芳野星司 はじめはgoo!

童謡・唱歌や文学・歴史等の知られざる物語や逸話を写真付でエッセイ風に表現。

月と連想

2016年04月25日 | エッセイ
           この一文は2011年7月17日に書かれたものである。

 毎夜、窓を大きく開け放して寝ている。室内を涼やかな風が通り抜け、熱帯夜は一度もない。
 ここしばらく、横になりながら、ほぽ満月に近い月を眺めている。月は東から昇り、南の沖天に動き、やがて西の空に移って、私からは見えなくなる。夏の月の動きは意外なほど早い。それだけ夜が短いわけである。
 それにしても、月がこれほど大きく光り輝くものだと、改めて知った。皎々とした月明かりで屋外も室内も明るい。その輝度の強さは、建物や樹木などに漆黒の影闇をつくり、レースのカーテンの模様も床に揺れるシルエットを映じる。
 もし、この月の輝きを「まるで金貨のようだ、いやまるで丸い黄金の球のようだ、…」と喩えれば、それこそまるで、リラダン伯が「残酷物語」の中の「ポールとヴィルジニー」に描いたとおり、即物的な現代人そのものの表象である。

 ヴィリエ・ド・リラダンはフランス革命で没落したものの、有数の大貴族の出である。ポードレール等とボヘミアンの生活を送り、マラルメ等とは生涯の友であった。彼の有名な逸話に、「生活? そんなものは下男にでもやらしておけ」というのがあった。
 何しろ芸術の神か悪魔に魅入られた、それ以外は何の興味も示さなかった伯爵だったのである。彼は世界の文学界に多大な影響を与えた。若き日の三島由紀夫もその一人であった。

「源氏物語」は世界最古の長編小説と言われているが、世界最古の中編小説、世界最古の恋愛小説なら、ロンゴスの「ダフニスとクローエ」だろう。古代ギリシャ語で書かれ、その成立は「源氏物語」より七百年早い。エーゲ海のレスボス島を舞台とした牧歌的で健康的な純愛小説である。
 リラダン伯はこの古典文学「ダフニスとクローエ」を下敷きにし、「残酷物語」として「ポールとヴィルジニー」を書いた。この恋人たちは、結婚後の二人の財産を数え合い、語り合うのである。煌めく星を見れば、まるでダイヤモンドのようだわ、とウットリし、あるいは金貨のようだと恍惚とする。そして愛の誓いとして、君にあの星数以上の金貨を贈るよと言うのだ。二人で皎々たる月を眺めても、まるで黄金のようだ、僕たちもあんな金塊を手に入れようねと語り合うのだ。二人の睦言は不動産、貴金属、金、金、金の、即物的打算的な話ばかりである。もはや現代人には「ダフニスとクローエ」のような牧歌的な純愛はないのだ。だから「残酷物語」というわけである。リラダンはいかにも皮相的であった。

 かつてライザ・ミネリ主演の名作ミュージカルに「キャバレー」というのがあった。その中で「マニマニマニー、マニマニマニマニマニマニ…」と歌われる傑作があった。「マニーマニー、お金が世界を回している」という歌である。描かれていたのは退廃的な、深いナイリズムであった。
 今年の春まで私がお世話になっていた出版社に、中国人の三十代の女史がいた。彼女は芸術や文学、スポーツなどには全く関心がない。いつもお金にまつわる話しかしなかった。どこが安い、どこなら何割お得、ポイントがつく、高給、高収入、お金持ち、超富裕層、お金儲け、あの人は高級車を何台保有している、あの人はキャッシュで何百万もの買い物を気軽にできる凄い人…。人間の価値はお金の保有高、財産の多寡で決まる。ビジネスの成功者、高額所得者、お金儲けをしている人のみが尊敬に値し、生きるに値する人であり、付き合うに値する人である。さらに、お金儲けができない人は無価値な人、貧しい人はさっさと死んでしまえばいいとまで言うのである。
 全てのクライテリアは金や富に還元され、価値化されるのだ。これはそのまま市場原理至上主義と結びついている。好い人なのだが、彼女のおしゃべりを聞いているうちに不快になったものである。そして「ポールとヴィルジニー」を想い出した。
 これは中国人に特有なのではない。日本人も同様なのだが、中国人はより少しばかり、その価値基準の信奉において強烈なのである。ここまで金や富に心を奪われる心象もまた、深いナイリズムに根ざしていると言ってよい。

