まだ、大学生の highdy です。
遺品の整理中に
親父の遺品を整理していたら、昔の懐かしい写真が出て来ました。
highdy が中学1年生の時のもので、残念なことに、この時代はカラーフィルムもカメラも高い時代で、モノクロ写真しか残っていませんでした。AIアプリでカラー化を試みましたが、あまりに濃淡に特徴がなくうまく再現できませんでした。
highdy が中学1年生の時のもので、残念なことに、この時代はカラーフィルムもカメラも高い時代で、モノクロ写真しか残っていませんでした。AIアプリでカラー化を試みましたが、あまりに濃淡に特徴がなくうまく再現できませんでした。
人物は highdy の両親(故人)です。
昭和22年から愛知機械工業㈱は小型三輪トラックの「ヂャイアント号」を造っていました。(現在も自動車部品を製造しているようです。)同社の前身は、日本の5大航空機メーカーの一つに数えられたともいう、戦前海軍向けの飛行機を製作していた愛知航空機㈱で、羽根を付けたら飛びそうなユニークな形の軽三輪車(コニー AA27)です。(参考資料:日本航空機の一覧)
カタログ資料から Word でざっと背景を消してみました。
highdy にとっては、懐かしい色です。
highdy にとっては、懐かしい色です。
軽三輪車ブームに乗って1959年に発売された、空冷水平対向2気筒’(359cc)の三輪軽自動車です。
極めて個性的な単灯のヘッドランプから「一つ目小僧」とあだ名され、後に画期的なデザインのダイハツ「ミゼット」が登場、完全に姿を消しました。総生産台数は僅か7035台で、親父の車はそのうちの1台です。
ネット上には同型車のコニーは殆どありません。
カラーはウグイス色を薄くした感じでした。
その後、同社の「コニー360 なんとか」(空冷水平対向2気筒 354cc)という、四輪軽自動車に乗り換えました。当時の車は力がなく親子3人で乗ると、国道2号線で山口県の富海(とのみ)の旧坂を登るには四苦八苦で後続車に迷惑をかけていました。
いまの highdy の Suzuki スペーシア・カスタムとは大変違いです。ターボ付きエンジンのため、運転手+大人3人分位の重い荷物をぎっしり積んで、第二東名高速をラクに120km/毎時で走ります。スポーツ車には負けますが、一般普通車に負けない加速力があります。箱根の七曲りなどでもオートマ車なのにギヤをN・L切替えて運転、ボタンを押すとスポーツモード(ターボが効く)になりブレーキは殆ど使わず走るテクニックで、その道のライセンス所有者でないと普通車はついて来れません。
(紫陽花には冬の軽い沢の凍った坂道で特訓してありますので、highdyほどではありませんが、屈折の多い山道も安心して添乗できます。)
紫陽花の新車(ホンダ製)は常時フルターボで、加速性は一般普通車並みですがエンジンブレーキの効きが悪く、highdy のような走り方はできません。
整理が進まない !
話が脱線しました。脱輪はしませんが話の脱線は特技?です。
でも、教師の脱線は生徒が喜んで授業が楽しく、highdy の高校にもおられました。
先生もさらに面白くしようと心得ていて、チャイムのなる1分くらい前に、「さて、はじめるか~」と始めた途端、キーンコーンカーンコーン・・・「はい、きょうはこれまでっ ! 」どっと大笑い !
こんな調子で授業・サポートやPC改造やブログ投稿を併行してやっているので、整理がサッパリ進みません。
紫陽花からすれば、何年もかかって何しているの? てな感じですが、残り日数も少なくなって来て少し焦っています。
なかなか物が捨てられなくって・・・。
たまには復習しましょうね。
本日もご来訪いただきありがとうございました。
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私はミゼットしかしりません。コニーも走っていたんでしょうが、この手の車に一度も乘ったことがなかったので、全部、ミゼットでした。
丸ハンドルはモダンで高嶺の花、その前のオートバイのようなハンドルでもいいから、一度、握ってみたいと、皆思っていました。
私の周りには、highdyさんのように自分ちに車を持っている少年はいませんでした。よほど、いいところの子だったのですね。
沢山読んで下さって恐縮です、ありがとうございました😌
遠い思い出の中、埃っぽい三輪トラックが団地に沿った通りを疾走している風景が浮かびます。
通りは広くトラックは大きく怖かったのですが·····大人になって行ってみたら狭い市道でしたし、写真で見る三輪トラックは可愛いので、子供の目線だとそうなんだ~と感心しました!
「よほど、いいところの・・・」だなんて、とんでもないです。私が社会人になるまでは貧乏家庭でした。
私は鶏を飼って卵を売り、新聞配りで大学に行ったほどで、お金持ちならもっといい大学に行っていたでしょう。
懐かしい思い出で、昔は道も悪く、車も少なかったですね。
私達が子供の頃は、前車が運転席だけの長いトレーラー式のバスが走り、トラックだって発動機(いまの人は知らないだろうな!)式のエンジンで、車の前で弾み車を必死に廻してエンジンをかけるものでした。
私が3歳の頃乗って遊んだ三輪車もすべて鉄製で重く、こけたら起こすのが大変でした。
していましたので、トラックがありましたが
大きなトラックでしたが、事故で・・廃業
その後は小さなマツダの三輪トラックで・・
配送業・・昭和30年ころからは小さな軽トラック
私も結婚するまで、乗用車は買えませんでした
この当時から、乗用車はうらやましい限り
結婚するまでは、ホンダのカブやヤマハの
ベンリイなどの二輪車で日本一周をしたのが
やんちゃな思い出です。
ヤマハのベンリィやホンダのドリームなど懐かしいオートバイです。自動二輪免許を出張中に期限切れにしなかったら、いまでもサーカスが顔負けする曲乗りをしていたかも知れません。
ワタシも整理仕事が不得手で日々難儀をしております(笑)
コメントをありがとうございます。
いつも楽しく拝見させて頂いています。
私もPC内はそれほどでもありませんが、実生活では物の断捨離が苦手で、いつも「紫陽花」に叱られ、捨てられずに整理ができず困っています。