芳野星司 はじめはgoo!

童謡・唱歌や文学・歴史等の知られざる物語や逸話を写真付でエッセイ風に表現。

競馬エッセイ 政人とチケット

2016年02月27日 | 競馬エッセイ
                                       

 サラブレッドは気性が激しい。彼等は人間で言えばアスリートである。その激しさが、負けず嫌い、闘志となって、クビでもアタマでもハナ差でも、他馬より前に出ようとするのだろう。勝負根性と言われ、過酷なレース、特に大レースでそれを発揮すると、底力と言われる。
 彼等は「勘」もいい。毎日の稽古の微妙な変化で、レースが近いことを知る。それは彼等に緊張を強いる。頭の良い馬は、その微妙な変化や緊張感から、徐々に競走モード、戦闘モードに入っていくらしく、自ら競走用の身体をつくっていくという。
 またサラブレッドは「癇(かん)」が強い。激しいと言ってよい。恐ろしいほどである。大レースの日ともなれば、何かが、朝から彼等の癇を刺激し続ける。馬は耳がいい。幽かな重低音だが、何かが聞こえるのだろう。
 多くのファンがスタンドを埋め尽くすような大レースともなれば、そのファンが放つ何でもない音や声の総和は、重低音のどよめきとなって馬たちを刺激する。いつもの厩務員や調教師や騎手の微細な緊張が、馬たちを刺激していく。
 パドックから馬場に出ると、彼等はいつもに層倍するスタンドの人数と、潮騒のようなどよめきを浴び、広い競馬場のその空気に包みこまれる。彼等は怯える、緊張する、興奮する。スタンドの群衆の興奮で、彼等のイライラや興奮もその極に達する。
 ナスルーラ系産駒、リボー系産駒やハードリドン産駒、リマンド産駒、ミルジョージ産駒やブライアンズタイム産駒、サンデーサイレンス産駒等はみな気性が激しく、癇が強かった。そう言えばブライアンズタイムにはリボーの血が入っているのだった。またサクラショウリもカツラノハイセイコも、イナリワンも、レガシーワールドやウイニングチケット、ナリタブライアンやディープインパクト、エピファネイアも、みな気性が激しく癇が強かった。
 これらの馬たちの鞍上にあって、彼等をなだめ、落ち着かせ、彼等の意識をレースに集中させ、その能力を引き出し、強い癇や激しい気性を闘志と勝負根性に転化させる騎手たちの技術は、実に凄いものだと感嘆するばかりである。騎手はアスリートなのだ。

 ウイニングチケットを年末のホープフルSというレースから見た。黒っぽく、さほど大きな馬でもない。たまたま有馬記念の場イベントの件で、中山競馬場に居合わせたのである。パドックから苛々、チャカチャカとした、何と癇の強そうな馬だったことだろう。ウイニングチケットの父は凱旋門賞を勝った新種牡馬トニービンである。トニービン産駒はイレ込み癖があるのだと、その時初めて知った。数年後に登場するジャングルポケットも「イレっぼ」だった。
 ウイニングチケットの鞍上は、名手なのに、どうしてもダービーに勝てなかった柴田政人騎手であった。レースでのウイニングチケットは強かった。彼はおそらく「これで、今度こそダービーを」と思ったことだろう。
 そうだ、柴田政人はそれまで18回もダービーに挑んだが、これはいけるといった馬には恵まれていなかったのだ。だから敗れても悔しさを滲ませることもなく、淡々としていた。しかし彼は「ダービーを勝ちたい。勝てたら引退してもいい」と言っていたのだ。
 ちなみに85年のダービーにミホシンザンが出ていたら、その年、柴田政人はダービージョッキーになっていただろう。
 93年のクラシック戦線は、そのウイニングチケットが中心であった。調教タイムも良く、順調が伝えられていた。しかしウイニングチケットの不安材料は、あの癇性、本番での激しいイレ込み癖であった。
 ウイニングチケットと柴田騎手は、先ず弥生賞で関西の有力馬。武豊騎乗のナリタタイシンを破って勝った。関西にはもう一頭、早田牧場一押しのビワハヤヒデがいる。この馬は中山の若葉Sから関東の岡部幸雄が手綱を取っていた。来る皐月賞が初顔合わせとなる。
 皐月賞でウイニングチケットは、ホームストレッチで馬群の中にもがいていた。ビワハヤヒデが先頭に踊り出ると、後方から馬群を切り裂いて大外に持ち出したナリタタイシンが、一気にクビ差出て優勝した。ウイニングチケットは4着に敗れた。この時の敗因はよく分からなかった。やはり道中が難しい馬で、折り合いを欠いていたのかも知れない。これはダービーでも懸念材料だろう。

