芳野星司 はじめはgoo!

童謡・唱歌や文学・歴史等の知られざる物語や逸話を写真付でエッセイ風に表現。

童謡道~掌説うためいろ余話~

2016年04月20日 | エッセイ

 日本人は何事か一つのことに打ち込み、それを「道」とすることを好むらしい。剣道、居合道、柔道、合気道、相撲道、茶道、華道…。そして斎藤信夫における「童謡道」。
 ほんのはずみであったとはいえ、童謡の世界をのぞいたことは「運命」であった。童謡のための詩を書き、研究することは「道」であった。毎日一篇の詩を書く、これが己に課した「修行」であった。
 斎藤信夫の創作ノートはB5判の大学ノートで65冊を数え、作品には全て通しの作品番号が付けられ、最後の作品は11,127番になるという。さらにその後ろに11,136番まで番号が振られていたらしい。彼は命ある限り、詩を書こうとしていたのだろう。しかし、ついにその番号まで埋められることはなかった。昭和62年9月20日に76歳で亡くなったからである。
 それにしても何という詩の数であろう。

 斎藤信夫は明治44年(1911年)3月3日、千葉県山武郡南郷村(成東町)の農家の長男として生まれた。父・三樹は、信夫に農業を継がせるつもりでいたが、身体があまり丈夫ではなく、会社勤めをしたかったらしい。
 信夫の祖父・茂三郎は教育者で、地元小学校の校長などを歴任したが、いつしかその強い影響を受けて、彼もまた教育の道に進んだ。
 信夫は地元の大総尋常高等小学校で代用教員となった。翌年、休職して千葉師範学校第二部に入学し、昭和6年碧海尋常高等小学校の訓導に戻った。

 昭和7年 (1932年)3月、千葉市内の院内尋常小学校に転勤となり、ここで七歳年上の先輩教師・市原三郎と出会った。運命とは、5月のある日に市原の自宅の酒食に招かれたことである。
 この時初めて、この先輩教師が詩誌の同人として叙事詩や民謡、童謡の詩を書き、その童謡がレコードにもなっていることを知った。彼がかけてくれた童謡のレコードを聴きながら、信夫は「あたかも馬上の将軍の英姿を見つめる子供のように」この先輩を仰ぎ見た。
 市原はにこにこと彼に酒を勧めながら、童謡や詩、その興味深い逸話について語ってくれたのである。信夫はいささか興奮し、市原家で時の経つのも忘れるほどであった。信夫は決意した。「自分もレコードになるような童謡の詩を書こう。」
 その夜から、一日も詩心から離れられなかった。市原先生の家を訪問したことは、運命づけられたものと思われた。
 信夫のその性、よく言えば辛抱強く、語弊のある言い方をすれば執念深かったに違いない。彼は中学一年生になったときから約十年間、一日も欠かさず日記をつけて来たが、この自分の辛抱強さを童謡の修行に替えたいと考えた。彼はピタリと日記を止め、童謡の詩を毎日ひとつ必ず書くことに決心した。
 童謡詩の制作のためになるものなら、絵本、漫画、童話、子ども向けの読み物などなんでも読み漁った。もちろん、先達の詩人や童謡作家の作品にも残らず目を通した。
 中でも特に野口雨情、北原白秋、西条八十らの言葉に憧れ、彼らに私淑した。雨情の土の匂いと叙情、白秋の天凛と華麗な語彙、八十の奔放さと都会的瀟洒…。しかし白秋や八十はどうも真似できない。似た風土に育ったせいもあって、雨情に心惹かれる信夫であった。
そして彼らに対抗意識も抱いた。なにせ武芸のような「童謡道」なのである。
「同業者に対する対抗意識を強めることと、内容形式共に他人の研究を吸収進化させること」


競馬エッセイ ソロナオール

2016年04月19日 | 競馬エッセイ

 むかしソロナオールという馬がいた。父フェリオール、母ソロナコメット、母の父ソロナウェー。北海道門別の法理牧場の生産馬であった。法理牧場は、障害レースの名手として鳴らした法理騎手の実家だったかと思う。ソロナオールは中山の佐藤嘉秋厩舎に入り、高森紀夫騎手が乗っていた。

