◎ディドロと百科全書 2
★ディドロ(1713~1784)
○ドニ・ディドロは1713年10月5日、フランスのシャンパーニュ州(現オート=マルヌ県)のラングルで生まれた
ラングルは城壁に囲まれた、刃物製造業で有名な町である
ディドロ家は職人の家系で、父のディディエ・ディドロは刃物作りの親方だった
とくに外科用器具の製作にすぐれていた
母アンジェリク・ヴィニュロンはなめし革業者の娘で、長男はすぐに亡くなり、ドニは第2子である
○幼少年期~
・読み、書き、算術の初等教育は両親のもとで受けたと思われる
・10歳(1723年11月)のときラングルにあるイエズズ会の経営するコレージュ(日本の中学校に相当)に入学し、ギリシア・ラテンの古典語・古典文学の教育を受けた
成績は優秀だった
ラテン語の詩作とラテン文翻訳で2等の成績をとったときの賞品はクラッセ神父著「日本教会史」だった
一方で、パチンコを使った石の当てっこや戦争ごっこなどいろいろな遊びをしていた
・1728年の秋、あるいは翌年の初頭、15歳のドニは父親に伴われてパリに行き、コレージュ上級学年(日本の高等学校と大学教養課程に相当)に入学する
入学したコレージュに関しては、コレージュ・ルイ・ル・グラン説、コレージュ・ダルクール説、両校に順次在学したとする説など諸説がある
1732年9月2日、ディドロはパリ大学から「教養課程修了者」の資格を与えられた
中世からフランス革命にいたるまで、パリ大学の一般教養課程の教育はコレージュで実施されていた
○1732年~1739年(19歳~26歳)
・パリ大学神学部で神学博士号を得るために神学の学習
同時にギリシア語、ラテン語、ヘブライ語、数学を学習
・1736年(23歳)ラングル出身の刃物師フークーの家に泊めてもらって借金をする
フークーに借金を払ったのはディドロの父親だった
○1739年~1742年(26歳~29歳)
・数学の出張個人教授
徴税請負人ランドン家で住み込みの家庭教師をしてランドンの息子に教えた(3か月)
数学の出張個人教授
クレマン・ド・リの法律事務所での代訴人見習い(2年間)
しかしディドロの関心は代訴人の実務よりも古代語と近代語(英語、イタリア語)と数学の学習に向けられていた
数学の出張個人教授
○演劇
・当時、ディドロは演劇に情熱を傾けていた
数学者、演劇関係、文学関係、画家、版画家たちとの交友があった
○アンヌ=トワネット(略称アントワネット)・シャンピオンとの出会い(1741年 28歳)
・1741年、ディドロはラングルの家族にサン=シュルピス神学校に入学したいと伝え、母親は寄宿舎入りに備えて衣類一式を送った
ところが、大きくなったディドロには小さすぎて着られず、ディドロが下着類一式の仕立て直しに訪れたのが、シャンピオン母娘だった
シャンピオン夫人は1726年からレースと下着の小売商を始めており、娘アントワネットは修道院を出ると仕事を手伝うことになる
ディドロと出会ったとき、アントワネットは31歳だった
ディドロは仕立て直しを口実に「週3、4回」訪問し、ついには「毎晩」になる
ディドロはアントワネットとの結婚を決意した
1742年12月7日、ディドロは父から結婚の許可を得るためにラングルに旅立った
1743年1月初め、結婚の意志を父親に打ち明ける
ディドロは結婚の許可と同時に、父親から財産の分け前として年金を要求した
話がこじれてディドロは父親に暴力行為を及ぼそうとしたらしく、父親はディドロをトロワの近くの修道院に監禁した
18世紀のフランスでは、30歳未満の男子が父親の許可なく結婚した場合、父親は息子の財産の相続権を剥奪することができたし、息子が父親の意志に反して結婚を断念しない場合は、父親は息子を僧院、城、牢獄等に無期限に監禁する権利ももっていた
ディドロは修道院から脱走し、パリにたどり着いた
アントワネットは二度とディドロに会うまいと決心したが、ディドロが病気になり、看病するひともなく、汚い部屋で寝ているとの情報が入る
アントワネットの決心はくずれ、ディドロの部屋を訪れるとその場で結婚の約束をしてしまったという
1743年10月26日、ディドロはアントワネットとの結婚契約書に署名する
11月6日、サン=ピエール=オ=ブフ教会で結婚式をあげた
○ジャン=ジャック・ルソーと知り合う(1742年)
・1742年秋、ディドロはコーヒー店ラ・レジャンスで友人のダニエル・ロガンからスイスの青年ジャン=ジャック・ルソーに紹介され、友人となった
ディドロはこの頃、ルソーとしばしばチェスの勝負をした
