ゆうさんの自転車/オカリナ・ブログ

飛田雄一の個人的なブログ、オカリナ、登山、自転車のことなどを書こうかな・・・

ツアコン生活<7>連載6/終わり

2007-05-11 03:14:39 | ツアコン生活
<リード>これは2005年10月、京都の北白川教会で開かれた基督(キリストと読む)共助会主催の講演会で私がお話したもの。『共助』599号(2006年3月)に掲載された。<リード終わり>

「アジアの中の日本―韓国・北朝鮮・中国への旅から-」(6)飛田雄一

●北朝鮮への旅
 一度だけ朝鮮民主主義人民共和国にも行きました。これは「民草ツアー」とは命名しませんでしたが、翌2001年にいきました。小泉首相が行く前の時期だったので時期的にはよかったと思います。私は北朝鮮の体制そのものには批判的ですが、はやり現地を訪問したいと思っていました。募集したら10人集まりましたので実現しました。中国瀋陽経由でピョンヤンに行きました。
 中国のときもおなじようなことが言えますが、事前にどういう交通機関でどこに行くかということをつめることになります。最初我々は瀋陽から北朝鮮に列車で入りたいと希望しました。しかし北朝鮮側は飛行機を勧めるのです。列車はもしトラブルがあったらその後のスケジュールが全部おかしくなったりするから,飛行機で入ってくださいということでした。でもこの要望がよくて、帰りは列車がOKとなりました。結局、関空から中国瀋陽に行き、そこで一泊してから翌日飛行機でピョンヤンに行きました。
 北朝鮮では我々もわりと行きたい所に行きました。まあ旅行者としては見たほうでしょうね。あともう一つの感想は、在日朝鮮人が北朝鮮に行く時は監視が我々よりももっときついということがあるようなことも分りました。またこれも予想どおりでしたが、パスポート入国後に回収されました。北朝鮮と日本は国交がないのでピョンヤンに日本大使館もありません。だから逃げ込むところもないからいいか、という冗談を言ったりしていました。
●38度線の「板門店」
 38度線の板門店に私は韓国側から2度行ったことがありますが、北側からも行きたいと思っていました。その板門店の行き方は韓国側から板門店に行くよりもよほど簡単でした。韓国の時は教育もありますけどMPが出てきて、いかにここは危険かという講演を聴いたのち、ジーパンはいている人ははきかえさせられて戦々恐々という感じでした。僕はそれを知っていましたから、北側からの時はどんな様子なのかなと思っていましたら、拍子抜けするぐらい簡単でした。私たち10人の団体に二人の通訳がつくのですが、一人は監視するようなちょっとえらい方で、もう1人が若い人です。板門店ではまず将校が板門店の説明し、その通訳が通訳してくれます。簡単なオリエンテーションでした。そのあと通訳の二人がどっか消えてしまうのですね。残されたのはその将校と私たちだけです。
 実は事前に私たちは、北朝鮮では朝鮮語ができると言わん方がいいですよ、と言われていました。うちのメンバー10人のうち3,4名は朝鮮語できるのですが、言わんほうがええということでした。板門店で将校が説明した後私たちだけになったときにその将校は、「どうぞ何でも聞いてください」と言ったのです。将校は僕らが考えているよりもフランクで説明の仕方も紋切り型ではなくて自分の言葉で説明するんです。さすがに突っ込んだ質問はしませんでしたが、いろいろ話を朝鮮語でしたのちに、では行きましょうということで外へ出たらすぐに見慣れた38度線でした。韓国側からのときは説明を聞いたまたバスに乗ってからいくのですが、この時はこの建物の向うが例の会議場のある38度線かなと思っていたらすぐに38度線がありました。そんな意外なところもありました。

