命や存在。それ自体で奇跡的なこと。捧げられ、生かされ、引き継がれ、成り立っているもの。
自分の常識、他者の非常識。その反対も然り。皆それぞれ、違いますね。その違いは歩み寄ることしか解決しないのではないだろうか。こちら側に寄いと強要して、それが効を奏しても、自分の依存度が深まるだけでもある。
例え、悩み苦しみ、出口が見えないままの一生であっても、等しくかけがえのない一生。その人だけが生きることができた一生。
世の中の仕組みと、大多数は余りにも強い。しかし、そこに添っていることが優劣ではない。
@urutoratibita おはようございます(^^) こちらこそ、本日も宜しくお願いいたします。どうぞ良い一日をお過ごしください。
「一人じゃない」は、物事や出来事、自分の感情を肯定的な意味で捉えられたときに感じられるものかもしれない。有名な、人生が最も苦しかったときには足跡が一対しかなかった(神様が自分を背負って歩いてくれていた)の詩のように。
どうにかしたいこと程抱きしめて。何とかしたいとき程、出口を塞ぐ。逃げても逃げても、追いかけられるだけだもの。
私たちは必要なものと繋がっていくのだろう。そして、この必要なものとは、似ていたり、自分の慣習に近い、一見ストレスを感じないものとは限らず、相反するものであったりする。必要なもの=すべての出会いは磨き粉。そして、次の再会を願い離れていくことも、また磨き粉。
できるならば、全てを許し合って生きたい。争いや、自分の都合で立ち回ることも、そういうことも許し合って。
野田前首相の原発事故収束宣言と同じく。首相だからって信じない。それに「コントロ-ルされている」なんて、なんて恐ろしいことを言うんだ。では2年以上も腰を上げなかったのも、コントロ-ルされた結果だというのか。