芳野星司 はじめはgoo!

童謡・唱歌や文学・歴史等の知られざる物語や逸話を写真付でエッセイ風に表現。

我が魂の凍土

2016年02月21日 | コラム
 この一文は、今から9年前の2006年12月20日に書かれたものである。
 昨年もロシアで反プーチンの野党党首が何者かに暗殺された。監視カメラには彼が射殺される様が記録されていた。しかしその場所を映し出す監視カメラは、ふだんは複数台設置されているというのだが、この日に限って1台を除き、全てが故障していたというのである。…そしてつい最近も、ロシアのドーピング検査機関の元最高責任者たちが、二人も相次いで不審な病死をしたのである。しかし、それを病死とみるロシア人は一人もいない。

                    

 象徴的なルビヤンカの犯罪であるジャーナリストのアンナ・ポリトコフスカヤの射殺に続いて、ロンドンでロシア連邦保安庁(FSB)のユトビネンコ元中佐がポロニウムで殺された事件が、世界の耳目を集めている。続いてガイダル元首相代行がアイルランドで毒を盛られた。
 プーチンの指令か、彼の意を酌んだクレムリンの徒党の陰謀か、反プーチン派の謀略か、ロシア・マフィア=ロシア新興財閥の陰謀か。
 実はそんなことはどうでもよい。諜報機関の暗躍や秘密…それらの推理は数年後の船戸与一の作品に任せよう。

 私がこの一連の事件報道で想起するのは、ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」や「悪霊」が描いたロシアの魂のことである。
 とどまることのない物欲と権力欲、途方もない富の独占と蓄積、歯止めのきかぬ欲望のスパイラルと、澄明な精神性との相克のことである。これらは全て国家という枠を破砕しかねぬ内なるアナーキズムであり、ナイリズム(虚無主義)である。これらは全て、ロシアという風土的、歴史的な、極北の精神性の表出であろう。
「我が魂の凍土(ツンドラ)」である。ちなみに「わが魂の凍土」は私が若い頃に文学、哲学、社会の縦断的・重層的評論を構想した際の表題である。無論、私はそれを多忙を理由に放擲したので、未完の幻の書である。

 かつて大江健三郎は自作の小説の登場人物に、「人間なら誰でもドストエフスキーを読むべきだ」と語らせた。賛成である。
 19世紀の末から20世紀初めに、ロシアの新カント派の文学者・哲学者のウオルィンスキーが、一連のドストエフスキーの研究論文を発表した。「白痴」を論じた「美の悲劇」、「カラマーゾフの兄弟」研究の「カラマーゾフの王国」、そして「悪霊」の研究「偉大なる憤怒の書」である。
 無論ドストエフスキーは偉大だが、このウォルィンスキーも偉大である。この「悪霊」と「カラマーゾフの兄弟」こそ、ドストエフスキーが露出させた近代ロシアの魂の混沌であり、近現代の人類の魂の虚無性である。そしてドストエフスキーは全ての角度から、全ての思想、政治機構に対して、嘲笑、侮蔑、激越な批判を浴びせかけたのである。その批判と嘲笑と侮蔑こそ、ドストエフスキーの虚無的憤怒なのである。

 スターヴローギンもキリーロフもロシア的明晰さと、ロシア的混濁を併せ持ち、また激発する精神と、脆弱さの裡に死に至る異常さを示す。ドミトリー・カラマーゾフは混濁の裡にあり、イワン・カラマーゾフは明晰な近代合理主義と知性を持ちながら、果てしない物欲に走り、しかも誰よりも苦悶しつつ攻撃的である。
 アレクセイ・カラマーゾフは優しさという弱さに震えながら澄明な目で事態を見守るしかない。ゾシマ長老は静かに、そして激しく「原理主義」の正義を批判し、彼の死の周囲に跳梁する人間の政治学(ポリテクス)が悲しく虚しく描かれていく。
 しかし、このロシア的虚無主義とアナーキズムは、ロシアという風土に突出して表出しただけの象徴に過ぎない。それは近現代人の魂の全ての象表なのである。

 この人間の政治学こそ、村上ファンドやライブドア、楽天の三木谷の欲望と裏切りの金銭ゲームであり、いっさいの価値ある物を生産することなく莫大な富を収奪するリーマンブラザーズたちのビジネスであり、またビジネスという名の交渉事であり、足の引っ張り合いとチクリ合いであり、単なる北の時間稼ぎに過ぎぬ無駄な六カ国協議というゲームであり、また死に至る地球環境を目撃しつつも止まぬ、経済成長という欲望のシステムと利己主義なのである。そのような人間の醜悪さは、ドストエフスキーが描いたゾシマ長老の周辺に腐臭を放って渦巻いていたのである。

 ユトビネンコ暗殺は、ロシアという風土に突出して表出しやすい、近現代人の魂の虚無の象徴的事件なのである。それは「我が魂の凍土(ツンドラ)」であろう。
 ちなみにウォルィンスキーの「偉大なる憤怒の書」(みすず書房1970年刊)の翻訳者は、あの「死霊」を最晩年まで書き続けた埴谷雄高である。またウォルィンスキーのドストエフスキー研究の三冊は、私が左手を書棚に伸ばせば、いつでも手に取れる位置にある。