この一文は2006年7月25日に天野雀空の筆名で書かれたものである。
一年以上も前に「日はどこから昇るか」「神社の気」「神社の由来」と、一連の文を書いた。再び整理したい。
私は神社の鳥居や建造物、樹木のたたずまい、そしてどこか凛とした空間の気が好きだ。また古刹の空間の気も好きだ。しかし神道にも仏教にも関心は薄い。信心は持っているので無宗教ではない。人格神ではなく、感覚的、身体的、経験的に感じている宇宙的生命摂理で、極めて原初的なものである。山河に海に巨木に岩に草木に鳥獣に、大自然に畏怖を感じている。つまり私の信仰は、原始宗教的なある種の「気」なのである。それは感覚的身体的で深い。その気は神道も天皇も無関係だ。神道についても哲学的思弁性がないので哲学とも宗教とも認めていない。私が神社に感ずる清冽な気は、かつてそこが原初的、アニミズム的神域だったからであろう。
「日本の国土は海と山とにせばめられた『島山』である」と柳田国男は言った。
島山に住み始めた南方系も北方系古代人も、海にそそり立つ島山の自然を畏敬し信仰した。海から昇り山岳に沈む太陽を神とした。その山岳を神とし火の山が飛ばした巨岩も神とした。島山を囲む海も神であり、風も颱風も神なのである。梟も狼も熊も狐も、そして龍も神の使いだった。
人々は海辺と山岳に多くの神を祀った。神は海から来たり山から来たるのである。今でも沖縄や奄美の巫女は、海岸の岩の聖地から沖に向かって神を呼び迎える。また岩の裂け目の風穴から吹き上がる風は龍の吐く息で龍穴と呼ばれ、瀧は龍の登り道とされた。水源や泉や巨樹も神が宿り、神はそこから麓へ、集落へと降りて来るのだ。古代人はそれらの自然を畏怖し尊崇し祀った。
人々は神に共同体を守ってもらうよう祈ったのである。神の場所・神域に印を置き、立ち入らぬよう縄を巡らした。その境の内側(境内)が神界である。
原始伊勢信仰を例に取る。縄文土器時代の原始伊勢信仰は、今の伊勢より海に近い土地に発したと言われている。
彼等の視点からは、日は海から昇った。太平洋は「黄金(くがね)色」に煌めき、人々はこの海を照らす日を信仰の対象とした。「海(あま)照らす神」である。
さて話頭を転じる。聖徳太子は、我が国は「日出ずる国」と書いた書状を遣隋使に持たせた。「日出ずる国」の視点は、朝鮮半島からの視点である。日本列島弧の本州や四国などの視点からは、日は太平洋から昇るからである。
大陸人の目には日は東シナ海あるいは海の向こうの彼方から昇る。そして朝鮮半島人の視点では、日は日本海あるいはその向こうの島から昇るのである。「日出ずる」島という視点で、日本列島弧を見ていた朝鮮半島人は、やがて日本海を渡った。
朝鮮半島から来た人々は、縄文系の人々が神域としていた同じ場所を神域と認め、そこに彼等の氏神、祖神を祀った。彼等は本貫・氏素性を重視する文化を持っていたのである。渡来人も彼等の共同体が守られるよう、その本貫の氏神に祈ったのである。
やがて彼等は大和地方に至り、さらに伊勢湾、東海へと進出していく。その折り原始伊勢信仰「海照(あまてらす)神」を天孫・皇祖「天照(あまてらす)大神」とつくり変え、天皇家の祖神として伊勢神宮を造営した。
海はアマと読む。伊勢湾の海女はアマと呼ばれる。また日本各地の素潜り漁師たちは男女を問わずアマと呼ばれる。この海=アマ、ウミは南方系縄文人の発音であリ、アマ(ウ)ミ大島のアマである。
この南方系古代人の言語が、現在の日本列島に特有の訓読みのルーツであると思われる。呉音・漢音では海はクァイ、カイである。古朝鮮語では海はハタあるいはワタである。秦氏は百済辺りの海の一族だった。佐渡の渡津神社は海の神である。戦没学生の詩集「わだつみの声」も、八幡の「やはた」「やわた」も古朝鮮語に由来する。
また古朝鮮では呉音・漢音発音の他、史読(リドウ)と言う当て字読みが発達した。しかし大陸にも朝鮮半島にも訓読みは存在しないのだ。
ちなみに天は呉音・漢音ではテンと発音する。南方系古代人は「あま」と発音していた。沖縄では原初の世界を「あまんゆー」と言う。「ゆー」とは世、世界のことである。つまり「天の世界」である。だいぶ話が逸れた。
さて、人が滅多に近づくこともできない山奥の龍穴や巨岩は本来の御神体である。この御神体と里の中間に位置する山の中腹辺りに「奥宮」が設けられた。そこからさらに麓に近い丘に、一集落に一柱の「鎮守の森」が設けられた。さらに人里の真ん中、あるいは街中に「里宮」が造営された。
ある特定の一族の祖神のみを祀った神社や人物を祀った神社は、里宮しか持っていない場合が多い。自然御神体と奥宮と鎮守の森と里宮が揃った神社こそ、古代・縄文時代から続く神域を持った神社と言えるだろう。
神域の根拠もないのに、後世に勧請され造営された分社には、殆ど神気が存在しない。無論たまたまその場所が神気を帯びた場所である場合もある。あるいは、分社ができて何百年も古び、神域とも言うべき神気を帯びた森や空間を現出させた神社もある。
松陰神社や東郷神社、希なるアホスケの乃木神社に神気はない。明治神宮も神社としては根拠はない。靖国神社は天皇の名で戦に駆り出され、その戦で死んだ兵隊たちの怨念の社ではないか。日露戦争では無意味な二○三高地奪取等のため約11万人の戦死傷者を出した。ホロンバイル戦争(ノモンハン事件)では第二三師団の死傷率は79%に達し、2万人の無意味な戦死者を出した。
アッツ島の守備隊は早々に大本営から見捨てられ、生存率がわずか1%の玉砕の島であった。南方の島々に兵士を運ぶ輸送船は、南の海に次々と沈められたが、大本営は30%の兵士を生きて上陸させればよしとした。70%の兵隊たちは戦わずして南溟に消えたのだ。
アジア太平洋戦争の戦死者のうち、直接的戦闘で死んだ者は約15%に過ぎず、残りの約85%は餓死、病死、溺死で、彼等はろくな武器も弾薬も持たされず、食糧も持たされなかった(現地調達せよと命じられたのだ)。これほど軽んじられた兵士の命は世界の戦史にも類例なく、全て天皇の名の下に戦地におくられ、殺されたのだ。何が英霊か。たった一枚の赤紙で死地に送られ、靖国神社のたった一枚の御座布団に座っていらっしゃるとは何事ぞ。この怨念きっと晴らさなければならない。
この死者たちは、戦争の責任者とは別に、慎んで悼み慰霊しなければなるまい。また日本が絡んだ戦争で亡くなった全ての国の人々も、併せて慰霊しなければならない。