みなさん、ハローです。ホディです。
先日、途中で断念した『階層化日本と教育危機』の感想を書きますね。
まずは「階層」とは?
この本ではキチンと定義されていました。少し引用させていただくと、
「階層」とは、所得や職業の威信、学歴、権力などさまざまな社会・経済・文化的資源と呼ばれるものを基準としてみた、社会的な地位やカテゴリーのこと
「階層化社会」とは、そうした地位へと人びとを配分する結果としてできる、(不平等を含んだ)序列化した社会のこと
そして、そのような序列化の過程やメカニズムをさして、「階層化」という
さらに以下のように続けて書かれています。
教育は、その結果が学歴として見なされるように、それ自身一つの社会的資源であり、階層を構成する要素の一つである。
と同時に、教育と通じて、職業への配分が決まったり所得が左右されたりというように、現代社会において教育は、階層的な地位を決める重要な要因の一つでもある。
ボクは「階層」という言葉が理解できそうな、できなそうな・・・
微妙な理解にとどまっていますが、この本の趣旨とは異なりますので突き進みますネ。
また、簡単にこの本を要約すると(まとめすぎかもしれませんが・・・)、
【「階層」により教育に差が生まれ、さらにその教育により「階層」に差が生まれる。】
ということであって、確かにボクも直前に引用させてもらったように、
教育が学歴を生んで、その学歴そのものが一つの社会的資源となっている。
そして、学歴によって職業(働く会社)の選択肢がある程度限定されるのも事実でしょう。
よって、教育により「階層」に差が生まれることはすんなりと理解できました。
ただ、「階層」により教育に差が生まれることは理解できなかったのですが、「なるほど~」と納得した一文が以下の内容です。
「できなかったのはがんばらなかったからだ」というように、個人の失敗を努力の欠如に帰着するとすれば、日本型メリトクラシーのイデオロギー性は、能力の階層差や結果の不平等を隠蔽してきただけにとどまらない。このイデオロギーの巧みさは、まさに、多くの人々の努力を動員しつつ、同時に、階層差に影響されたその努力をも媒介にして、教育達成における階層差をつくり出してきたこと、さらにはそうした社会階層の影響を、努力が平等に存在する(「だれでもがんばれば・・・」)という幻想によって隠蔽したことにある。
ボクも確かに「努力が平等に存在する」と思っていました。
この本を読むといろいろデータも提供されていまして、結果的に「階層」により努力にも差があることも事実であろうことは理解できました。
そう考えると、「階層」を乗り越えられるのは“努力”と“運”だけ?でしょうから、努力が「階層」に左右されるならば「階層化」は加速していくことになるんでしょうか???
そして、もう少し引用させていただきますと、
教育改革の「思わざる結果」として、インセンティブ・ディバイド(誘因・意欲の格差拡大)という現象について考察を加える。結論を先取りすれば、意欲をもつ者ともたざる者、努力を続ける者と避ける者、自ら学ぼうとする者と学びから降りる者との二極分化の進行であり、さらに問題と思われるのは、降りた者たちを自己満足・自己肯定へと誘うメカニズムの作動である。
「努力を続ける者と避ける者といった二極分化が進行して、降りた者たちを自己満足へ誘うメカニズムが作動する」とはとても鋭い意見です。
そして、とても恐ろしい話です。
先日書いた糸里の言葉にもありますが、
「それは卑怯やおへんか。分も器もわきまえんと、ただ幸せになろうというのんは、楽をしようということどっしゃろ。」
分や器をわきまえるかどうかは別として、“ただ幸せになろうと楽をする”ということは糸里の言う通り卑怯なことだと思います。
でも、「思わざる結果」として、そうなってしまっている現状・・・
難しい問題ですね・・・
本論からそれますが、教育以外でもインセンティブ・ディバイド(誘因・意欲の格差拡大)は発生していると思っていまして、サラリーマン(それ以外の職業でも同じと思いますが)になってからも同じような現象となっています。意欲をもつ者ともたざる者の二極化が進んでいっていると思います。それをサラリーマンの世界では、成果主義で“意欲(成果)の二極化を前提”とした“処遇の二極化”も進めているわけですが・・・(成果主義には二極化を食い止めようという思いもあるでしょうが・・・)
ここでは「階層」の影響はあるのでしょうか???