 ソロナオールという馬は、男馬にしては温和しい女の子みたいに、小柄で細身の馬体であった。可愛いって感じの馬であった。ソロナオールにとって運が悪いことに、タイテエム、ロングエース、ランドプリンス、イシノヒカル、ハクホオショウ、タニノチカラ、ハマノパレード、ストロングエイトたち、つまり最強世代と同世代であったことであろう。
 その脚質はいつも最後方からの追い込み一辺倒である。。そしていつも3着。セントライト記念3着、京都新聞杯3着、菊花賞3着、有馬記念3着という成績である。これはかなり能力が高いと言わざるを得ない。
 彼は、格落ちのメンバーとの条件戦に出れば、当然1番人気に推される。何しろ、セントライト記念3着、京都新聞杯3着、菊花賞3着、有馬記念3着の実力馬なのである。何しろ、後方からの一気の末脚の斬れ味、ゴボウ抜きの凄まじさである。しかし、彼はその条件特別も3着なのであった。
 もっと前で競馬をすればいいのに、ソロナオールはそれができない不器用な馬なのであった。おそらく馬群に包まれるのが恐くて嫌いで、いつも後ろから行ったものであろう。

 むかしカブラヤオーの主戦騎手・菅原泰夫が、馬の引退後に言った。他馬を怖がる気の弱い馬の戦術は、逃げか、最後方からの追い込みしかないと。カブラヤオーもそういう馬だったと言うのである。
 カブラヤオーのデビュー戦は菅野澄男騎乗でダート1200。この時は人気もなかったが、最後方から行って、ゴール直前で猛然と追い込んで頭差の2着だった。勝ったダイヤモンドアイより、カブラヤオーの凄みが注目されたのである。その後は逃げて逃げて逃げまくって勝ち、弥生賞から茂木厩舎の主戦騎手の菅原泰夫が騎乗し、皐月賞もNHK杯も勝ち、8連勝でダービー馬となったのである。しかし、カブラヤオーは気が弱く、追い込むか逃げるかしかなかったのだという。
 おそらくソロナオールも他馬を怖がったのだろう。しかし大外から猛然と追い込んでくる脚は圧巻で、もうスタンド全体が「来た~」という感じで揺れた。しかしやっぱり3着。あ~あ、今日も3着か…。
 そのほとんどのレースで乗っていたのは高森紀夫騎手だった。あまり目立たない騎手だったが、高森と言えばソロナオール、ソロナオールと言えば高森というコンビであった。「この人この一頭」である。勝てなかったがファンが多かった。ソロナオールは胸をキュンとさせるのだ。判官贔屓であろうか、女性ファンも多かったように思う。
 そう言えば、ロイスアンドロイスという馬も3着ばかりだった。オールカマー3着、天皇賞・秋3着、ジャパンカップ3着…。このときは横山典弘騎手が乗っていた。しかしロイスアンドロイスは典型的なジリ脚タイプで、同じいつも3着でも、インパクトではやっぱりソロナオールだったろう。

 ちなみに私は長らく、「優駿達の蹄跡」(個人による日本・海外競馬のデータベース)というウェブサイトを、こよなく愛読している。漫然と眺めるだけでも楽しく、過去の馬のことや、海外の名馬たちを調べるのにも大変重宝している。引退した重賞勝ち馬全ての、全成績のデータ(血統、生産牧場、馬主、服色、厩舎、戦績、収得賞金、出走年月日、競馬場、馬場状態、距離、コース、騎乗騎手、相手、タイム、兄弟姉妹馬、産駒…)個人の競馬データベースとしては最高峰であろう。その管理人の名が「アホヌラ(ahonoora)」というのも良い。アホヌラとはイギリスの競走馬で、種牡馬の名前である。典型的なスプリンターで、決して超一流馬・一流種牡馬ではなく、知る人ぞ知る馬であろう。この管理人は相当マニアックな方であろうと思われる。ちなみに種牡馬アホヌラは、後継種牡馬にインディアンリッジやドクターデヴィアスを出した。
「優駿達の蹄跡」は、これまでの日本の重賞優勝馬の全データを記載しているが、この中で重賞勝ちのない馬が、二頭ほど掲載されている。その中の一頭は誰あろう、ソロナオールなのである。そしてもう一頭はロイスアンドロイスなのである。彼らの複数回の重賞3着とその印象度は重賞優勝と同じほどの価値があったということだろう。
 二頭のレースぶりは全く異なる。やはり競馬ファンとしては、「来た~」とスタンドを熱狂させた追い込むだけのソロナオールが忘れがたく、また良い。

