千辛万苦 是吾行(これわがぎょう)
不撓堂々 生気盛(せいきさかん)
枕石(ちんせき)夜中(やちゅう) 眠路上(ろじょうにねむる)
杜鵑(とけん)一叫(いっせい) 夢難成(ゆめなりがたし)
千葉卓三郎が起草した「日本帝国憲法」は、私擬とはいえ壮大な構成を持った人民憲法だった。それは薩長閥による専制政治への批判と、全国的な国づくりへの草の根の市民参加とも言える自由民権運動と、決して長くない卓三郎の生涯の精神遍歴の果てに辿り着いた五日市コミューンが醸成した奇跡だったのではないか。
卓三郎の「日本帝国憲法」は、後に自由党副総理となる元老院議官・中嶋信行や、著名な弁護士で自由党の大立て者となる星亨(※)に読まれ、高い評価を受けたらしい。しかしこれがその後世に出る機会はなく、やがて深沢家の土蔵で長く埋もれることになる。
(※)星亨は江戸の貧しい左官屋の子である。英学を学び、陸奥宗光の推挙で官吏となったが、イギリス公使パークスとの間に「女王事件」を起こして辞任した。イギリスに留学し法律を学び、彼の地で日本人初の法廷弁護士資格を得た。帰国後に司法省所属の代言人となった。彼が本邦の弁護士第一号である。
後に河野広中など政治犯の弁護士として鋭い論陣を張った。
明治十四年に自由党に入党し、政党政治の権化となった。薩長藩閥政治を徹底的に批判、これに対抗し、保安条例違反で東京を追放処分となり、次いで出版条例違反で投獄された。出所後に第二回衆院選挙に当選し、第二代衆院議長となった。
その後朝鮮政府の法律顧問、駐米大使を歴任。その剛腕ぶりは「押しとおる」と言われるほどであった。悪い噂も絶えず、いくつもの疑獄事件にその名が挙げられ、ついに暗殺された。しかしその死後、彼には莫大な借金以外の資産は全くなかったということが判明した。おそらく収賄はあったのだろうが、その金は全て政治に注ぎ込み、それでも足りずに借金を重ね、全く個人的蓄財はしなかったのだ。そこが家業の政治屋と甘い利権・票田を息子に世襲させる日本の世の政治屋たちとは決定的に違う点であろうか。政治家・星亨に関しては、山田風太郎明治時代小説集の一作に、名作がある。題名は失念した。
先にも記したが、この憲法草案は明治十四年の五月か六月には完成していたようである。卓三郎は土佐や山梨の自由民権運動の大会に出席するなど、もはや教師としての行動を逸脱していた。
勘能学校校長の永沼織之丞は、五日市町長の馬場勘左衛門や学務委員の内野小兵衛らと共に、助教の卓三郎をかなり自由に行動させていた。深沢名生や内山安兵衛、土屋勘平衛、常七らも、そんな卓三郎に尊敬と信頼を寄せ、応援していた。
しかしやがて永沼と卓三郎の間には何か感情的な溝ができていったようである。また政府が教員の政治活動を封殺するため、小学校教員心得や学校教員品行検定規則などの布達を出して小学校教員を准官吏とし、その政治集会への参加を禁止するに及び、卓三郎は勧能学校を離れることになった。彼は私立政事法律学校の教師へと転職を考えていたようであるが、それは実現しなかった。おそらく法律を専門に修学したという学歴が無かったためだろう。
卓三郎は独学で一流の法律学を身につけていたが、時は既に学歴社会になっていたのである。政府は先の教員布達と共に、校長や教師の資格を厳しくしていた。
これよりずっと後になるが、先の「地に潜む龍」でも記したように、狩野亨吉が京都帝国大学文科大学の初代学長となった折、在野の内藤湖南や幸田露伴を教授に推挽して、学歴がないと言う理由で文部省官僚たちが強く反対したことに触れた。明治半ば前にして、日本は権威主義と学歴主義の社会になっていたのである。
五日市を離れた卓三郎は、北多摩郡奈良橋の民権家・鎌田喜十郎の家や、狭山の園乗院に寄宿しながら、あちこちの演説会、講談会に飛び回るように参加していた。鎌田喜十郎は卓三郎の門人を自認していた。
卓三郎はアルバイト的にいくつかの学校で教鞭をとっていたようである。武相困民党事件、農民騒擾事件のリーダー秋山増蔵はその履歴書に、八王子の上川口学校で千葉卓三郎(千葉卓候)に歴史学を学んだと書き残している。