 今度の大震災、大津波、原発事故で、日本の市場原理主義は激変するかも知れない。替わって新しい連帯原理というものが生まれているのかも知れない。それは日本人の市場原理至上主義からの離脱を意味する。それはまた、日本を発祥地、根拠地としていた日本のグローバル企業が、日本からの離脱を図ることを意味する。そう、連帯原理と言えば、柄谷行人に「NAM-原理」「可能なるコミュニズム」というのがあった。あれは連帯原理、相互扶助論だった。

 明治維新、大逆事件、関東大震災、大空襲、敗戦、バブルの崩壊、狂騒的かつ恐るべき速さで進化しまた時代遅れとなるIT、リーマンショック、3.11…。海外の事変でいえば、ベルリンの壁の崩壊、ソ連邦の解体、冷戦の終了、9.11…。その前と後では、時代認識、歴史と思想哲学、価値が激変するのだ。
 ガラガラと音を立てるように変わる時代。多くの不幸も悲劇も現出するが、ついていけないほどの時代の激動や世界の激変、歴史的不幸に遭遇することは、「僥倖」かも知れない、と言ったのは福沢諭吉である(「文明論之概略」)。何故なら「一身にして二生を経るが如く、一人にして両身あるが如し」…だからである。世界が激変する前と後を聞見することは、一生ではなく二生を経験することであり、これは僥倖、得をしたと思うべきだと言うのである。さすが諭吉は楽天主義者なのであった。
 ふと、諭吉はアナーキストだったのではないかと思ってしまう。なぜなら、アナーキズムとは、思想哲学というより、多分に、権力・圧力・拘束力に対する憤怒と、へそ曲がりと痩せ我慢と、人の好い、どこか明るい楽天的気分で、主義というより趣味に近いものだからである。

 横になって皎々たる月を眺めながら、こんなことを考えているうちに、あたりはうっすらと明けはじめてしまうこともある。
 さて、リラダンに強い影響を受けた三島由起夫も、「ダフニスとクローエ」を下敷きに小説を書いた。しかし彼は、その作品をリラダンのように皮相的にはしなかった。再び、牧歌的、健康的な純愛小説に仕立て直したのだ。名作「潮騒」である。…それにしても、今宵もまるで黄金のような月ではないか。


     

光陰、馬のごとし クラシックレースの話

2016年04月23日 | 競馬エッセイ
                                                   

 東京優駿(日本ダービー)はお祭りである。日本では今日、年に七千頭近くのサラブレッドが誕生し、約半数が中央競馬に登録、入厩する。ダービーは同年生まれの馬たちが、数々のトライアル競走を経て、三歳春の最速最強を、スピードとスタミナが求められる2400メートルの距離で競うのである。
 2400メートルも走って、わずか数センチ、あるいは1、2センチの鼻差で決着がつくこともある。それは首の上げ下げとも言われる。コーネルランサーとインターグッドの年、カツラノハイセイコとリンドプルバンの年、カツトップエースとサンエイソロンの年、アグネスフライトとエアシャカールの年が鼻差であった。
 カツトップエースとサンエイソロン世代、アグネスフライトとエアシャカール世代はレベルが低かった。また勝負事には「まぐれ」は付きものである。ダービーでもそれはある。その後、大きなレースを勝てない馬もいる。アグネスフライトがそうであった。ダービーの激走で、故障する馬も少なくない。コーネルランサー、カツトップエースもそうであった。インターグッドもダービー後一戦したのみで故障し、登録抹消となった。
 コーネルランサーとインターグッドの年は、突出していたキタノカチドキが3着に敗れた。勝ったコーネルランサーの中島啓之は、父中島時一と同様ダービージョッキーとなった。時一が騎乗したのは牝馬のヒサトモで、戦前のことである。ヒサトモについては「奇跡の復活(1)」をお読みいただきたい。
 インターグッドに騎乗した笹倉武久は、まことに地味な騎手であった。彼にとって痛恨の、生涯悔いの残るレースだったに相違ない。わずかな鼻差で、華のある「ダービージョッキー」の栄誉を逸したのだ。ちなみに中島啓之騎手は、ダービー優勝の十一年後、現役のまま癌で逝った。
 