光陰、馬のごとし たまに競馬の話

2016年04月18日 | 競馬エッセイ

 私の一連のメールエッセイで、政治や経済、環境問題の話は、読み手にそれぞれの主義主張があるから、当然あまり評判がよろしくない。「談合の何が悪い」や船場吉兆事件に際して書いた「残すな」、伊勢の赤福事件の際の「もったいない」「食育」等のエッセイや、某週刊誌の中吊りコピーを模した「週刊辛潮」等である。
 また自由民権運動や私擬憲法に取り組んだ千葉卓三郎や演歌師の添田唖蝉坊、アナキスト作家の大泉黒石などの人物伝や近代史の話は甚だ評判が悪い。先に「そのメール、不評につき」に書いたとおり、漢字が多く、近代史そのものも何故今さらと、よく理解しがたいらしい。
 最も評判が良いのは競馬の話である。しかもその支持者のほとんどは、競馬をよく知らない方ばかりなのだ。おそらく、馬券をよく買われるような日本の競馬ファンは、私の書くような競馬エッセイにはあまり興味を示すことはないだろう。彼等には過去の馬の話や雑学など、何の役にも立たないからである。彼等が知りたいのは、次の週のレース予想であり、必勝馬券術なのだ。それが日本人の競馬観の特質を示している。
 この半年ばかりの間に、何本かの競馬エッセイを書いた。みな昔の馬の話である。「怒濤の伝説」のヒカルイマイ、「キーストン」「カツラノハイセイコ」「テスコガビー」「横山典弘」「歌枕『まちかね山』」などである。再び、これらの馬の話を重複させて競馬の話をしたい。

 ひところ日本のサラブレッドは、年間一万二、三千頭も生産されていた。現在は八千頭余りである。その八千頭のうち三千数百頭がJRA中央競馬に登録され、残りが地方競馬に行く。売れ残っても血統が良いとかの幸運で繁殖馬として牧場に残る馬たちはごく少数である。売れ残った二流三流血統の馬たちは食肉業者に売られていく。ハルウララのように格安で高知競馬場あたりの馬主に買われた馬は、実に幸運と言わねばならない。彼等は連戦連敗を続け、生涯百戦前後も走らされるのである。スピード不足の分、故障することも少ない。連敗記録で有名になり、引退して老後を送ることになったハルウララは、実に希有な幸運の馬なのである。
 生産調整が進む一方、良血種牡馬の種付け料は上がり、受胎率50、60%のサラブレッド生産は危険すぎて、家族経営の零細兼業牧場、三ちゃん牧場は成り立たなくなった。彼等が種付け料の安い種牡馬の産駒を生産しても、ほとんど市場で売れ残るからである。種付け料が一千万円、二千万円でも、高額の種牡馬ほど人気が集まり、その仔らは良血馬として数千万円で取引される。年に数頭は億の値がつく。
 かつてハイセイコーの父チャイナロックは性豪と呼ばれたが、産駒に屑馬が少ない彼は、年間九十頭もの繁殖牝馬を集めたからである。彼の種付け料は百万円くらいだったと記憶する。並の種牡馬で、平均四十、五十頭の繁殖牝馬を集める時代だった。
 しかしサンデーサイレンスの登場以降、人気種牡馬は年間二百頭もの繁殖牝馬を集めるまでになった。一極集中現象である。サンデーサイレンスは既に亡いが、ひところ、出馬表を眺めると、例えば出走馬十六頭のうち八頭がサンデーの仔で、四頭が種牡馬となったサンデー産駒の仔なのである。残りの四頭のうち三頭は母の父がサンデーサイレンスだったりした。今年の日本ダービーもサンデーサイレンス系だらけで、優勝馬は横山典弘騎乗のサンデー系のロジユニヴァースだった。
 そこに現代日本人の特質を見ることができる。TV芸能界をジャニーズ事務所と吉本興業のタレントが席巻するに似て、一極に集中し、すでに多様性を失ったかのようである。
 しかし、このような血の一極集中はイギリスにもあった。「セントサイモンの悲劇」という歴史的事象である。名馬・名種牡馬セントサイモンの血が、大繁栄の果てにある臨界点を迎え、突然競馬の世界から消え去ったという歴史を…。