★ディドロ(1713~1784)
○ドニ・ディドロは1713年10月5日、フランスのシャンパーニュ州(現オート=マルヌ県)のラングルで生まれた
ラングルは城壁に囲まれた、刃物製造業で有名な町である
ディドロ家は職人の家系で、父のディディエ・ディドロは刃物作りの親方だった
とくに外科用器具の製作にすぐれていた
母アンジェリク・ヴィニュロンはなめし革業者の娘で、長男はすぐに亡くなり、ドニは第2子である
○幼少年期~
・読み、書き、算術の初等教育は両親のもとで受けたと思われる
・10歳(1723年11月)のときラングルにあるイエズズ会の経営するコレージュ(日本の中学校に相当)に入学し、ギリシア・ラテンの古典語・古典文学の教育を受けた
成績は優秀だった
ラテン語の詩作とラテン文翻訳で2等の成績をとったときの賞品はクラッセ神父著「日本教会史」だった
一方で、パチンコを使った石の当てっこや戦争ごっこなどいろいろな遊びをしていた
・1728年の秋、あるいは翌年の初頭、15歳のドニは父親に伴われてパリに行き、コレージュ上級学年(日本の高等学校と大学教養課程に相当)に入学する
入学したコレージュに関しては、コレージュ・ルイ・ル・グラン説、コレージュ・ダルクール説、両校に順次在学したとする説など諸説がある
1732年9月2日、ディドロはパリ大学から「教養課程修了者」の資格を与えられた
中世からフランス革命にいたるまで、パリ大学の一般教養課程の教育はコレージュで実施されていた
○1732年~1739年(19歳~26歳)
・パリ大学神学部で神学博士号を得るために神学の学習
同時にギリシア語、ラテン語、ヘブライ語、数学を学習
・1736年(23歳)ラングル出身の刃物師フークーの家に泊めてもらって借金をする
フークーに借金を払ったのはディドロの父親だった
○1739年~1742年(26歳~29歳)
・数学の出張個人教授
徴税請負人ランドン家で住み込みの家庭教師をしてランドンの息子に教えた(3か月)
数学の出張個人教授
クレマン・ド・リの法律事務所での代訴人見習い(2年間)
しかしディドロの関心は代訴人の実務よりも古代語と近代語(英語、イタリア語)と数学の学習に向けられていた
数学の出張個人教授
○演劇
・当時、ディドロは演劇に情熱を傾けていた
数学者、演劇関係、文学関係、画家、版画家たちとの交友があった
○アンヌ=トワネット(略称アントワネット)・シャンピオンとの出会い(1741年 28歳)
・1741年、ディドロはラングルの家族にサン=シュルピス神学校に入学したいと伝え、母親は寄宿舎入りに備えて衣類一式を送った
ところが、大きくなったディドロには小さすぎて着られず、ディドロが下着類一式の仕立て直しに訪れたのが、シャンピオン母娘だった
シャンピオン夫人は1726年からレースと下着の小売商を始めており、娘アントワネットは修道院を出ると仕事を手伝うことになる
ディドロと出会ったとき、アントワネットは31歳だった
ディドロは仕立て直しを口実に「週3、4回」訪問し、ついには「毎晩」になる
ディドロはアントワネットとの結婚を決意した
1742年12月7日、ディドロは父から結婚の許可を得るためにラングルに旅立った
1743年1月初め、結婚の意志を父親に打ち明ける
ディドロは結婚の許可と同時に、父親から財産の分け前として年金を要求した
話がこじれてディドロは父親に暴力行為を及ぼそうとしたらしく、父親はディドロをトロワの近くの修道院に監禁した
18世紀のフランスでは、30歳未満の男子が父親の許可なく結婚した場合、父親は息子の財産の相続権を剥奪することができたし、息子が父親の意志に反して結婚を断念しない場合は、父親は息子を僧院、城、牢獄等に無期限に監禁する権利ももっていた
ディドロは修道院から脱走し、パリにたどり着いた
アントワネットは二度とディドロに会うまいと決心したが、ディドロが病気になり、看病するひともなく、汚い部屋で寝ているとの情報が入る
アントワネットの決心はくずれ、ディドロの部屋を訪れるとその場で結婚の約束をしてしまったという
1743年10月26日、ディドロはアントワネットとの結婚契約書に署名する
11月6日、サン=ピエール=オ=ブフ教会で結婚式をあげた
○ジャン=ジャック・ルソーと知り合う(1742年)
・1742年秋、ディドロはコーヒー店ラ・レジャンスで友人のダニエル・ロガンからスイスの青年ジャン=ジャック・ルソーに紹介され、友人となった
ディドロはこの頃、ルソーとしばしばチェスの勝負をした