 鼻差の激闘…デッドヒート…。これを火花散るような熱い死闘と思い込む人は多い。これは本来の意味ではない。競馬の発祥地イギリスでは、馬の馬体が完成する五歳上の古馬のヒート競走(Heat Race)を行っていた。heatとは予選のことである。2マイルから6マイルを同一組の馬たちで複数回走り、二回から三回の複数回1着になると優勝となる。これだと「まぐれ勝ち」の確率は相当下がるわけである。
 当時、そのゴールでの決着は目視だったため、微妙な僅差あるいは同着と見なされた場合、そのHeat Raceは無効(dead)とされた。微妙な同着、僅差で無効となったHeat RaceがDead Heatなのである。今日、競馬のゴールは全て写真判定(photo finish)となり、当然同着もある。
 やがて若い三、四歳馬でも距離を短くし、また一回きりで一気(dash)に決着をつけるレースをやることになった。これが Dash Race である。1776年、ドンカスター競馬場で三歳馬だけの芝2マイルの Dash Race「セントレジャー」ステークスが創設された。1813年に、その距離は約3000メートルに変更となった。
 ステークスとは出走馬の馬主が掛け金(stake)を出し合って賞金とし、勝者と上位入着馬に分配する方式である。セントレジャーは第二回まで、勝者が賞金を総取り(sweep)するスウィープステークスであった。
 第十二代ダービー伯爵エドワード・スミス・スタンリーは、友人と所有の三歳牝馬を競わせる芝1マイル余のレースを提案した。レース名は伯爵の領地に因んだ「オークス」と名付けられた。1779年第一回のオークスを勝ったのはダービー卿所有のブリジットである。オークスは1784年から距離が約1マイル半に延長されている。
 そのブリジットの祝賀パーティで、ダービー卿が牡馬も交えたレースの創設を提唱した。レース名は、すぐに賛意を示したチャールズ・バンベリー準男爵とダービー卿がコイントスで決め「ダービー」と名付けられた。翌1780年、第一回英ダービーがエプソム競馬場の芝1マイル余で開催された。優勝馬はバンベリー卿のダイオメドであった。1784年にオークス同様、距離が約1マイル半に延長されている。
 1809年、ニューマーケット競馬場の芝の1マイル余の直線だけで、三歳馬の早熟性とスピードを競うレースとして「2000ギニー」が創設された。このレース名は、その時の優勝馬の賞金額から名付けられた。
 1814年、同様に三歳牝馬だけの「1000ギニー」が創設された。これもニューマーケット競馬場の芝1マイル余を、直線だけでそのスピードを競うのである。…これらのレース体系が確立し、回を重ねてクラシックと呼ばれ、世界中の競馬開催地で、三歳馬のレース体系のモデルとなったのである。
 