ちなみに秋山増蔵の親戚に秋山文一という青年がいた。秋山文一は北村透谷の親友で、透谷はこの上川口を何度も訪れ、長期間滞在している。卓三郎が病の床に伏したとき、その最晩年を傍で助けたのがこの秋山文一であった。
永沼織之丞が勧能学校の校長を辞め、麹町に開設される私立学校・共賛義塾に漢文教授として転出することになった。五日市の学務委員らは急遽卓三郎に連絡を取り、その後釜に卓三郎を推薦したいと伝えた。卓三郎も五日市町も全く異存はないのだが、既に教員資格が厳しくなっており、卓三郎の校長就任も、正式の教師としても難しくなっていた。彼は勧能学校に戻るのだが、おそらく身分はもぐりの助教だったのではないか。
再び五日市に住むことになった卓三郎だったが、彼の労咳は重篤なものになりつつあった。彼は深沢七生・権八親子や、内山安兵衛、土屋勘平衛・常七兄弟、馬場勘左衛門、内野小兵衛らの強い勧めで、草津で療養することになった。明治十五年の六月から暑い盛りの八月の間である。草津で彼は大量の血を吐いた。草津療養後に、おそらく勧能学校を辞職していたであろう。その晩秋、一時的に志波姫に帰郷している。身辺整理や墓参をしてきたのかも知れない。
翌十六年年の正月には上京している様子はあるが、それは五日市ではない。彼の住まいは不明であり、何を職業としていたのかも不明である。この間、「王道論」やニヒルな「読書無益論」を著しているが、無論これらも出版されることはなかった。この「読書無益論」には、わずか二、三年前の
千辛万苦 是吾行
不撓堂々 生気盛
枕石夜中 眠路上
杜鵑一叫 夢難成
と詩にした元気は完全に消え失せ、あれほど夢中で読み、研究したボアソナード「仏蘭西法律書」、ミル「代議政体論」「自由之理」、ルソー「民約論」、スペンサー「社会平権論」、ベンサム「民法論綱」「立法論綱」など、全く無益だったと虚無的に韜晦しているのである。彼の挫折感の深さと屈曲、憤怒と鬱懐のほどが知れるではないか。
明治十六年の秋、彼は内山安兵衛の叔父・野田伝兵衛の親身な世話で、淡路町の三河屋に寄宿し、病身を横たえている。秋山文一が彼の身の回りの世話をした。もう衰弱が甚だしい。彼は明治二十二年まで生きたいと願っていたらしい。その年に発布される「欽定憲法」の中身を知りたかったのだ。その欽定憲法は、ベルツが「こっけいなことには、誰もその内容をご存じない」と危ぶみ、兆民が一読後に鼻先でせせら笑って放り投げたように、「人権」や「自由」には程遠く、「統帥権」という鬼胎を孕んだ代物だったのだ。
晩秋、卓三郎は本郷龍岡町の東京帝大病院で亡くなった。彼の最期を看取ったのは、深沢親子、野田伝兵衛、秋山文一である。その場に親族もなく、孤独な、わずか三十一歳五ヶ月の生涯だった。
後年、深沢文書の中に見出された遺言書では、卓三郎の従兄弟に当たる旧仙台藩士・広田隆友の次女「はるぢ」を、養女として入籍することを広田に申し入れることとしている。広田は卓三郎に勧められて敬虔なキリスト者になっていたが、卓三郎が棄教すると彼と決別していたのだ。この遺言書は、筆を手に持つ力も失せた卓三郎に替わり、深沢七生が代筆したものである。卓三郎の死後、広田隆友はこの遺言に応じ、十七歳の娘はるぢを卓三郎の養女として入籍させ、千葉家を継がせた。かつて卓三郎は矯激なキリスト教信者として、祖先と雙親の位牌を墓所に捨て去ったのだが、封建下に生きた父宅之丞や(義)母さだの千葉家存続の激しい想いに、最期にこうして応えたのかも知れない。彼は死に当たって、決して神の名を口にすることはなかった。
関山(かんざん)風雪 紅河の雨 客路十年事(こと)なお違(たが)う
半生空しく過ぐ旅窓の夢 杜鵑(とけん)頻りに勧む帰るに如(し)かずと
深沢権八はこの年長の親友の死を、深く悼み哀しんだ。
悼 千葉卓三郎
懐へば君の意気は風濤を捲き
郷友の会中もつとも俊豪
雄弁は人推す米のヘンリー
卓論は自ら許す仏のルッソー
一編曾て草す済時の表
百戦長く留まる報国の力
悼哉(とうさい)英魂呼べど起たず
香烟空しく鎖す白楊の皋(こう)
「英魂呼べど起たず」と、その詩はまことに悲痛である。