近年では一般的に良い会社と思われるところに入社できても、一概には「上の階層」と言えなくなってきていますよね。(もちろん入社するだけで経済的には「上の階層」で固定されるケースも残ってはいますが。だんだんそのような恵まれた?人たちは減っていると思われます。)また、ずっと“意欲をもつ者”であるとも限らない。
常に階層のランクダウンというリスクを抱えながら、意欲をもつサラリーマンはがんばっている・・・
一方、意欲をもたざるサラリーマンは会社側の視点ではがんばっていないとなるんでしょうね?
でも・・・???
ボクらサラリーマンは、いつ下の層に、あるいは意欲をもたざる者にランクされるか分からない不安を抱えながら、実は「階層」を受け入れている。もしくは受け入れざるを得ない状況にいるわけですよね。
そういう意味では社会人になって「階層化」の意識は全く欠けていました。
実は程度の違いはあるかもしれませんが、サラリーマン世界でも、会社の中でも階層化、二極分化は進行していると思います。ボクの意識が欠けていたのは、周りがいわば「中流階層」(こういう言い方は違うか?)だけだからというわけなんでしょうか。(「中流階層」の中で上がったり、下がったり)
教育により「階層」に差が出ても、サラリーマン世界でも「階層」に差が出る・・・
やっぱり「階層」とは何なんだ? と、ボクの場合はまた振り出しに戻ってしまいます。
極論ですが、実は特に日本人は自分の立ち位置(「階層」)が安定していた方が、心地良いような気がしています。(中流サラリーマンのボクだから言えるのでしょうか?)
年功序列。比較的「低階層」から徐々に「高階層」にステップアップする仕組み、エスカレータのようにいつの間にか上層階へ進んでいく仕組み。そして、自ら望まない限りは、その階から下の階へは降りることはない、そんな仕組み。
今は日本の悪・人事制度の典型のように言われていますが、居心地の良い仕組みだと思います。
一方、成果主義。成果(営業成績や評価など)によって容赦なく階層の上下をさせる仕組み。(どこまで上下させるかは会社によって大きく異なりますが。)望むと、望まないとにかかわらず、階層は上下する仕組み。そして、大きな視点で見ると、会社もそのような成果主義の中にいるわけです。かつては安定的だった、というか安定的と思われた大企業もすでに安定とはいえない環境にあるわけです。
そのような環境変化の中、立ち位置を見失った日本人は精神的にも不安定となっていく・・・
居心地の悪さを感じていると思います。
ただ、誤解のないように補足しますと、ボクは成果主義を望んでいる、というか成果主義を理想としています。ただ、成果主義の基礎となる成果、会社では多くは評価という物差しを使いますが、その評価という物差しを上手く使いきれない評価が多いことに失望していますが・・・
話を元に戻すと、テストの点数という、ある意味客観的な成果のある「教育」という成果主義。そして、成果主義である以上、「階層化」を進めてしまう現実。これはやむを得ないとやはり思います。ただ、「教育」という成果主義を運用する側、その典型が教師であると思いますが、ここに成果主義への理解が足りない(言いすぎ?)ために違和感が生じてしまっているのではないか?と思います。
要するに成果主義は公平な環境を準備できるから運用できるのであって、「階層」によって公平に運用できないのであれば納得感は得られないと思います。
ただ、そのような未熟なままでも、会社の成果主義と同様に、教育もそれでも前へ進まなければいけないわけですし、勝手に前へ進んでいくわけです。
その結果が現在の状況なわけです。
考えれば考えるほどこの問題は難しいですね。
それでも「階層化」は進んでいる。(のか?)
自己満足の長文、失礼しました。
冗長なボクの文章、最後まで読んでいただけた人は何人いるのでしょうか?