 日本の牝馬クラシックの第一弾1600メートルの「桜花賞」は1000ギニーをモデルとし、2000メートルの「皐月賞」は2000ギニーをモデルとして創設されている。これらの距離は早熟性とスピードの勝負である。
 ダービー、オークスの2400メートルは、早熟性、スピードとスタミナ、底力を試されるレースと言えよう。俗にダービー馬になるためには「運」もいると言われている。
 秋の3000メートル「菊花賞」は、もちろんセントレジャーがモデルで、成長力、晩熟性、スタミナ、底力が試される。皐月賞、ダービー、菊花賞を三冠と言う。皐月賞と菊花賞を勝つということは、能力の持続性と成長力が必要なのだ。三冠馬とは実に凄い能力なのである。
 昨今、本場イギリスのセントレジャーが低調であるらしい。イギリスでは、三歳の若駒の3000メートルを回避し、2000ギニー、ダービー、そしてフランスの凱旋門賞(2400)を欧州三冠とし、その目標としている。
 アメリカの三冠レースの第一弾は、ルイビルのチャーチルダウンズ競馬場で行われる「ケンタッキーダービー」ダート2000メートルである。第二弾は、メリーランド州ボルティモアの「ブリークネスS」ダート1911メートル。三冠目がニューヨーク州ベルモントパーク競馬場で施行される「ベルモントS」ダート約1マイル半のレースである。
 アメリカ競馬は左回りのトラック状のダートコースが多く、各競馬場の形もほぼ画一化されている。スピードを重視し、短・中距離戦が主体である。日本のダートより砂は軽く浅く脚抜きが良い。したがって芝コースとさほど変わらぬ速いタイムが出る。また現在は、人工繊維や樹脂を混合した合成ダートコースが増えているらしい。オールウェザーと言っているが、良馬場、不良馬場、重馬場、稍重馬場の得手不得手を「斟酌する楽しみ」は少ない。左回りが得意、右回りが上手い、坂が苦手、長い直線で速い脚が活きるとか…競馬ファンの楽しみは、多くの要素を斟酌することなのである。
 私は口が悪い。ケンタッキーダービーなど、佐賀の「九州ダービー栄城賞」ダート2000メートルと大して変わらず、ブリークネスSも名古屋の「東海ダービー」ダート1900メートルと大して変わらない。ベルモントSは大井の東京ダービーと変わらない。もちろん、その華やかなイベント性、出走馬の血統の良さ、ゴツさと能力、賞金額には大きな開きがあると思うけれど…。
 ついでに言いたい放題だが、私は短距離戦(特にダート戦)があまり好きになれない。重賞・根岸ステークスのダート1200メートル(1400メートルに戻したが)の何が面白い?  芝のスプリント戦(1000~1200メートル)なら、ハナからガーッと飛ばす馬たちが多く、ゴールのだいぶ手前でバテて脚が止まる。そのため中段、後方から行く馬の差しや追い込みが決まる展開になることもあり、それなりに劇的である。
 しかしダートの1000~1200メートル戦は、逃げ、先行馬がそのまま残ることが多く、ゴール前の劇的な変化が少ない。どうせ逃げ、先行馬が有利なら、あのハイセイコーのような呆然とするくらいの大差の圧勝劇が見たい。ハイセイコーのダートの短距離戦は凄いものであった。
 ハイセイコーは公営大井の所属馬であった。そのデビュー前の調教の凄さが評判となり、対戦を回避する馬が多く出て新馬戦が不成立となった。そのためハイセイコーのデビューは、未出走戦ダート1000メートルの6頭立てであった。ハイセイコーは懸命に逃げるジプシーダンサーを軽くかわすと、あっという間に8馬身差をつけ、驚異的なレコード勝ちをした。
 続く二戦目は53万下レースのダート1000メートル戦で、唖然とするような16馬身差で圧勝し、続く特別レースダート1200メートル戦を8馬身差の圧勝。ゴールドジュニアー競走ダート1400メートル戦を10馬身差のレコード勝ち、特別戦を7馬身差、重賞の青雲賞(現ハイセイコー記念)を7馬身差…。さほど追う様子もなく、馬なりに近い。6戦6勝で中央競馬に移籍し、その後は芝のコースを走った。しかし彼は芝向きではなかった。
 おそらくハイセイコーは、ダートの2000メートル戦までなら日本の競馬史上屈指の馬だったと思われる。むしろアメリカ競馬に移籍していたなら、相当の戦績を挙げたかも知れない。ケンタッキーダービーも、ブリークネスSも好勝負を演じたのではなかろうか。それともアメリカの軽いダートは合わなかったか…。
…彼の息子ライフタテヤマも、ダート戦だけなら6戦6勝の強い馬だった(芝の中京三歳Sや、シンザン記念も勝っている)。当時はダートの重賞は三レースしかなかった。今のようにダートの重賞レースが多ければ、ライフタテヤマはダート戦のみに徹し、ダートのGⅠも含め勝ちまくっていたに違いない。
 いつものことながら、ダービーやクラシック競走の話から、だいぶ逸れてしまった。

                          
                                                    

愛する小鳥よ…

2016年04月22日 | エッセイ
                                                            

 今日4月22日は「アースデイ」だそうである。アースデイと国連の「地球環境を守る日」がどう違うのか、同じものかは知らない。この「アースデイ」とか「地球環境を守る日」と聞くと、どうしてもコロラトゥラ・ソプラノのサイ・イェングァンさんの「愛する小鳥よ」が頭の中に響きわたる。もちろん自分で口ずさめるような歌でもない。

 国連「地球環境を守る日」のテーマ曲「愛する小鳥よ」は、中国を代表する作曲家・施光南(シー・グァンナン)が、崔岩光(サイ・イェングァン)のために書いたとされる。
 サイさんは中国音楽学院歌劇科を修了し、中国中央歌劇院ソリストとなり国連「地球環境を守る日」に「愛する小鳥よ」を北京で初演、中国音楽協会「緑葉賞」を受賞した。施光南は中国最高の作曲家と言われている。彼の人生も謎めいて、東京湾で水死体で発見されたのである。詳しくは知らない。

