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新内と、吉原は切っても切れない関係で、私も、吉原マニア(?)であるので、吉原関係の本は、色々読むようにしています。
今、読んでいるのは「吉原花魁日記」(森光子著)←あの女優さんの森光子ではない
大正13年19歳で吉原に売られた少女のホントの日記(大正15年に出版)。
これは、吉原版「女工哀史」というか「蟹工船」といったところだろうか。
この頃になると、吉原の遊女全員を「花魁」と呼んだらしい。
吉原と言えば、歌舞伎や、映画で見る華やかな花魁道中。美しい遊女が並ぶ張り見世。
御大尽や、文化人が集い、賑やかな三味線の音色。色と欲と嘘とホントが入り混じった世界を連想する。花魁のイメージは、見識が高く、美しく、芸も知識も一流・・・これは、江戸中期以前の「太夫」と呼ばれる遊女のイメージ。
(その後、花魁の質も、客の質も低下の一途をたどるのだけれど)
江戸吉原は、数々の邦楽の題材にもなっているし、粋な世界の代表でもある。
それらは、ある意味、遊びに行く男性側からの見方でもあると思う。
けれど、それは、ほんの「光」の部分で、過酷な労働(やはり労働でしょう)、病気と、死が常に隣り合わせの恐ろしい世界でもあると思う。
特に、この本を読むと、悲惨限りない遊女たちの生活が書かれている。
年端も行かない主人公は、初見世に出てからは、毎日、肉体的にも精神的にも、辛い日々が続く。
今までにも、「光」と「影」の部分は、認識していたけれど、改めて、この本を読むと、それを強く感じます。
自分に対して、恋愛感情のない男性から、ただただ「はけ口」として扱われるって、考えただけでも恐ろしい。。。。
そのことに関しては、江戸時代でも、大正時代でも同じことだろうし、禿から廓で育てられた新造も、いきなり他所から連れてこられた主人公もおなじであろう。
そうして多くの遊女がだんだん、諦めと、慣れで、廓の水に馴染んでゆくのだろう。
個人的な差もあるかもしれないなぁ・・・と思う。主人公は、馴染めずに苦悩しつづけ、見事、脱出して結婚する。(よかったよかった)
花魁と言えば一番にイメージするのが「揚巻」や「高尾」であるけれども、実際、皆、出来ることなら「苦界」から、1日も早く抜け出したいと思っていたのではないか。同じ女性として容易に想像できる。
新内では、遊女が、お客と恋をして、身上がりして、借金がかさみ、、、、心中したり、足抜けしたりというお話が多い。
これまでの私の それらのお話に対する見方は、恋するのはいいけれど、そこまで、(先々のことを考えないで)逢わないでも、ほどほどに恋をすれば?と思っていたけれど、この本を読んで、毎日、廓で、明日のない絶望的な日々を送っていれば、たまたま、好きな人が出来れば、そりゃ、めちゃめちゃに夢中になってしまうだろうなぁ~と考え方を改めさせられた1冊でありました。