一昨夜(9月12日)は中秋の名月、十五夜の見事なお月様でした。
皆さんご覧になられましたでしょうか?
地域によっては雨だったり曇りだったりで、月を愛でることが叶わなかった方々もいらっしゃるようですが、関東地方は乳白色の本当に美しい満月を見上げることができました。
きっとかぐや姫が帰った月も、今夜のような月だったに違いない・・・と、
溜息を付いてしまうほどの神々しさ、そして、あの夜は身体が涼む、何とも具合のいい風も吹いていました。
その前日(9月11日)のお月様は、優しさ、慈悲。
暖かな月
でも十五夜のお月様は、神通力・・・は大袈裟ですが、正直そんな風に思いました。
不思議と、11日のお月様のような暖かさはなかったのだけれど、
代わりに12日、満月当夜のお月様には、貫くような強さの一筋の光を感じました。
さて、お月様について詠んだ素晴らしい歌(和歌)を twitterでフォロワー様、@LupinVoyageur さんから教えて頂きました。
ありがとうございました^^
私が9月11日に眺めたお月様について「暖かい」と表現したことに反応して下さって、最後はこの歌でお返事を返して下さいました。
何とも粋ですよね。
月かげの いたらぬさとは なけれども
ながむる人の 心にぞすむ
浄土宗宗祖・法然上人様の詠まれた歌です。
私訳:「月かげ(月光)の届かない里はないけれど=月光はどんなに遠くに隠れた里をも照らすけれど、本当は、眺める人の心にこそ月は棲むのだ(澄むのだ)」
果たして法然上人様は、棲むと澄むを掛けられたのでしょうか?
阿弥陀仏様の慈悲・・どんな人でも救い取って下さる大慈悲・・を月光に捉えて、
そして月の光は、例え雲に隠れて目に見えなくても、眺めようとする(阿弥陀仏様の大慈悲の心を受け取ろうとする)心にこそ月は澄んで光るのだ。その心にこそ月は棲むのだ・・・と、私なりの解釈です。
浄土宗のホームページにあった
「信仰の世界では、仏心を受け入れる心が大切ですが」
という一行。
仏心とは正しく「どんな人も救い取ろうとする大慈悲の心」に他なりませんが、
「どんな人も・・・」この部分を目にした瞬間、
「私は受け入れてなかった」という思いが、自分の胸を深く衝きました。ただ厳密に言うと、
「自分が救い取ってもらえる対象の人間だと思っていなかった」ということに気付きました。
大きな気付きでした。
一人ひとり、と繰り返し繰り返し言葉にしながら、
私自身もその内の一人だとは、全く微塵に思っていなかったのですから。
救われる対象ではない、許される対象ではない、愛される対象ではない。
自分をそのように思い続けてきた古い感情の解放でした。
そして奇しくも、この日は9月11日・・・東日本大震災から半年、アメリカ同時多発テロから十年の日で・・・
犠牲になられた数多くの方々。
心の平安が戻らず、もがいてる残された人々。
そのどんな人もその掌に救い取ろうとして下さる大慈悲の心、私たちが見える世界に確かに御姿を現して下さいました。
誰もが例外なく救い取られる存在なのだから、その差し伸べられようとしている掌(仏心)を受け取りなさいと。何の躊躇もなく、遠慮もなく受け取れるようになりなさいと。自分の価値を思い出しなさいと。
今日も最後まで読んで下さって、本当にありがとうございます。
今日も一人ひとりの掛けがえのない勇気が、大切な誰かに届く一日でありますように。
皆さんご覧になられましたでしょうか?
地域によっては雨だったり曇りだったりで、月を愛でることが叶わなかった方々もいらっしゃるようですが、関東地方は乳白色の本当に美しい満月を見上げることができました。
きっとかぐや姫が帰った月も、今夜のような月だったに違いない・・・と、
溜息を付いてしまうほどの神々しさ、そして、あの夜は身体が涼む、何とも具合のいい風も吹いていました。
その前日(9月11日)のお月様は、優しさ、慈悲。
暖かな月
でも十五夜のお月様は、神通力・・・は大袈裟ですが、正直そんな風に思いました。
不思議と、11日のお月様のような暖かさはなかったのだけれど、
代わりに12日、満月当夜のお月様には、貫くような強さの一筋の光を感じました。
さて、お月様について詠んだ素晴らしい歌(和歌)を twitterでフォロワー様、@LupinVoyageur さんから教えて頂きました。
ありがとうございました^^
私が9月11日に眺めたお月様について「暖かい」と表現したことに反応して下さって、最後はこの歌でお返事を返して下さいました。
何とも粋ですよね。
月かげの いたらぬさとは なけれども
ながむる人の 心にぞすむ
浄土宗宗祖・法然上人様の詠まれた歌です。
私訳:「月かげ(月光)の届かない里はないけれど=月光はどんなに遠くに隠れた里をも照らすけれど、本当は、眺める人の心にこそ月は棲むのだ(澄むのだ)」
果たして法然上人様は、棲むと澄むを掛けられたのでしょうか?
阿弥陀仏様の慈悲・・どんな人でも救い取って下さる大慈悲・・を月光に捉えて、
そして月の光は、例え雲に隠れて目に見えなくても、眺めようとする(阿弥陀仏様の大慈悲の心を受け取ろうとする)心にこそ月は澄んで光るのだ。その心にこそ月は棲むのだ・・・と、私なりの解釈です。
浄土宗のホームページにあった
「信仰の世界では、仏心を受け入れる心が大切ですが」
という一行。
仏心とは正しく「どんな人も救い取ろうとする大慈悲の心」に他なりませんが、
「どんな人も・・・」この部分を目にした瞬間、
「私は受け入れてなかった」という思いが、自分の胸を深く衝きました。ただ厳密に言うと、
「自分が救い取ってもらえる対象の人間だと思っていなかった」ということに気付きました。
大きな気付きでした。
一人ひとり、と繰り返し繰り返し言葉にしながら、
私自身もその内の一人だとは、全く微塵に思っていなかったのですから。
救われる対象ではない、許される対象ではない、愛される対象ではない。
自分をそのように思い続けてきた古い感情の解放でした。
そして奇しくも、この日は9月11日・・・東日本大震災から半年、アメリカ同時多発テロから十年の日で・・・
犠牲になられた数多くの方々。
心の平安が戻らず、もがいてる残された人々。
そのどんな人もその掌に救い取ろうとして下さる大慈悲の心、私たちが見える世界に確かに御姿を現して下さいました。
誰もが例外なく救い取られる存在なのだから、その差し伸べられようとしている掌(仏心)を受け取りなさいと。何の躊躇もなく、遠慮もなく受け取れるようになりなさいと。自分の価値を思い出しなさいと。
今日も最後まで読んで下さって、本当にありがとうございます。
今日も一人ひとりの掛けがえのない勇気が、大切な誰かに届く一日でありますように。
読んで下さってありがとうございました!コメントも嬉しいです^^
旅人ルパンさんには、本当に大切なことを気付かせて下さいました。改めて感謝いたします。
この御歌の意義深さ、法然上人様の洞察力の深さに、ただただ言葉がありません。仏様への畏敬の念と、人々への愛情の大きさを物語っているように思います。そして、月を棲ませる(澄ませる)のは自分次第。。厳しいけれど、有難いことだと思います。
今後とも、どうぞよろしくお願いいたします。
遅ればせながら、読ませて頂きました。
私の単なる反応を深めて頂き、大変嬉しく思います。
その解釈、極めて正確かつ丁寧だと思います。
あらためて、意義深く、世界と人間を見通した歌だと思います。