 かつて、サイ・イェングァン(崔岩光)さんに「波瀾万丈ですね」と言ったら、彼女は「そうでもない」とこともなげに言った。しかしサイさんの人生は生中なものではなく、実に波瀾万丈と思われた。
 人生には浮き沈みがある。非才な私は沈降し、「神が与えた声」と言われた彼女は、三枝成彰や小澤征爾らに「世界No.1ソプラノ」と評価された。
 以前、ゲートシティ大崎のグランドオープンの企画に携わり、サイさんのコンサートを開催した。三井不動産の岩沙社長が休憩時間にロビーに出てきて、興奮気味に「素晴らしい、実に素晴らしい。世界No.1ソプラノだ」と大声で言った。社長ご夫妻は、実は熱心なオペラファンだったのである。サイさんは、まさに絶品のコロラトゥラ・ソプラノなのである。
 彼女はそのような高い評価を受け成功したのだが、しかし、実はその才能に見合う知名度と成功を得ていなかった。おそらく波瀾万丈の、彼女が最も沈降していたときに日本デビューをしたからである。

 彼女は三大テノールのひとりホセ・カレーラスとの共演で、フランス・オペラ座から世界デビューすることが決まっていた。最も沈降した理由は、天安門事件が発生し、フランスやアメリカなどが激しく天安門事件批判、人権問題批判を展開した。それに強く反発した中国政府は、「もう崔岩光をフランスには出さない」という決定を下した。
 こうしてサイさんはヨーロッパからの世界デビューをふいにし、日本に来た。日本が天安門事件や人権問題で、あまり批判めいたことを言わなかったからである。
 サイさんは子ども時代から歌の天才少女と呼ばれていたらしい。ある人が美空ひばりと同じだよと言った。私はひばりの「東京キッド」を思い浮かべた。あの、まるで子どもらしくないシナとつくり笑顔で、首領様のために歌って踊る北朝鮮の幼稚園児のような、品のない子どもと比較しないでいただきたいものである。
 最近、安倍昭恵さんは幼稚園児たちが声を揃えて唱える「五箇条の御誓文」「教育勅語」や、軍歌「軍艦マーチ」を聞いて感動したそうである。まるで北朝鮮の幼稚園児と同じである。幼稚園で教育勅語と軍歌を歌わせる国になったのだ。

 さて、天才少女といわれたサイさんは、中国の要人や各国の賓客の前で、よく歌ったそうである。しかし、やがて文化大革命で槍玉に挙げられた両親と別離し、姉弟らと子どもたちだけの軟禁生活を強いられたという。家の中でレコードばかりを聴いていたらしい。文革では叔父が獄死した。
 文革が終焉すると北京空軍歌舞団に入り、たちまち頭角をあらわし、毛沢東主席夫妻や特に周恩来夫妻から寵愛されたという。
  だから彼女は、北京政府の要請で毛主席の逝去を歌で送り、後年その生誕百周年を歌うことで祝ったのだ。

 彼女は平山郁夫に招請され、東京芸術大学の客員研究員として来日した。その派遣期間の満了が近づいた。彼女は帰国しなければならなかった。もっと日本で学びたいという彼女のために、当時の朝日新聞の中江社長が一肌脱いだ。彼女は中江社長の養女となり、日本で音楽を学び続けることができた。
 そのころ朝日新聞は親中派として、右翼団体から執拗な攻撃を受け続けていた。ついにある日、右翼の野村耿介が、朝日新聞の社長室に押し入り、短銃自殺をした。中江社長に責任はないと思うが、彼は退陣した。悩んだサイさんは養女を解消した。
 そんな彼女を引き受けたのが木村さんという、演歌と民謡しか歌わぬ、東北育ちの明るく朴訥な人であった。東京都から21世紀に最も期待される企業といわれた会社の代表で、すみだケーブルテレビの社長でもあった。数々の事業組合の理事長や協会の会長などの名誉職も兼ねていた。その本社社屋内にホールを持ち、サイさんを社員身分にしつつ、歌のレッスンを続けさせた。
 ところがその木村さんの会社が倒産したのだ。クラシック音楽で有力な事務所が数社、彼女にマネジメントを申し入れた。ところがサイさんはそれらの話を全て断り、無一文同然になった木村さんに、「私のマネージャーになってください」と言ったのだ。演歌と民謡しか知らぬ、クラシック音楽には無縁な男にである。まるで演歌、いや浪花節ではないか。…
「波瀾万丈ですね」と言うと、こともなげに「そうでもないよ」と微笑んだ。

光陰、馬のごとし 競馬から見えたこと

2016年04月21日 | 競馬エッセイ

「人間は、もっぱら逃走に参加するその程度に応じて存在しているに過ぎない。ひとりの人間が生きている…そして彼は生きているというそのことによって逃走している。生きるということと逃走しているということが一つになっているのだ」(「神からの逃走」)……マックス・ピカートはドイツの哲学者である。彼はあらゆることに現代の実相を把握し、詩的言語でその思想を語った。

