エリモダンディーは黒鹿毛の小さい牡馬であった。父はブライアンズタイム、母はエリモフローレンス、母の父イルドブルボンで、スピードと底力のある長距離血統である。1994年、エリモの名の通り山本慎一の「えりも牧場(農場)」に生まれた。サラブレッドとしては遅い5月生まれで、とても小柄だったため、牧場では周りの馬たちに威嚇されたり虐められたりして、萎縮し、怯えきっていた。
それらの虐めを叱り、ダンディーを助けてくれたのは牧場の人たちだった。人間と一緒にいれば他の馬たちから虐められずにすむ。だからダンディーは人間を信頼し、なつき、甘えた。ダンディーはいつも牧場の人たちに寄り添い、その後を追った。それが愛らしく、彼等はダンディーをとても可愛がった。
ダンディーは山本慎一の所有馬として栗東の大久保正陽(まさあき)厩舎に入ることになった。大久保師は天才エリモジョージ、障害競走から平地に転じて宝塚記念と有馬記念を勝ったメジロパーマーや、最強の三冠馬ナリタブライアンを送り出したことで知られる。大久保師は種牡馬ブライアンズタイムの底力 を高く評価していた。何しろあのナリタブライアンの呆れるばかりの強さである。彼はその年もエリモダンディー、シルクジャスティスというブライアンズタイム産駒を預かった。
エリモダンディーが入厩した日、大久保厩舎の人たちは驚いた。牧場が間違えて二歳馬(現馬齢一歳馬)を馬運車に積み込んでしまったのでないかと思ったのである。それほど小さかった。背に鞍を置いても370キロに満たなかった。これで大成できるのだろうか。しかしダンディーは人なつこく甘えん坊で、素直でおとなしく従順で、愛くるしく、たちまち厩舎関係者の人気者になった。なかなか俊敏で、小さいため、すぐに競走に出せる馬体となった。「ダンディー は3勝を目標としよう」と大久保師は言った。
ブライアンズタイムを繋養する早田牧場生産のシルクジャスティスは、明るい栗毛の牡馬である。母はユーワメルド、母の父はサティンゴで、早田一押しの馬であった。しかしジャスティスは厩舎関係者をがっかりさせた。彼は人の命令を完全に無視するのである。どうも人間を「なめきっている」らしかった。
気性も荒く、一度暴れると手が付けられないほど凶暴になるのである。調教も進まず、全く走る気を見せず、馬体も絞れなかった。そもそもゲート審査も受かりそうもなかった。調教タイムも上がらないので、能力が有るのか無いのかさっぱりつかめなかった。彼は人間に対しても他の馬に対しても、気性がきつく、いつも喧嘩腰であった。
エリモダンディーは栗東トレセンの中でも、よく他馬に威嚇され虐められた。小柄なダンディーは何ら抵抗もできず、射すくめられ、萎縮していた。するとどこからともなくシルクジャスティスが駆け寄り、ダンディーを威嚇していた馬を一喝し、逆に激しく威嚇した。「コラッ! てめェら弱い者虐めするんじゃねえ! 何なら俺が相手をしてやる、やるんかワレ!」と言ったのだろう。その激しい剣幕と威嚇に恐れをなし、その馬は怯えて退散した。
「もう大丈夫だ」ジャスティスはダンディーに優しかった。 彼はその名の通り正義なのだ。「ありがとう、お兄ちゃん」「おいおい、お兄ちゃんはやめろよ、俺たちゃ同期じゃないか」
エリモダンディーに馬の友だちができたのだ。ダンディーはすっかりジャスティスを慕い、その弟分になった。それからトレセン内の曳き運動のときも、厩舎に帰るときも、いつも兄貴分のジャスティスの後ろを追うようについて回った。
仕上がりの早いエリモダンディーのデビューは、1996年6月札幌の新馬戦である。馬体重は396キロ。気の弱い馬の戦法は馬群を避けた最後方からか、もしくはハナから先頭に立って逃げまくるかである。特に馬体の小さなダンディーは馬群の中でもまれることは不利であった。大久保師と田面木博騎手 は、彼の瞬発力を生かすために後方からのレースが良いと思っていた。しかしこの時期の新馬戦は距離も1000メートルと短い電撃戦で、幸いなことに少頭数である。馬群に包まれるというようなこともあるまい。