 もはやサラ系の三流血統で、雑草、風雲児と呼ばれたヒカルイマイの様な二冠馬が、日本の競馬界に誕生することはもうあるまい。またカツラノハイセイコのような馬がダービーを勝つことも、もうあるまい。このような大レースを勝つ馬は、父母ともに超一流血統で、高額の馬ばかりの時代になったのである。
 生まれた時から、スタート時から格差のついた社会の固定化は、今日の日本の、人間の世界ばかりではなく、馬の世界にも見られる現象というわけである。
 さて、馬の才能のことである。カツラノハイセイコを例にする。彼は当時内国産種馬はとしては種付け料が八十万円の、ハイセイコーの仔として生まれた。この種付け料は内国産としては高く、平均よりは下の値段である。母は不受胎続きの、二流半か三流の馬である。しかもカツラノハイセイコは父に似ず、期待を裏切る貧弱な馬体の馬であった。
 おそらく、彼にあの激しい狂気がなければ、ダービーも天皇賞も勝つことはなかったであろう。あるいは彼にあの激しい狂気がなければ、皐月賞、有馬記念、宝塚記念も勝っていたかも知れない。
 名手・河内洋騎手に「恐ろしい馬」と言わせたカツラノハイセイコの狂気こそが彼の潜在能力を爆発させたのだ。また下手をすれば彼の狂気は、そのエネルギーを費消し尽くし、その潜在能力が全く減殺され、未勝利馬で終わったかも知れないのだ。優れた才能が、その狂気ゆえに発揮されることなく、未勝利のまま消えた馬たちは、実に夥しい数にのぼることだろう。
 サクラショウリというダービー馬も狂気の名馬であった。彼がカツラノハイセイコと違っていた点は、良血馬で、見るからに均整の取れた俊敏で柔軟な馬体と、才気走っていたことであろう。
 概してパーソロン産駒は大人しく、素直な馬が多いと言われていたが、サクラショウリほど激しい気性の馬は珍しく、鞍上の小島太騎手が取る手綱は、いつもその狂気に翻弄されていた。しかしそのサクラショウリの溢れるような素質から、彼が未勝利で終わることは考えられなかった。誰もが早い時点で、必ず大きなところを勝てる馬だと期待していたのだ。
 狂気と言えば何かおどろおどろしく恐ろしいが、競馬界の人々はその狂気を、優しく微笑みながら「おテンテン」と語るのだ。「あの馬は、おテンテンだから…」。
 イシノヒカルという馬も典型的な「おテンテン」だった。彼は本馬場に入場するや、スタンドの大観衆とその大歓声に機嫌を損ね、目を血走らせターフに意固地に四本脚を突っ張って全く動かなくなった。こうなったら厩務員が曳き綱を引っ張ろうがテコでも動かず、人間の命令など全く無視するのである。
 そんなイシノヒカルの意固地で「おテンテン」なヤンチャぶりを、騎手の増沢末夫は叱ったり無理に促そうとはせず、馬上でニコニコしながら気のすむままにさせた。こうして機嫌を直したイシノヒカルは、後方から一気の追い込みを決めて、菊花賞と有馬記念を連覇した。「おテンテン」には付き合い方があるのである。イシノヒカルと騎手や厩務員が喧嘩ばかりしていたら、おそらく彼は未勝利馬で終わっていたであろう。

