自分とは、
「自らが分かっている(認識している)」存在のことかと思います。
自分とは、要は「他者」とも言えます。
私が創り上げた私の残像…と言うか。私に一番近い他者…と言うか。
その自分に、あれやこれや、価値や意味をラベリングして(してるのは私で)、
そして、自分という存在が息をし始める。
それが「私」だと信じてしまう。
解釈の仕方を変えただけなのに、
さっきより、目の前の景色が目に鮮やかに映ったり。
気持ちが楽になったりしますよね。
私たちは、そのことを許していると思うし、そのことを求めているとも思います。
気持ちが明るく、楽になることって大切ですから。
そして、例えば上記ののように知覚が変化したならば、
違う「自分」になった、と言えるのではないだろうか?と思います。
私がどんなシナリオを、この肉体を使って演じるか。
そして、そのドラマ(喜怒哀楽)を感じたい、経験したい。
悲しみも、憎しみも。
喜びも安寧も。
後悔も、深い感謝も。
それにより、今までのこと…
しがみついてきたこと。
許せなかったこと。
恐れてきたこと等。
受け入れられず、避け続けて、自分から離れた状態に置いているもの。
そして、それら自体も生命力を持って、場合によっては自分に敵対してくる。
そこに心を開いて一つになるとき、
そのシナリオとその自分は、
幕が降りるんじゃないかと思います。
「私」は、演じさせる側ですね。
「私」は、無意識領域に半分以上ある状態だから、
どんなシナリオなのか、顕在意識下の「私」も、それは完全には分かりません。
※・◆・※・◆・※・◆・※・◆・※・◆・※・◆・※・◆・※・◆・※・◆・※・◆・※・◆・※・◆・
このように、一見演じたくない、台本さえ読みたくないくらいの舞台でも、
人生に於いては度々選ぶのですね。
選んだつもりなんてなく、送り込まれた感しかなくても。
実際、そういう働きが動くこともあるかもしれません。
そうやって、実際に舞台に立ち、立ってみなければ分からなかったことに向き合う、取り組む…
それが生きることかもしれないと、2020年の始まりに考えました。
生きる意味や価値は、今の自分では知り得なくても最初から確実にあるので、
それを希求して彷徨うより、
問題であり、喜びなりに向かい合い、取り組み、受け取ることを続けることで、
自然に理解していくのではないでしょうか。
勿論、苦しく長い道のりのときもあるでしょう。それが多い場合もあるでしょう。
また、「自分」を「他者」と捉える「私」なら、
喜怒哀楽をドラマティックに、深く、濃く感じても、
依存したり、そこから習慣を作らないんだと思います。
私もこの感覚、実際にはまだ良く理解していないので、こんな曖昧な書き方ですが。。
多分、その場で完結するのでしょう。そして、毎回新たに知覚し、体験していく感覚でしょうか。
子供のような感覚かもしれません。
より純度の高い子供性を活かすには、
より成熟した個でなければコントロールできないし、その子供性を遊ばせられないでしょうから。
人生は、未知を既知にするための道程で、
現在の解釈では否定したい(ネガティブな)要素が介入することは基本的に必至です。
内容は人それぞれ。その方のカルマにもよります。
それも込みで、次の幕へと続いて行くのだと思います。
それは「自分」になってみないと出会えない宝物との出会いのために。
何より「自分」が、その時、その時の「自分」が、どんな自分も宝物そのものだと知るために。
宝物・・それは、制限を課せられている「自分」でないと見つけられないのです。
Life goes on to discover a lot of treasures within you and find yourself treasure itself.
もう10日も経ちましたが、2020年も、どうぞ宜しくお願いします。
今日も皆さまの健やかで愉しい一日でありますように。
「自らが分かっている(認識している)」存在のことかと思います。
自分とは、要は「他者」とも言えます。
私が創り上げた私の残像…と言うか。私に一番近い他者…と言うか。
その自分に、あれやこれや、価値や意味をラベリングして(してるのは私で)、
そして、自分という存在が息をし始める。
それが「私」だと信じてしまう。
解釈の仕方を変えただけなのに、
さっきより、目の前の景色が目に鮮やかに映ったり。
気持ちが楽になったりしますよね。
私たちは、そのことを許していると思うし、そのことを求めているとも思います。
気持ちが明るく、楽になることって大切ですから。
そして、例えば上記ののように知覚が変化したならば、
違う「自分」になった、と言えるのではないだろうか?と思います。
私がどんなシナリオを、この肉体を使って演じるか。
そして、そのドラマ(喜怒哀楽)を感じたい、経験したい。
悲しみも、憎しみも。
喜びも安寧も。
後悔も、深い感謝も。
それにより、今までのこと…
しがみついてきたこと。
許せなかったこと。
恐れてきたこと等。
受け入れられず、避け続けて、自分から離れた状態に置いているもの。
そして、それら自体も生命力を持って、場合によっては自分に敵対してくる。
そこに心を開いて一つになるとき、
そのシナリオとその自分は、
幕が降りるんじゃないかと思います。
「私」は、演じさせる側ですね。
「私」は、無意識領域に半分以上ある状態だから、
どんなシナリオなのか、顕在意識下の「私」も、それは完全には分かりません。
※・◆・※・◆・※・◆・※・◆・※・◆・※・◆・※・◆・※・◆・※・◆・※・◆・※・◆・※・◆・
このように、一見演じたくない、台本さえ読みたくないくらいの舞台でも、
人生に於いては度々選ぶのですね。
選んだつもりなんてなく、送り込まれた感しかなくても。
実際、そういう働きが動くこともあるかもしれません。
そうやって、実際に舞台に立ち、立ってみなければ分からなかったことに向き合う、取り組む…
それが生きることかもしれないと、2020年の始まりに考えました。
生きる意味や価値は、今の自分では知り得なくても最初から確実にあるので、
それを希求して彷徨うより、
問題であり、喜びなりに向かい合い、取り組み、受け取ることを続けることで、
自然に理解していくのではないでしょうか。
勿論、苦しく長い道のりのときもあるでしょう。それが多い場合もあるでしょう。
また、「自分」を「他者」と捉える「私」なら、
喜怒哀楽をドラマティックに、深く、濃く感じても、
依存したり、そこから習慣を作らないんだと思います。
私もこの感覚、実際にはまだ良く理解していないので、こんな曖昧な書き方ですが。。
多分、その場で完結するのでしょう。そして、毎回新たに知覚し、体験していく感覚でしょうか。
子供のような感覚かもしれません。
より純度の高い子供性を活かすには、
より成熟した個でなければコントロールできないし、その子供性を遊ばせられないでしょうから。
人生は、未知を既知にするための道程で、
現在の解釈では否定したい(ネガティブな)要素が介入することは基本的に必至です。
内容は人それぞれ。その方のカルマにもよります。
それも込みで、次の幕へと続いて行くのだと思います。
それは「自分」になってみないと出会えない宝物との出会いのために。
何より「自分」が、その時、その時の「自分」が、どんな自分も宝物そのものだと知るために。
宝物・・それは、制限を課せられている「自分」でないと見つけられないのです。
Life goes on to discover a lot of treasures within you and find yourself treasure itself.
もう10日も経ちましたが、2020年も、どうぞ宜しくお願いします。
今日も皆さまの健やかで愉しい一日でありますように。
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