彼等は中団を進み、直線で一気に先頭に躍り出た。上がり3ハロン34.9秒。素晴らしい瞬発力である。3戦目から松永幹夫騎手が騎乗し、1997年1月の若駒ステークスを勝って5戦3勝。早くも目標を達成して、クラシック戦線に名乗りを上げた。馬体も420キロ前後へと成長した。それでも牡馬として極めて小柄である。
シルクジャスティスのデビューは1996年10月中旬の京都である。見るからに太目で調教不足の感が否めぬ490キロの馬体重であった。レース前の調教タイムは凡庸である。しかしあのナリタブライアンの大久保正陽調教師が、あの武豊騎手に騎乗依頼し、武がそれを受けて臨んでくるのだ。きっと並々ならぬ秘めた能力に期するものがあるのだろう。こうした期待からジャスティスは12頭立ての3番人気に押された。結果は全くやる気も見せぬ「後方まま」で11着に惨敗した。
2戦目は福永祐一が騎乗した。馬体重は少しばかり絞れて482キロ。ジャスティスは走る気も見せずに後方を進み、12頭立ての9着に敗れた。3戦目は馬体重がさらに絞れて470キロ。鞍上は若い藤田伸二騎手になったが、また後方を進んだまま、10頭立ての8着に終わった。こうしてジャスティスは良いところなく負け続け、初勝利は7戦目の未勝利戦であった。鞍上は再び武豊で、馬体重は464キロ。実はこの460キロ台がシルクジャスティスの理想体重であった。
意表をついた作戦に出るのが大久保正陽調教師の真骨頂である。師はジャスティスを、未勝利戦勝ちの翌週、何と連闘で重賞の毎日杯に出走させたのである。大久保師はジャスティスが高い能力を持っていると確信していたのである。何しろ馬房の天井を蹴破るほどのジャンプ力とキック力の持ち主なのだ。ここを勝たせて一気にクラシック第一弾の皐月賞に出走させるつもりだった。藤田と同期の河北通が手綱をとった。ジャスティスの無謀とも思える挑戦は、14頭立ての12番人気の評価に甘んじた。彼等は最後方を進み、直線一気に馬群を抜き去っていったが3着に終わった。…皐月賞には間に合わなかった。しかしやっとジャスティスの潜在能力が見えた一戦だった。
エリモダンディーは皐月賞への出走が決まった。レースは河北通で臨むことになった。18頭立ての8番人気である。彼等は終始後方を進み、直線伸びたものの7着に終わった。11番人気に過ぎなかったサニーブライアンと地味な大西直宏騎手による、スローな先行逃げ戦法にはまったのである。誰もが「まぐれ勝ち」だと思った。このサニーブライアンのレースぶりは、かつてのカツトップエースを彷彿とさせた。
皐月賞の前日、シルクジャスティスは武豊を鞍上に阪神の若草ステークスを勝った。終始最後方を進み直線上がり3ハロン34.8秒の豪脚を披露した。武はかつて騎乗して皐月賞を制したナリタタイシンの切れ味を思い出した。「タイシンなみだね」…しかし武豊は、その年のクラシック戦線をランニングゲイルで挑むことに決めていたのである。
5月、ジャスティスは重賞の京都四歳特別に藤田伸二と臨んだ。ダービーの最終切符である。彼等はまた最後方を進み、4コーナー手前で進出して3ハロン 34.7秒で差しきり、初重賞を制した。ジャスティスは速い脚を長く使えるのだ。前年、フサイチコンコルドで史上二番目の若さでダービー騎手となった藤田伸二は確信した。「今年一番強いのはこの馬だ」
「すごい、すごいね。これで一緒にダービーに出られるね、頑張ろうね」とダンディーが一番喜んだ。ジャスティスは鼻先で「ふん」と言った。でも少しばかり嬉しそうだった。
その年のダービーは17頭立てである。1番人気はメジロブライト、2番人気はランニングゲイルで、藤田伸二と臨むシルクジャスティスは堂々の3番人気に押された。河北通と臨むエリモダンディーは4番人気となった。皐月賞馬サニーブライアンは6番人気に過ぎない。藤田は自信があった。「勝てる。相手 はブライトとゲイルだ。武さんのゲイルも要注意だが、ブライトを躱せば何とかなる。あっちが先に仕掛けてから追えば、ジャスティスの切れ味のほうが上だ」
