白河城の攻防初日は、会津藩の奮戦もあって官軍が退却を余儀なくされた。官軍は翌日から体勢を立て直し、列藩同盟を攻め続けた。何しろにわか同盟である。また戦馴れしていない。防戦空しく同盟軍は敗北した。
六月にはいると官軍の勢力は増し、同盟軍は白河口から撤退した。七月、磐城平城が落ち、弘前藩が脱退、三春藩が離反し、二本松城が陥落した。さらに相馬藩が離反、九月に入り米沢藩が降伏し、十一日に仙台藩も降伏した。十四日には会津城も陥落した。彼らは賊軍となったのだ。
九月二日に慶応四年(1868年)は明治と改元された。その九月十七日、仙台藩主伊達慶邦親子は謹慎し、翌十月には仙台を退去した。
卓三郎も故郷の白幡村の伊豆野に戻った。
その月の六日に、列藩同盟結成と戦争責任者として大槻盤渓が捕縛されたのである。卓三郎は伊豆野で盤渓先生が東京に移送され、投獄されたことを知った。
故郷の栗原郡は宇都宮藩戸田家の取締地となり、もはや卓三郎が仙台藩の下で千葉家の分家を創設することも不可能となったのである。千葉家を継いでいた利八は士分を認められて、仙台に移住した。「次男」卓三郎は禄もなく「帰農勝手次第」扱いとなり、旧知行地の三町四反ばかりの所有地は認められた。身分は「平民農」となったのである。
さだは還暦を迎えた。十一月の末、卓三郎は再びさだと別れ、松島に住する医師・石川桜所の下で医学を学ぶ決意をした。気丈なさだは気遣う卓三郎を送り出した。
石川桜所は陸奥国登米郡桜陽村(現登米市)の出身である。本名を千葉三安といった。安政五年に大槻俊斎や伊東玄朴と共に、江戸は神田お玉ケ池に種痘所を設立したことで知られる。ちなみに大槻俊斎、伊東玄朴はシーボルトの弟子であり、玄朴は桜所の師でもある。桜所は仙台藩医から幕府の奥医師として召し抱えられ、常に将軍慶喜と行を共にした。また桜所は漢詩文でもその名を知られ、人間的にも卓越していたという。徳川慶喜蟄居後に仙台に帰り、松島に寓した。さだは医師の高階家の出であることから、さほど離れていない桜陽村の千葉三安(石川桜所)をよく知っていたらしい。卓三郎は桜所の下で医学と漢詩文も習いはじめた。
ところが明治二年の夏、新政府は石川桜所が将軍慶喜を補佐していた廉で捕縛し、投獄した。桜所は単なる奥医師ではなく、慶喜の片腕、政治的ブレーンでもあったのだ。卓三郎が桜所の下で学んだのは、わずか九ヶ月であった。
卓三郎の遍歴が始まる。その年の秋、気仙沼に滞在していた国学者の鍋島一郎のもとへ行き、皇学、国典、言霊音義を学びはじめるのである。その鍋島のもとを一年三ヶ月で去り、次ぎに浄土真宗僧侶の桜井恭伯に弟子入りした。しかし桜井恭伯の下での修学はわずか四ヶ月で終わった。言霊音義も浄土真宗の教理も、卓三郎の悩みも虚無感も解決しなかった。「こんなことをしていて、何になるのか」…卓三郎はその意味で求道者だったのだ。
卓三郎は、この数年間に激動と戦場の悲惨を体験した。彼は目標を失った。また大槻盤渓、石川桜所という一流の師を突然喪失した。この体験と喪失感は、彼の現前に巨大な虚無を見せたのではないか。何を為すべきか、如何に生くべきか、何を目標とすべきか、何を目指すべきか。卓三郎の精神的な動揺と迷いと、盲目的な衝動と焦燥が、彼を国学や仏教へと無目的に奔らせたのだ。しかし卓三郎は満たされることなく、ますます焦燥つのり、ますます迷い、悄然と白幡村の伊豆野に帰村した。明治四年のことである。母さだは病の床にあった。
