きらめく 草の形へと 導き出し 置き換えてゆく…
いちばん大外の、最後の最後、縁のほうになって初めて、それまでは 影の色だった
淡く色味のかかった墨色で、草の しなやかな先を描いていたのですね…
深宇宙の ヴォイド か ダーク マターのような ギャップをちりばめつつ、シンプルな
言葉で 軽々と リズミカルに 次元を超え 天空をわたりゆく 、みすず様のような
ハイパー・ナチュラルな言語を いつか繰り出せますことを 夢見て、精進して参りたく
今後とも どうか よろしく お願い申し上げます…
爽やかな笑顔と 心のこもった お励ましを賜りまして
いつも ほんとうに どうも ありがとう ございます
どうか ご無事で お元気にて、若さあふれる 充実した 楽しき日々を お送りくださいますよう
そうね。ブログの更新が遅いです。散文詩だけに拘らないで、絵画のことを書くのも良いと思います。絵画を見に行かれて、なぜブログの記事にされないのかわからないです。Q&Aサイトで言われていても、あまり印象に残らないですよ。絵画の記事で、絵画を見に行った感想をブログに先に書いてある方が、alterdさまや亀さまはわかりやすいと思います。亀さまは、ブログの見方がわからないみたいですけどね ( >Д<;) でも、ベロマークさんが上手く言われると思いますよ! うん それにしても2ヶ月に1回のペースより遅くなっていますので、さすがに遅いですね…。ブログは違う記事でも更新していかないと、順位がどんどん下がって検索エンジンにひかからなくて人にみられなくなります。言っている意味がわかりますか?
http://blogcompare.seesaa.net/article/62336945.html
わたしのコメントでアクセスとってどうするの? (>▽<;; 絵本やDVDの感想でも良いと思います! わたし、絵本大好きです (o^▽^o) あはは 散文詩が遅くなる場合は、DVDで見た映画やドラマの感想、本を読んだら感想をブログに書くとかされた方が良いです。工夫されないといけないですよ。alterdさまのブログの更新の頻度は知っていると思います。他のお方もあんな感じに近いですよ。えへっ 今日も空振りね! (o・ア
hazarさま お体に充分にきをつけられてください