ゲートが開いた。サニーブライアンがハナを切った。所詮逃げ馬だ。柳の下に二匹目の泥鰌はいない。ジャスティスと藤田は後方を進んだ。最後方からダンディーと河北が行く。サニーブライアンと大西は淡々とスローで逃げた。後続の騎手たちは思っていた。この馬はいつでも躱せる。…ブライト、ゲイルが動いた。それを見てジャスティスが動き、上がり3ハロン34.2秒の豪脚を炸裂させた。最後方からダンディーも34.2秒で追った。しかしジャスティスはサニーブライアンをわずかに差し切れなかった。彼と藤田は2着に敗れた。ダンディーと河北は4着だった。再び大西直宏の巧妙な戦法にはまったのである。サニーブライアンはまさに、かつてダービーまで制したカツトップエースそっくりに、二冠馬となったのだ。能力が低くても、その戦法がはまれば勝てるのだ。それにしても、果たして低い能力で二冠が獲れるものだろうか? 「まぐれ」で二冠を制することができるだろうか? (ちなみに私は、カツトップエースとサニーブライアンの皐月賞とダービーを競馬場で目撃している。無論いずれも馬券は紙屑となった。)
秋、サニーブライアンは故障で引退した。それもカツトップエースとそっくりだった。だからその後の彼等のレースを見ることはできず、本当の実力は不明のままなのである。三冠最後のレース菊花賞はマチカネフクキタルが制し、ジャスティスは5着、ダンディーは10着に敗れた。
大久保師は何とかジャスティスを立て直したかった。ジャスティスは稽古嫌いで、不真面目ですぐ手を抜く。これからは、騎手の指令を素直に聞き、いつも真面目に稽古するダンディーと併せ馬(稽古)をさせよう。二頭はとても仲が良い。
こうしてジャスティスとダンディーはいつも一緒に稽古(併せ馬)をするようになった。ジャスティスが手を抜こうとすると、ダンディーがそれを真剣に躱わそうとする。
「どっちが速いか、さあ勝負ですよ」とダンディー。「おいおい、マジかよ」とジャスティスもつられて走る。お互い切磋琢磨し、良い稽古をした。
エリモダンディーは1997年の11月、武豊を鞍上に迎えて重賞の京阪杯に挑み、初重賞勝ちをした。シルクジャスティスはその年最後のレース有馬記念に藤田伸二と挑んだ。そして勝ったのである。グランプリホースになったのである。日本一に輝いたのである。
ダンディーとジャスティスは馬房でこんな会話をしたはずである。「すごい、すごいね。日本一だよ」「うん、まあね。運が良かったんだよ」「いやすごいよ、 日本一だよ」「あまり実感はないよ」「春の天皇賞はまた一緒に頑張ろうね。今度は僕の番だよ」「そうか、お手柔らかに頼むよ」
…でも、それは実現しなかった。
年が明けて、ダンディーは金杯2着、そして日経新春杯を快勝した。しかし重賞2勝目の代償は大きかった。レース後故障が判明したのである。全治九ヶ月の重傷だった。移動させることが困難だったため、しばらく大久保厩舎内で治療に当たることになった。
ダンディーの馬房の前を通るときに、ジャスティスが声をかけた。「おい大丈夫か?」「うん」「だいぶ痛むのか?」「うん」「しばらく一緒に稽古できないな」「うん」「早く良くなれよ」「うん」「また一緒に走ろうな」「うん」
しかしそれから間もなくして、エリモダンディーは世を去った。怪我が原因ではなく、腸捻転で亡くなったのである。シルクジャスティスが泣いた。弟のようなダンディーを想って泣いた。
以後シルクジャスティスは気が抜けたようになった。心ここにあらずといった風情である。胸にぽっかりと穴が空いたのである。親友を失った悲しみからジャスティスは立ち直れなかった。こうして彼はダンディーの死を境にして、11戦負け続けた。その最後のレースは2000年の5月27日、中京競馬場 だった。重賞とは言え金鯱賞ごときレースで、11頭立ての11着という、グランプリホースとしては実に不甲斐ないものであった。もうすっかりやる気が失せていたのだ。
彼はそのグランプリホースという栄誉を地に墜として引退していった。そのため種牡馬としての評価も上がらなかった。しかし彼は、牧場でのんびりと青草を食みながら、友と過ごした厩舎や稽古、レースを思い出し、ゆっくりとその深い悲しみから立ち直っていったに違いない。
彼はふと青草から顔を上げ、遠くを見つめた。
「なあ友よ、今思い返せば、楽しかったよなあ…」
「ええ、楽しかったですねえ」と懐かしい声が風に乗って聴こえた。
(この一文は2012年9月16日に書かれたものである。)