この故郷白幡村で卓三郎は何を見たか。版籍奉還による藩の解体、栗原郡は栗原県から胆沢県に、そして一関県になり、水沢県になった。つまり現在の岩手県に入ったのである。故郷栗原郡の白幡村伊豆野が再び宮城県に組み込まれたのは明治九年のことである。
明治三年、登米県で冷害と租税減免願いの無視から一揆が起こった。一万人の農民たちが竹槍や鉄砲、刀を持ち出し、宮沢村の熊野神社に集結した。彼らの中に多くの旧仙台藩士の帰農武士が含まれていた。軍隊が投入され、一揆はたちまち鎮圧された。そして一揆参加者のうち、二千二百人が斬首、流刑(北海道の地獄と恐れられた樺戸監獄等であろう)、徒刑の処罰を受けたのである。新政府は賊軍に苛烈であった。
卓三郎の帰村の数ヶ月前の事件だった。彼が強い衝撃を受けたことは想像に難くない。
坂本龍馬の従兄弟に沢辺琢磨という人がいる。函館神明社の沢辺宮司の婿養子になり沢辺姓になった。彼はロシア人ニコライのギリシャ正教に帰依し、洗礼を受け沢辺パウエルとして敬虔な信徒となっていた。彼の親友に仙台藩領金成村出身の医師・酒井篤礼がいた。金成村は卓三郎の実母ちかの郷である。ちなみに酒井篤礼の父は緒方洪庵の適塾に学んだ酒井仁庵である。篤礼の妻の父・後藤玄栄も適塾出身の医師で、伊豆野の隣村で開業していた。
さて、篤礼は沢辺琢磨にニコライに引き合わせられ、たちまち感化された。彼も洗礼を受けて、洗礼名をイアオンと名乗った。
明治五年の十月、篤礼は金成村に戻ると、白幡村(伊豆野)や刈敷村、若柳村で布教活動を始めた。妻の父である後藤玄栄も感化され受洗している。その十月、卓三郎の(義)母さだが六十三歳で亡くなった。卓三郎は篤礼の布教集会に出て、たちまちギリシャ正教の感化を受けた。
彼は何かに祈りたかったのだ。彼の心の広漠とした空虚が、ギリシャ正教を吸い込んだのだろう。彼は何かを信じたかったのだ。母さだは慈愛の女性だった。また「家」に縛られた女性だった。
さだの死と共に、卓三郎の肩から「家」の重みも、しがらみも消えた。ただ彼は祈りたかったのだ。卓三郎は信仰の道に入った。キリスト教への弾圧や白眼視が、まだ続いていた頃のことである。
壬申戸籍には「同人不在ニ付キ取調ベ申ス可キ様御座無ク候」と記載された。彼は布教活動のため、白幡村伊豆野を離れ、役人はこう記載せざるを得なかったのだろう。
明治六年二月、政府はキリスト教禁制を廃止した。欧米の反感を逸らすためである。その春、卓三郎は酒井篤礼に連れられて上京し、ニコライ司教から洗礼を受けた。洗礼名をペイトルといった。彼の胸は熱い信仰への思いで溢れた。
篤礼と卓三郎は東京で別れた。篤礼は金成村や白幡村には戻らず、船で函館に向かった。彼に代わり、栗原郡の村々で布教活動に従事するのは卓三郎の役割となった。
明治政府はキリスト教禁制を解きながら、全国に密偵を放してキリシタン情報を集めている。その「諜者報告書」に「四月二三日 宮城県千場(葉の記載ミス)帰県イタシ候 … 四月二八日 宮城県酒井某函館ニ帰向イタシ候 元ト宮城県住居ナリシカ 教法便利ニテ…函館二住居罷在候」と残されているそうである。
明治維新政府は多忙だった。通信交通手段が発達した今日の政府より、よほど多忙だったに違いない。
浦上のキリスト教信者を弾圧し、出版物の無許可発行を禁止した。神仏分離令を出し、廃仏毀釈運動を起こした。太政官札を発行し、商法大意を布達した。
東北諸藩と干戈を交え、明治と改元し、宮中で一条美子(はるこ)の女御宣下(せんげ)と立后(りっこう)の儀を執り行った。これは中世以来廃絶していた儀式である。また様々な皇室儀式の創作を始めた(※1)。
