わざわざ苦行をする必要はない。しかし、そうすることで理解できる明かりがある。それを理解することが自分で決めたことならば、苦行が必要であれば断行するだろう。又は、別の方法を取るかもしれない。自由意思だが、必要なら、それは付いて回ってくる。そういう形で教えてくれることもあるのだ。
自分が何を思うか、どう感じるかの他に、何が起きたか、結果かも尊重する。難しいことだが、望んでいないことが結果であっても、出来るだけ糾弾し排除しないことだ。結果への尊重と信頼は、自分自身への尊重と信頼に繋がっていく。それはやがて、希(のぞ)んでいることとの整合性を生んでいくだろう。
「良いこと」「悪いこと」「その境目」も溶け合った調和が、いつの時も、どんな時でも、どんなものでも喜びで、とてつもなく自分自身が幸福。そして、それは同時に、そっくりそのまま他者のため。。正直、現実味はないけれど、現実でもいいんじゃないかと思う。