 キーストンやテスコガビーはゲートが開いた直後から先頭を走っていた。逃げ馬である。しかし彼等は逃げようとして先頭に立ったのではない。他とは比較にならぬ絶対スピードが、自然に先頭に立たせたのである。
 そしてキーストンもテスコガビーも競馬を理解し、人間の指示を素直に聞く実に賢い馬たちであった。しかも彼等は我慢強さも持っていた。彼等は「おテンテン」なところは微塵もなく、その才能を減殺するこれといった負の要素もなく、その絶対スピードで勝ちまくったのである。しかもキーストンは美しく柔らかく飛ぶように素軽く、テスコガビーは漆黒で、牝馬ながら牡馬と見まがうほど逞しく柔らかく、均整の取れた馬であった。
 ところがテスコガビーとの世紀の対決を制したカブラヤオーは違っていた。彼はフランスの至宝シカンブルの仔で種牡馬実績のない父ファラモンドと、二流血統の母カブラヤの間に生まれた。その馬体は不格好な「背垂る」のうえ、荷役馬のように太い首差しで、市場で売れ残り、母馬の馬主が仕方なく「主取り」で引き取ったような馬であった。
 デビュー戦はダートの短距離レースで、茂木厩舎の若い菅野澄男騎手と臨んだが全くの人気薄だった。彼等は馬群から離れた最後方を走っていた。しかし直線だけで一気に追い込み、良血で評判の高かった1番人気のダイヤモンドアイの鼻差の2着になった。
 このヒカルイマイのような「後方一気」のレースぶりは強烈な印象を残したものの、2戦目も5番人気でしかなかった。鞍上の菅野とカブラヤオーは、ゲートが開くやいなや先頭に立ち、そのまま後続馬に並ばれることなく圧勝した。それにもかかわらず、3戦目も8番人気に過ぎなかった。相手が強くなったことと、やはり不格好な馬体だったからである。しかし彼等はスタートから先頭に立ち、そのまま6馬身差で逃げ切った。
 年が明けたジュニアCから、茂木厩舎の主戦騎手・菅原泰夫が手綱を取った。菅原は出鞭をくれて先頭に立つと、10馬身差の圧勝劇を演じてクラシック候補の一番手に踊り出た。その後もテスコガビーに一度だけ並ばれた以外は、全てのレースで後続馬を寄せつけずに先頭を走り続け、皐月賞を完勝、NHK杯を圧勝、ダービーを8連勝で制覇した。
 カブラヤオー引退後に菅原が告白した。「カブラヤオーはとても臆病な馬で、他馬に横に並ばれただけで、体を固くして怯えるんだ。馬群に囲まれたらお終いというような馬だったんだ。だから馬群から離れた最後方から行くか、横にも前にも馬がいない先頭を走るしかなかったんだよ」…
 出鞭を喰らって飛ばしに飛ばしても、カブラヤオーには、父から受けた長距離馬としてのバテないスタミナと、肉体の限界を超えても我慢できる「底力」と、母カブラヤの父ダラノーアの類い希な中距離馬のスピードを受け継いでいたのである。
 カブラヤオーはその絶対スピードで先頭に立って逃げた馬ではなく、騎手の作戦で先頭に立つよう逃げさせられた馬だったのだ。彼の潜在的な才能は、菅原や菅野の博打的な作戦が引き出したものであって、もしかするとその臆病さ故に馬群にもまれてズルズルと後退し、未勝利馬で終わったかも知れない馬なのである。あるいは「主取り」もされなければ、その不格好な馬体故に、食肉用に売られていたかも知れなかったのである。


           (この一文は2009年8月3日に書かれたものです。)

鎮まれ山風

2016年04月16日 | コラム
                                               


「益城(ましき)」の地名が飛び込んできた。熊本大地震の最初の震源地である。

 以前「掌説うためいろ」の一編として「望郷子守歌」書いた。その中で高倉健主演の東映任侠映画の主題歌「望郷子守歌」と、高群逸枝(たかむれ いつえ)の「望郷子守歌」を紹介した。

      オロロンオロロン オロロンバイ 
      ねんねんねんねん ねんねんばい 
      おどまおっ母さんが あの山おらす
      おらすと思えば行こごたる

 高倉健の「望郷子守歌」は宮崎耿平(こうへい)の「島原の子守唄」と「五木の子守唄」の本歌取りであろう。その宮崎耿平の「島原の子守唄」は、「五木の子守唄」と山梨の「縁故節」の本歌取りであろう。

 高群逸枝(たかむれ いつえ)の「望郷子守歌」の詩はこうであった。

      おどま帰ろ帰ろ 熊本に帰ろ
      恥も外聞もち忘れて

      おどんが帰ったちゅて誰がきてくりゅか
      益城木原山風ばかり

      風でござらぬ汽車でござる
      汽車なるなよ思い出す 

      おどま汽車よか山みてくらそ
      山にゃ木もある花もある

 高群逸枝の「望郷子守歌」は、東京暮らしで遠くなった故郷を想い、胸が張り裂けるような恋しさと切なさを詩った。逸枝の「望郷子守歌」は、幼い頃から耳に馴染んだ「五木の子守唄」の本歌取りであろう。
 高群逸枝は1894年(明治27年)に熊本県の下益城郡豊川村(現宇城市)に、教育者の長女として生まれた。若き天才は詩や短歌でその名を知られ、上京し平塚らいてう等と無産婦人芸術連盟をつくり婦人運動の魁となった。婦人誌に執筆し活躍した。婦人運動から女性史の研究に入り、やがて民俗学と女性史の巨人となった。