(※1)「皇室祭祀は、皇居の奥深く、古式にのっとっておごそかに営まれるという先入観からなにもかも古代に発しているように思われがちであるが、近代の皇室祭祀の大半は、明治維新後に創案されたあたらしい儀礼である。天皇が親祭する祭典(大祭)は、十三にのぼるが……十一の祭典は、すべて新定の祭りであり…」(宗教史・村上良重)
元号を一世一元に定め、造幣局を設置した。出版条例を制定し、関所を廃止し、公議所を開いた。江戸を東京と改名し、巡幸による天皇PRを開始し、遷都も果たした(※2)。
(※2)「数百年来一塊シタル因襲ノ腐臭ヲ一新」するために大久保利通は遷都の必要を説いた。大久保は大坂遷都、江藤新平と大木民平は江戸遷都を建白した。公家たちは大反対する。大久保等は一計を案じた。
先ず近畿以外での天皇の存在は、武士階級、神官僧侶、富商、医師ら知的階級を除く一般民衆には殆ど知られていない。
「徳川氏ノ悪政ヲ順々御除キ、深ク下民ノ疾苦ヲ御察シ、極メテ善美ノ政ヲ御興シナサレタク、所謂忠臣ノ墓ヲ祭リ、孝子ノ門ヲ表シ、田租ヲ除キ…匹夫匹婦モ其ノ所ヲ得セシメ、以テ人心ヲ収攬シ、皇沢ヲ下通ス等、鳳輦(ほうれん)御東下コレナクテハ、是トテモウマク行ハル間敷」…
煌びやかな鳳輦で巡幸すれば、下民匹夫匹婦等はただ有り難く、徳川の世よりずっと良くなると新しい政事に大いに期待するだろうと言うのである。
大久保も東京遷都論に変えた。彼らは先ず「玉」を近場の大坂行幸に連れ出し、そのまま東京巡幸を実行した。江戸城に入ると「玉」をそのままずるずると滞留させ、そこを皇居とし東京遷都を果たした。
また「所謂忠臣ノ墓ヲ祭リ」は、翌年に東京招魂社を建立することで実行した。靖国神社は「墓」なのである。
五稜郭で榎本武揚を屈服させ戊辰戦争を終結させた。勝利に酔った官軍兵士たちは殺気だち、すこぶる危険となったため、この勢いを朝鮮侵攻に向ける検討を始めた(征韓論である)。東京・横浜間で電信業務を開始した(※3)。
(※3)この後、京都・大坂間の電信業務が開始された。明治六年に東京・長崎間、明治八年に東京・青森間、そして北海道と延伸した。これらは全国の不平士族の乱や、農民たちの地租改正の不満、貢租減免・徴兵反対一揆の情報把握と鎮圧軍の派兵に威力を発揮した。政府は全国の自由民権運動の把握と弾圧に、電信は欠くべからざるものと理解し、全国網の普及を急ぎ、明治十年を過ぎる頃には全国に電信柱が立てられた。この電信柱を利用した電灯の普及はずっと後のことである。いまだに「電信柱」と呼ばれる由縁である。
薩長土肥の版籍奉還を許し彼らを知藩事とした。開拓使を設け蝦夷地を北海道と改名した。公卿・諸侯を華族とした。二官六省制をとり、集議院を開院した。官営前橋製糸所を設立した。
平民の苗字使用を許可し、帯刀を禁止した。郵便制度が創始され、新貨条例と十進法が施行された。薩長土藩より御親兵を徴集した。兵制を統一し、工部省を設置した。華族・士族・平民間の結婚を許可した。戸籍法を定め(壬申戸籍)、・の呼称を禁止した。
廃藩置県を実施し、太政官制を改正し、日清修交条規を結び、岩倉使節団が欧米に出発した。伝馬・助郷を廃し、陸・海軍両省を設置した。琉球国を琉球藩として併合した。徴兵制を告諭し、暦制を太陽暦に変えた。全国に六鎮台を置いた。仇討ちを禁止し、司法職務定制・代言人規制で弁護士制度がスタートした。田畑永代売買を解禁した。新橋・横浜間に鉄道を敷いた。神武天皇即位日(二月十一日)を紀元節とした(※4)。
