ユア・ハイハート、自らの神聖さと共に。

心や魂のこと。生きる勇気と希望。
世界はいつも儚く光に溢れてる。誰もが強くて優しい。No worries, 大丈夫。

11月8日(土)のつぶやき

2014-11-09 04:17:17 | twitterまとめ2014年

これからは、キツいだろうが、清しい出来事が起こっていく。


もし、地球がバランスを取ろうとしているのなら、私たちはそれだけ歪めてきたんだ。



敗者でもいい。

2014-11-09 01:20:07 | 癒し
今までも、何度か書いてきた「~でもいい」「~していい」ですが、

このタイトルについては、「勝ち負け」のジャッジメントが外れたからなのか・・「敗者でもいい」と、ふと思えたので、それに関連することを書いておこうと思いました。

一時、この言葉は、本当によく使われました。
「勝ち組」「負け組」。

そう言えば、いつのまにか、殆ど見かけなくなりましたね。
私の解釈では、「殆ど見かけなくなった」というのは偶然でも何でもなく、もはや誰も、今までの概念や価値観に於ける「勝ち組」ではない、という意味が暗に含まれている結果だと思います。現実問題として、そうだと思います。

今、何を以て「勝ち組」と言えるのでしょうか(もう、この言葉を使うこと自体がズレていますが)。そして、このことが、何故「殆ど見かけなくなった」に結び付くのかと言うと、それは、誰も勝ち組でないのなら、誰も負け組ではないということになるからです。

今、この言葉自体が、使われるに適当な場所がないのです。そういう環境、時代は去ったのではないでしょうか。けれども、人間の記憶や、発した思念は残るのですね。これは、自分で気付いてなくても。記憶や思念により残った世界では、今も生きている言葉と、言い換えることもできるでしょう。


誰も勝ち組ではないし、負け組でもない。
今までこの2つの言葉から派生する思い込みにより、自分の立ち位置を自分で決めてしまい、固定させてしまったかもしれません。中には、そういう方もいらっしゃるのではないかと思います。しかし、負け組ではない、それ以上に、誰も勝ち組ではない。そのとき、勝ち組、負け組、勝つこと、敗けること、それらの境界線がスっと消えた感覚がしました。

そして、敗けるということの背景にある、怖れ、抵抗、怒り、妬み、葛藤・・・そういったものが、今まで考えていた「そういったもの」ではなくなり、その結果、「敗者でもいい、敗れてもいい」と受け入れられたのだと思います。何故なら、今まで拒絶していた「そういったもの」ではないのですから。


私自身は、ずっと「敗ける」ことに抵抗してきました。でも、ずっと近付きたくなかった、今までの私が思う「敗けている状態」に、私の自由がありました。

もしくは・・これからも、自由とは、そうやって、視点や考え方の立ち位置を(内に、外に、前から見る、横から見るなど)、しなやかに飛び跳ねられる心を言うのかもしれません。「そこにある」というのも一つの答えでしょうが、一旦見つかれば、それはいずれ、古びて固定してしまうものです。

よって、それは、答えであり、答えではないですね。いつも、そういうものだと思います。だから、しなやかに飛び跳ねて、次々と新しい視点の世界で遊べばいいのだと思います。自分を信頼し、飛び込んでいきましょう。

それは、いくつもの、いくつもの自分自身のフィルタを通した果ての世界です。信頼して、オープンになってみてもいいと思います。(Okを出す、許す、言い方は何でも。)



今日も最後まで読んで下さってありがとうございます。
今日も皆さんの全てが慈しまれる一日でありますように。