 その「益城」の大地が激しく揺れ、最初の震源地となった。布田川・日奈久断層帯がずれ動いたためという。それらの活断層帯に沿って震源域は広がり、大分の活断層も動いた。それらはさらに広がりつつある。阿蘇山も小噴火を起こした。
 大地がかなりの頻度で大きく揺れ続ける。それは不安であろう。被災者には手厚い対策を施し助けてやってほしい。そして一日も早く鎮まってほしい。

アナーキーな神

2016年04月14日 | エッセイ

 アントナン・アルトーに「ヘリオガバルス または戴冠せるアナーキスト」という作品がある。非常に面白く、私が最も愛する小説のひとつである。アルトーはこれらの作品書きながら数少ない友人のひとり「NRF誌」のジャック・リビエールと書簡のやりとりを続けていた。その書簡の中で、徐々にアルトーの狂気が進行していくのがわかる。彼は幼少期の病弊の鎮痛用に阿片を常用していた。そのせいであったろうか。
 ヘリオガバルスのアナーキストぶりは何とも凄まじいが、陽性さに欠ける。アルトーも陽性さに欠ける。どちらも鬼気迫るものがある。
 梅原貞康は、ロシア革命にちなんで自らを「北明」と名付けた。アナーキスト梅原北明はどこまでも陽性で、大胆であった。

 私が梅原北明の名を初めて知ったのは、昭和四十二年(1967年)のことである。確か、「現代の逆臣」と題された安手の新書版の本の中に、その名を見出したのであった。著者は森秀人という物書きである。彼は高校生のおり日本版紅衛兵を志し、早大仏文科を退学後、工員、業界紙記者をはじめ、何十という職業を遍歴した自称反逆児であった。このユーモアにあふれた安手の読み物新書(たしかダイヤモンド社だったと記憶する)には、寺山修司が著者の森秀人を紹介する形で跋文を寄せていた。森秀人は彼の「ボクシング仲間」であり、「思想のゲリラ」であるというものであった。

 この「現代の逆臣」は、五十人を超す反逆児たちを紹介したものである。「大番」のモデルとなった株屋で相場師の佐藤和三郎、呼び屋の神彰、作家の深沢七郎、柔道の嘉納治五郎、健康産業の創始者・西勝造、女子バレーのニチボー貝塚監督・大松博文、山岸会の山岸巳代蔵、高利貸しの森脇将光、光クラブの山崎晃嗣、伊藤斗福(ますとみ)、教師・教育評論家の阿部進、暮らしの手帖の花森安治、ジャーナリストの大宅壮一、むのたけじ、作家の永井荷風、太宰治、佐藤春夫、思想家でジャーナリストの幸徳秋水、細菌学者の野口英世、北里柴三郎、他に堀江謙一、小田実、花田清輝、福田恒存、埴谷雄高、小林秀雄、出光佐三、きだみのる、坂口安吾、正木ひろし等の奇人ぶりが描かれていた。一人につき約3、4頁である。
 これらの中で面白く強烈だったのは山崎晃嗣、伊藤斗福と弁護士の正木ひろし等で、他は名ばかり高名でも大して面白い人物とは思えなかった。この人物伝の中の出色中の出色は梅原北明であった。
 私はたちまちこの男に魅了された。あるとき、古書店で雑誌「エロチカ」に彼の名を見出した。聖職者ならぬ「性職者」梅原北明の「公開性交勝負」の、抱腹絶倒の逸話である。
 北明の「正気の狂人」ぶりに比するなら、「現代の逆臣」の他の登場人物は皆、凡庸な常識人に思えるほどである。私は北明を調べ始めた。