 もう私たちは旅行中に要求をそれなりにして良かったと思いますが、時々ガイドが「どこそこに行きましょうか」と言うのですね。そのとき、地図などを見てその場所が田舎やはずれた所の場合は必ず行くようにしました。板門店の時も帰りに「南の見える監視台がありますが特別ですけど行きますか」と聞いてきました。もちろんイエスです。そこに行く道は本当に田舎道でした。我々10人ですけど大型バスに乗っていましたが、そのようなバスが通ったことのないような道を行くわけです。またその時に、バスがエンコしたりしたので、人海戦術的な農作業の様子もすぐ近くでみることができました。年を取った女性のように見えましたが、結構若い人だったような気もします。
●「皿回し」交流
 また有名な滝がありましたが、「行きますか」「ハイ」といくことで行きました。そこは水不足でほとんど水が流れてなくて観光地としてはもうひとつでしたが、民家すれすれの山間の道を通りながら、庭という庭にトウモロコシを植えたりしているのを見ました。その他にも工場の敷地、斜面などでも斜面という斜面にはトウモロコシを植えていたのが印象的で、これでは水害が起こりやすいと思ったりしました。朝鮮戦争時の米軍の虐殺事件の記念館とかに行った時も、田舎の風景に接することができました。高速道路は面白くないですからね。なるべく普通の道を通った方は人々の暮らしをみることができると思います。余談ですが、皿回し道具を持っていった人がいるんです。その人は旅行なれしている人で、旅先で言葉が通じないときは一芸ということで、北朝鮮でも皿回しをしました。そしたらウエイトレスなどが寄って来ます。それを機会に彼女らと話をしたりすることもできました。
 帰路は我々の要望どおりに列車で平壌から瀋陽まで戻りました。国境まで監視のガイドがつくのかと思っていましたが、ピョンヤン駅まででした。意外でしたね。それも昼間の列車です。農作物がたわわに実っているところもありましたし、そうでないところもありました。農村風景を見ながらの旅でした。
 北朝鮮の最後は新義州です。そこで1時間ほど出国税関手続で待たされますが、その時別の列車から降りてくる集団を見ました。わたしは戦後の買出しのことはしりませんが、多分そのような雰囲気でしょう。我々が乗っているのは立派な国際列車ですけれど、そうでない列車をみたんです。メンバーの1人がその写真を写したのです。そしたら女性の税関職員にすごい剣幕で怒られましてね。「何でこんな汚いとこを写すのか」、と言うことです。フィルムの没収という雰囲気だったのですが、すでに我々と仲よくなっていた男性の税関職員が仲裁に入ってくれておさまりました。その男性職員は検査のときに皿回し道具をみつけて、これは何だということになったのですが、メンバーが実演をして見せたらとても喜んでくれて仲良しになったのです。
●パスポートと皿回し
 北朝鮮センター旅行の話が長くなっていますが、最後に私たちの北朝鮮ツアーでも二大ジョークをご紹介しましょう。ブラックジョークですね。ピョンヤンに着いた日のことですけれど、我々のメンバーのひとりに、年配の方のガイドが日本語で、「こんな怖い国にようきましたね」、といたのです。私たちは最初で非常に緊張している時ですが、そういうふうに言うのです。まあそれでちょっと緊張が取れましたけど。
 もうひとつは開城でのことです。開城は板門店に近いところです。開城というのは、それこそ諸説あるらしいけど、京都が空爆されなかったように朝鮮戦争のときに米軍は会場を空爆してないのです。昔の家並みが揃っているからという説と、そこで秘密の休戦会談が開かれていたからという説です。昔の家並みを残した有名な旅館があるんですが、我々はそこに泊まったのです。設備はそれほどじゃないですけどいい雰囲気でした。北朝鮮の旅行会社は、そこは泊まってほしくないみたいで、ピョンヤンからの日帰りを主張したのですけど我々はそこに泊まったのです。夕食のとき通訳もウエイトレスも例の皿回しをしたりしました。皿回しといっても本格的ものではなくて東急ハンズで売っているものですが、早い人は大体30分か1時間くらい練習したらできるようになるのです。
 メンバーの中でいくら練習してもできない人が二人いるのです。皆ができるようになって、通訳も二人ともできるようになりました。そしたらその通訳が、やはり年寄りの方ですが、「明日の朝までに皿回しできない人はパスポートを返しません」とい言ったのです。彼は日本のことよく知っていて余裕があるんでしょうけどね、完全に1本取られましたね。結局その二人は最後まで皿回しはできませんでしたが、パンフレットを返してもらって帰ってきました。実際に北朝鮮を訪問し、この目でその社会の一端をみることができていい体験だったと思っています。
●アジアと日本
 何回も申し上げていますように、現地を見て現地に学ぶということは大切なことだと思います。今回の2回のお話のテーマは、「アジアの中の日本」「日本の中のアジア」という事でしたけども、それは完全に繋がっていると思います。ですから日本の靖国参拝を巡るような変な動きも、隣国との関係に反映しますし、それは当たり前のことです。
 つい最近のことですが、ドイツで目抜きとおりにアウシェビッツ記念碑ができたという報道がありました。私はドイツに行ってないから知りませんけども、巨大なモニュメントで亡くなった方の名前が刻まれているそうです。私のイメージでは、沖縄の「平和の礎(いしじ)」のようなものをイメージしていますが、そのようなものだと思います。日本で言ったら国会議事堂と皇居の間にすごい敷地をとって、侵略戦争史跡を造るようなものだと思います。戦後60年ですけれどドイツはそのようなものを造りました。日本との落差を感じないわけにはいきません。モニュメントどころかA級戦犯の合祀されている靖国神社に現役の総理大臣が参拝するのですから。
 日本はまた最近「慰安婦」という言葉が攻撃されていますし、強制連行という言葉も攻撃され始めています。大学共通入試の問題で強制連行をテーマにしたら、それが適当でないとかいう攻撃があったりしています。私が関係するローカルな神戸の話でも、神戸港強制連行の調査が進んで、文案なども一部妥協しながら強制連行碑を作ろうとして神戸市と交渉しているのですが、神戸市は右翼が怖いから(?)OKと言わないのですね。
 私たちはアジアの中で暮らしているわけですから、過去の歴史を真摯に総括することが必要なことですが、まだまだ日本国内の側の努力が不足しているのではないかな、とそういうゆうに今も思っています。
 ちょっと午前中の話はツアコンの回想のように話になりましたですけども、時間もオーバーしてしまいました。どうも有難うございました。

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