でも、懲りずに(下)として、もう少し今度書きます。
先日、途中で断念した『階層化日本と教育危機』の感想を書きますね。
まずは「階層」とは?
この本ではキチンと定義されていました。少し引用させていただくと、
「階層」とは、所得や職業の威信、学歴、権力などさまざまな社会・経済・文化的資源と呼ばれるものを基準としてみた、社会的な地位やカテゴリーのこと
「階層化社会」とは、そうした地位へと人びとを配分する結果としてできる、(不平等を含んだ)序列化した社会のこと
そして、そのような序列化の過程やメカニズムをさして、「階層化」という
さらに以下のように続けて書かれています。
教育は、その結果が学歴として見なされるように、それ自身一つの社会的資源であり、階層を構成する要素の一つである。
と同時に、教育と通じて、職業への配分が決まったり所得が左右されたりというように、現代社会において教育は、階層的な地位を決める重要な要因の一つでもある。
ボクは「階層」という言葉が理解できそうな、できなそうな・・・
微妙な理解にとどまっていますが、この本の趣旨とは異なりますので突き進みますネ。
また、簡単にこの本を要約すると(まとめすぎかもしれませんが・・・)、
【「階層」により教育に差が生まれ、さらにその教育により「階層」に差が生まれる。】
ということであって、確かにボクも直前に引用させてもらったように、
教育が学歴を生んで、その学歴そのものが一つの社会的資源となっている。
そして、学歴によって職業(働く会社)の選択肢がある程度限定されるのも事実でしょう。
よって、教育により「階層」に差が生まれることはすんなりと理解できました。
ただ、「階層」により教育に差が生まれることは理解できなかったのですが、「なるほど~」と納得した一文が以下の内容です。
「できなかったのはがんばらなかったからだ」というように、個人の失敗を努力の欠如に帰着するとすれば、日本型メリトクラシーのイデオロギー性は、能力の階層差や結果の不平等を隠蔽してきただけにとどまらない。このイデオロギーの巧みさは、まさに、多くの人々の努力を動員しつつ、同時に、階層差に影響されたその努力をも媒介にして、教育達成における階層差をつくり出してきたこと、さらにはそうした社会階層の影響を、努力が平等に存在する(「だれでもがんばれば・・・」)という幻想によって隠蔽したことにある。
ボクも確かに「努力が平等に存在する」と思っていました。
この本を読むといろいろデータも提供されていまして、結果的に「階層」により努力にも差があることも事実であろうことは理解できました。
そう考えると、「階層」を乗り越えられるのは“努力”と“運”だけ?でしょうから、努力が「階層」に左右されるならば「階層化」は加速していくことになるんでしょうか???
そして、もう少し引用させていただきますと、
教育改革の「思わざる結果」として、インセンティブ・ディバイド(誘因・意欲の格差拡大)という現象について考察を加える。結論を先取りすれば、意欲をもつ者ともたざる者、努力を続ける者と避ける者、自ら学ぼうとする者と学びから降りる者との二極分化の進行であり、さらに問題と思われるのは、降りた者たちを自己満足・自己肯定へと誘うメカニズムの作動である。
「努力を続ける者と避ける者といった二極分化が進行して、降りた者たちを自己満足へ誘うメカニズムが作動する」とはとても鋭い意見です。
そして、とても恐ろしい話です。
先日書いた糸里の言葉にもありますが、
「それは卑怯やおへんか。分も器もわきまえんと、ただ幸せになろうというのんは、楽をしようということどっしゃろ。」
分や器をわきまえるかどうかは別として、“ただ幸せになろうと楽をする”ということは糸里の言う通り卑怯なことだと思います。
でも、「思わざる結果」として、そうなってしまっている現状・・・
難しい問題ですね・・・
本論からそれますが、教育以外でもインセンティブ・ディバイド(誘因・意欲の格差拡大)は発生していると思っていまして、サラリーマン(それ以外の職業でも同じと思いますが)になってからも同じような現象となっています。意欲をもつ者ともたざる者の二極化が進んでいっていると思います。それをサラリーマンの世界では、成果主義で“意欲(成果)の二極化を前提”とした“処遇の二極化”も進めているわけですが・・・(成果主義には二極化を食い止めようという思いもあるでしょうが・・・)
ここでは「階層」の影響はあるのでしょうか???