 北明はその性、落ち着きがなく、明るい反逆児であったらしい。それがもとで二度退学になっている。彼の職歴を見ると思わず微笑んでしまう。やはり落ち着きがない。
 郵便局員として働いたが、すぐに現金書留の中味を抜き盗ったことがバレて首になっている。次に医院の薬局でアルバイトをはじめたが、そこから薬を持ち出して横流ししたのがバレ、首になっている。解放セツルメントのボランティア活動に入った。彼はこの時に日本で最初の「全国大会」を企画している。
 雑文書きをし、新聞社に記者としてもぐり込み、得意の語学を活かして翻訳のアルバイトをした。その後は出版者、編集者として勇名を馳せ、度重なる発禁で書き手がいなくなると自ら作家として書き、逃亡中はゴーストライターで糊口をしのいだ。またイベント企画者・プロデューサー・演出家、女学校英語教師、鍼灸師(おそらくいい加減な偽鍼灸師であったろう)、靖国神社臨時職員として神社史編纂に携わった。
 その後はチャップリン映画等の輸入業者となり、劇場支配人となり、海外からレビューショーやサーカスを招聘した日本の呼び屋第一号となった。大金を得ながら、ドキュメンタリー映画製作者兼監督として「本邦初オール海外ロケ敢行!高砂族の驚異と衝撃の生態!」に出かけ、一文無しになった。
 山本五十六のコネもあって海外工業技術所主宰者・海賊版制作者として戦中を過ごし、また機械輸入業者・コンサルタントとして大陸を行き来した。終戦が近づいた頃から戦後にかけて密造酒製造し、自分で浴びるように飲んでいた…。

 北明には何度かの絶頂期があった。それは官権を相手に闘う出版者として勇名を馳せ、発禁・逮捕投獄回数の日本レコードを樹立した時であり、映画の輸入と呼び屋、劇場支配人として日劇を再建した時である。帝国ホテルをワンフロア借り切って暮らしていたかと思えば、浅草の裏長屋で食うや食わずの暮らしぶりもした。逃亡・潜伏生活を繰り返し、その貧富のサイクルも目まぐるしく、昇降を繰り返す壊れた高速エレベーターか、ジェットコースターか絶叫マシーンに乗っているかのような人生であった。

 あの稚気、遊び心、あのユーモア、あの反骨の魂、不屈の闘志、あのアイデア、柔軟な思考…。私にとって北明は、企画者の鑑(かがみ)であった。イベント屋の鑑であった。呼び屋の鑑であり、絵でも文学でも映画でも興行でもイベントでも、本物を見抜く鑑識眼と先見に長けた、神のような人なのであった。
 時代の先の先まで見えていたにもかかわらず、その時代の権力と圧力に全力で逆らい、抗った人でもあった。自由を希求し、柔らかな武器で、たった一人になっても官権と闘いながら、最後は時代の圧倒的な風潮となった「自由」に、プイと背を向けた、反逆児の中の反逆児なのであった。

 ほどなく、梅原北明は安藤昌益とともに、私の裡で神となった。私の裡には「北明神社」と「昌益神社」が祀られているのである。神も仏も聖人も完全否定した昌益を神として祀るとは、確かに大いなる矛盾であるが、昌益は私の裡なる神なのである。彼の故郷の弟子たちが「守農太神」と讃えたのは当然なのである。無論、昌益はニーチェの「ツァラトゥストラ」の如く、その信奉者たちを冷たく拒絶するに違いない。
 あらゆる権威を嘲笑った少年にも似た稚気の人、「性職者」「エロ・グロ・ナンセンスの帝王」「地下出版の帝王」で、トリックスターの北明も、自分が神として祀られたと知ったなら、おそらく大いに照れながら鼻先でせせら笑うに違いない。「てやんでえ」と吐き捨てるように言うに違いない。

 作家・埴谷雄高は、梅原北明に心酔していた。最後にドストエフスキーに行き着いた埴谷雄高は、北明の何に惹かれていたのであろうか。おそらく、あらゆる権威の否定と真の自由を追求した不屈の反骨心と、そのデタラメさと行き当たりばったりの柔軟さと、その狂気にも似た無類のアナーキストぶりであったに違いない。
 ちなみに作家の島尾敏雄は、その少年時代に大泉黒石の「俺の自叙伝」等を読み、大いに感化されたという。島尾は黒石を通じてロシア文学に惹かれ、読み漁ったらしい。やがて島尾はドストエフスキーに行き着いた。そして戦争を迎えた。その戦争体験と戦後の結婚生活が、あの島尾文学を生み出したのである。
 島尾敏雄は大泉黒石の何に惹かれたのであろうか。おそらく、そのデタラメさと行き当たりばったりと、広大なロシア的虚無と、その無類のアナーキストぶりであったに違いない。しかし島尾は大泉黒石的な破滅ぶりから離れて行き、決して終わることのないドストエフスキー的な自問、反問の文学に行き着いたのに違いない。

 梅原貞康は、ロシア革命にちなんで自らを「北明」と名付けた。そして「北明」とは、私にとってアナーキーな神のことなのである。