 昨年の十一月、オーストラリアいや南半球最大の競馬「メルボルンカップ」が行われたフレミントン競馬場のファンは、呆然とし、そして騒然とした。一着馬は日本の菊花賞馬のデルタブルース、二着は寂しがり屋のデルタブルースのために同行した同厩舎のポップロックだったからである。彼等の戦前の評価は低かった。彼等の活躍は、日本の競馬の国際化、グローバリズムそして規制緩和の象徴でもあった。
 デルタブルースの鞍上は、その年の春、兵庫の地方競馬から中央競馬に移籍を果たしたばかりの岩田康誠である。公営地方競馬の騎手が中央競馬(JRA)に移籍するということは、古い競馬ファンにとって実に隔世の感がある。それは地方と中央の交流が図られるようになり、さらに規制の緩和が行われ、笠松競馬の一流騎手・安藤勝巳が先鞭をつけたものである。安藤に続き、小牧、赤木が移籍し、そして岩田が続いた。

 地方競馬でどれほど活躍しても、全くと言ってよいほど注目はされない。中央競馬(JRA)の騎手が開催のある土日にのみ騎乗するに対し、地方競馬の騎手はほとんど毎日レースに乗っている。そしてどんなに勝っても、その年収はJRAの中堅騎手にも及ばない。賞金額が全く違うのだ。
 かつて安藤はオグリキャップで勝ちまくったが、中央の馬主が数億円でオグリを買って中央に移籍させた。オグリキャップはたちまち中央のファンの心をつかみスターホースとなったが、安藤は二度とオグリに騎乗できなかったのだ。
 やがて中央地方の交流レースが開催され、さらに規制緩和で騎手の地方から中央への移籍が可能になったのである。良い馬に乗りたい、大きな競馬場で大きなレースに出たい。そして地方競馬に未来はない。安藤も小牧も赤木も岩田も、未来のない地方競馬を捨てたのである。

 こうして岩田は小さな公営兵庫競馬から中央競馬(JRA)のトップジョッキーに躍り出、さらに南半球最大のレースを制したのである。岩田は光である。凱旋門賞3着のディープインパクトも光である。日本でディープインパクトを唯一負かしたハーツクライは、ドバイの大レース、シーマカップを制した。彼も光である。
 三条、岩手、上山、足利、高崎、益田、岩見沢、北見、宇都宮…と公営地方競馬が次々と廃止されている。減り続ける入場者と馬券の売上げ、累積する赤字のためである。地方競馬場の廃止は、そこで生活していた調教師、騎手、厩務員らとその家族五百人から千人のコミュニティの崩壊を意味する。馬一筋の職人たちの転職は容易でなく、再び競馬の生産や調教の仕事に就ける者は数人に過ぎない。これが影である。

 廃止前の宇都宮競馬に見切りをつけた藤本靖という騎手がいた。藤本は目立った活躍をしていたわけではない。彼は騎手を辞め居酒屋で働いた。しかしやっぱり馬に乗りたい、騎手に戻りたい。だが一度騎手を引退した藤本には、すでにJRAに移籍する資格はなかった。彼はオーストラリアに渡った。オーストラリアの騎手養成学校で英語を学びながら再び騎乗の訓練を受けた。晴れて騎手免許を取得し、ニューサウスウェルズ州の地方競馬場でデビューを果たすが、落馬負傷し、未勝利のまま長期の入院生活を送らざるを得なかった。昨年六月、怪我から復帰し初勝利を挙げた。この年4勝を挙げたが、彼の所属は地方の草競馬に近く、その賞金額は微々たるものである。藤本の境遇は厳しい。

 藤本靖は、地方の沈滞、地方都市商店街のシャッター通りの激増、地方財政の破綻、中央と地方格差(都市も競馬も)、勝ち組と負け組、残る不合理な高い規制の壁、グローバリズム等の象徴なのである。地方競馬場の廃止と地方都市の駅前のシャッター通りは重なるのだ。人材と技術流出や果てしない価格競争に苦慮する地方企業と、地方財政の破綻と重なるのだ。地方コミュニティの消滅と重なるのだ。
 未来のない地方競馬から逃走した岩田と、同じく逃走した藤本は象徴に過ぎない。生活上の制約や勇気から、逃走を断念した多くの人たちも、ひとつの象徴に過ぎないのだ。
「人間は、もっぱら逃走に参加するその程度に応じて存在しているに過ぎない」

           (この一文は2007年5月16日に書かれたものです。)