 ダービーの一週前にダービーフェスティバルが行われた。この時のゲスト騎手は柴田、岡部、武で、あと一人は小島太だったか、蝦名だったか田原だったか記憶にない。ビワハヤヒデ、ウイニングチケット、ナリタタイシンの三頭が有力視されていたのである。柴田に全く気負いはなかった。
 ダービー当日、私は東京競馬場のダービーデーイベントに追いまくられ、パドックを見る暇などなかった。ウイニングチケットが一番人気で、続いてビワハヤヒデ、ナリタタイシン、マイシンザンと続いた。
 マイシンザンは父がミホシンザンで、NHK杯を勝ち、鞍上の田原成貴ともども最も穴くさい存在であった。ちなみにミホシンザンは皐月賞と菊花賞を制したが、柴田政人のお手馬であった。先述したが、故障さえなければミホシンザンはダービーも勝ち,三冠馬になっていたに違いない。
 レースのファンファーレが鳴った。私は日吉ヶ丘に駆け上り、そこから観戦した。4コーナーを回ると内から灰白色のビワハヤヒデが先頭に立とうとしていた。ウイニングチケットは馬群の中にいる。ナリタタイシンはさらに後ろだろう。一群は地響きをあげてあっという間に通り過ぎ、ゴール前は土埃と馬の後ろ姿ばかりでよく分からない。もの凄い歓声、どよめきが上がっていた。…どうやら半馬身差でウイニングチケットが勝ったらしい。…
 私は不思議な感動にとらわれていた。これはカツラノハイセイコが優勝したとき以来の感動だ。柴田政人がダービージョッキーになったのだ。騎手デビューから24年目、ダービーに挑戦して19回目にして、彼はついにダービージョッキーになったのだ。
 よくあの癇性の強い馬が、2400メートルもの道中に折り合いを欠くことなく、引っ掛かったりもせずに走ったものである。
 やがてスタンドの方から「マサト」コールが聞こえてきた。それは長く続いた。
 
 その秋ウイニングチケットは京都新聞杯を貫禄勝ちし、菊花賞に備えたが、本番はビワハヤヒデの3着に破れた。距離が長過ぎたのかも知れなかった。
続くジャパンカップもレガシーワールドの3着に破れ、徐々にその精彩を失っていった。
 94年の秋、怪我でリハビリ中の柴田政人騎手が引退を表明した。ウイニングチケットも翌月の天皇賞惨敗を最後に引退していった。
 その年の暮れの有馬記念の場イベントで、私は「ありがとう柴田政人騎手」という映像を作り、柴田政人騎手と野平祐二調教師をゲストに、トークと映像で構成したステージの制作に当たった。
 ちなみに当時の柴田政人は騎手会長も務め、親友・福永洋一の落馬による大怪我・引退が常に脳裏にあったか、フェアプレーを騎手仲間に訴え続けていた。彼は野平祐二騎手以来36年ぶりに「特別模範騎手賞」を受賞し、また「ユネスコ日本フェアプレー賞実行賞」を受賞していた。
「特別模範騎手賞」受賞騎手は偉大な称号なのだ。藤田伸二騎手の二度の「特別模範騎手賞」受賞は、実に凄い、特筆すべきことなのである。