(※4)「延喜式」に「宮内省に坐す神三座。並名神大、月次、神嘗。園神社、韓神社二座」とあり、大内裏には皇祖皇宗の「宮内省坐園韓神三座」が祀られていた。今でも皇居内には「園韓神三座」が祀られている。園神とはソフリ神(新羅の神)であり、韓神とはカラ神(百済の神)のことである。中世で廃絶したが、二月十一日は宮中内で「韓神祭」が執り行われ、「韓風(からかぜ)吹かむや、韓風吹かむや」と雅楽と舞が行われていた。「あゝ懐かしき故郷の風、吹いてこい」「あゝこの風は、懐かしい故郷の風ではないか」と舞うのである。この「韓神祭」が執り行われた陰暦二月十一日は、韓半島から亡命者や開拓者として渡ってきた人たちが、大和に統一政権を樹立した日なのかも知れない。彼らはその日を演奏と舞で祝い、彼等が棄ててきた故国を偲んだのに違いない。だから紀元(起源)節であり、戦後は建国記念日とされたのだ。
ちなみに明日香は古朝鮮語の「ふるさと」という意味の安宿(アスク)であり、飛鳥(あすか)も同じである。奈良(寧楽)のナもラも国で、古称・平城(平壌)京は平らな国のことだ。韓国の政党「ハンナラ党」とは、韓(ハン)国(ナラ)である。ソフリとは古朝鮮語で都、京、つまりソウルのことである。「神道五部書」の中の「五鎮座次第記」に、イザナギノミコトの左目から生まれた天照大神の別名は「瀬織津比メ神」とある。セオリツヒメとはソオリ姫、ソフリ姫(都の姫)のことである。日本各地の古い神社にはソフリ姫が祀られているところが多い。
明治政府は多忙であった。国立銀行を設立した。西郷、江藤らの征韓派が敗れて下野した。副島、板垣、後藤らも下野し、不平士族たちに不穏な動きが広まり、貢租減免・徴兵反対一揆が起こりはじめた。政府は内務省の設置に続き、東京警視庁を設置した。
政府は北海道に屯田兵制度を設け、開拓と不満分子の鎮圧に留意した。板垣等が民選議院設立の建白書を提出し、立志社を設立した。
政府は佐賀の乱の勃発を「電信」でいち早く知り、これを速やかに鎮圧した。自由民権運動が高まりを見せるなか、政府は台湾征討に派兵した。また株式取引所条例を定めた。
元老院と大審院が設置された。漸次立憲政体樹立の詔が出された。樺太・千島交換条約が交わされた。自由民権運動が高まる中、讒謗(ざんぼう)律と新聞条例が施行され、言論弾圧を強めた。講談会(演説会)を密偵、警官が見張り、これに干渉した。
江華島事件が起こった。廃刀令が出された。小笠原諸島の領有が決まった(林子平と小野友五郎のお陰である)。茨城・三重・愛知・岐阜・堺など全国に地租改正反対一揆が起こった。神風連の乱、秋月の乱、萩の乱が起こった。西南戦争が起こった。西郷が自決した。コレラが大流行した。紙幣を乱発し物価が騰貴した。大久保利通が暗殺された。…
維新政府とはまことに多忙な政府であり、また多難な政府であったのだ。
話頭を転じる。北海道で、ロシア人のニコライ司教に感化されてクリスチャンとなった人々の中に、旧仙台藩領の人々が数多く見受けられる。これは藩校養賢堂のロシア語教育や、大槻盤渓の親ロシア政策の影響があるのかも知れない。また北海道には、朝敵・賊軍として新政府に苛めぬかれた奥羽越列藩同盟の敗残兵が数多く移住した。仙台藩の支藩である亘理(わたり)藩の人々は、集団移住して伊達町(市)を拓いている。
さて、ギリシャ正教の熱心な信者となった千葉卓三郎のことである。卓三郎の遍歴と、彼が客路十年、旅窓に見た「遙かなるコミューン」の夢のことである。そこに至るまでの維新の混乱と奔騰の歴史を概観したわけである。
ついでに維新政府の怪しさと、彼らが創始した新興宗教「近代天皇制」の怪しさにも触れたわけである。無論、それは維新政府の凄まじいばかりの必死さの歴史でもある。
千葉卓三郎 中央 大槻盤渓