近年では一般的に良い会社と思われるところに入社できても、一概には「上の階層」と言えなくなってきていますよね。(もちろん入社するだけで経済的には「上の階層」で固定されるケースも残ってはいますが。だんだんそのような恵まれた?人たちは減っていると思われます。)また、ずっと“意欲をもつ者”であるとも限らない。
常に階層のランクダウンというリスクを抱えながら、意欲をもつサラリーマンはがんばっている・・・
一方、意欲をもたざるサラリーマンは会社側の視点ではがんばっていないとなるんでしょうね?
でも・・・???
ボクらサラリーマンは、いつ下の層に、あるいは意欲をもたざる者にランクされるか分からない不安を抱えながら、実は「階層」を受け入れている。もしくは受け入れざるを得ない状況にいるわけですよね。
そういう意味では社会人になって「階層化」の意識は全く欠けていました。
実は程度の違いはあるかもしれませんが、サラリーマン世界でも、会社の中でも階層化、二極分化は進行していると思います。ボクの意識が欠けていたのは、周りがいわば「中流階層」(こういう言い方は違うか?)だけだからというわけなんでしょうか。(「中流階層」の中で上がったり、下がったり)
教育により「階層」に差が出ても、サラリーマン世界でも「階層」に差が出る・・・
やっぱり「階層」とは何なんだ? と、ボクの場合はまた振り出しに戻ってしまいます。
極論ですが、実は特に日本人は自分の立ち位置(「階層」)が安定していた方が、心地良いような気がしています。(中流サラリーマンのボクだから言えるのでしょうか?)
年功序列。比較的「低階層」から徐々に「高階層」にステップアップする仕組み、エスカレータのようにいつの間にか上層階へ進んでいく仕組み。そして、自ら望まない限りは、その階から下の階へは降りることはない、そんな仕組み。
今は日本の悪・人事制度の典型のように言われていますが、居心地の良い仕組みだと思います。
一方、成果主義。成果(営業成績や評価など)によって容赦なく階層の上下をさせる仕組み。(どこまで上下させるかは会社によって大きく異なりますが。)望むと、望まないとにかかわらず、階層は上下する仕組み。そして、大きな視点で見ると、会社もそのような成果主義の中にいるわけです。かつては安定的だった、というか安定的と思われた大企業もすでに安定とはいえない環境にあるわけです。
そのような環境変化の中、立ち位置を見失った日本人は精神的にも不安定となっていく・・・
居心地の悪さを感じていると思います。
ただ、誤解のないように補足しますと、ボクは成果主義を望んでいる、というか成果主義を理想としています。ただ、成果主義の基礎となる成果、会社では多くは評価という物差しを使いますが、その評価という物差しを上手く使いきれない評価が多いことに失望していますが・・・
話を元に戻すと、テストの点数という、ある意味客観的な成果のある「教育」という成果主義。そして、成果主義である以上、「階層化」を進めてしまう現実。これはやむを得ないとやはり思います。ただ、「教育」という成果主義を運用する側、その典型が教師であると思いますが、ここに成果主義への理解が足りない(言いすぎ?)ために違和感が生じてしまっているのではないか?と思います。
要するに成果主義は公平な環境を準備できるから運用できるのであって、「階層」によって公平に運用できないのであれば納得感は得られないと思います。
ただ、そのような未熟なままでも、会社の成果主義と同様に、教育もそれでも前へ進まなければいけないわけですし、勝手に前へ進んでいくわけです。
その結果が現在の状況なわけです。
考えれば考えるほどこの問題は難しいですね。
それでも「階層化」は進んでいる。(のか?)
自己満足の長文、失礼しました。
冗長なボクの文章、最後まで読んでいただけた人は何人いるのでしょうか?
でも、懲りずに(下)として、もう少し今度書きます。
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