シュレッダーの事故についてテレビや新聞で騒がれていますね。
エレベータ、プール、湯沸かし器、次はシュレッダー。
目を背けたくなるような事故のニュースは続きます。
ふと最近のニュースを思い出しながら、「木を見て森を見ず」的な話で終わっているよな、と感じています。
エレベータが危ないと騒いだと思ったら、プールも危なかった・・・
湯沸かし器も危ない、シュレッダーも危ない・・・
世の中、危険がいっぱい。
実は一番危ないのは、どこにでもある道路だったりします。
車による悲惨な事故も、いつまでもなくなりませんよね。
本当の安全はどこにもない、そう思うことが一番の危険回避の手段なのかもしれません。
みなさん、ハローです。ホディです。
日曜までは、ボクにとって落ち着かない日々が続きます。
お気に入りのブログも最近はほぼ封印しながらも、自分のブログには向かってしまう・・・
一時よりは症状は軽くなっていると思いますけど、ブログ依存症は続いていますね。
さて、今日も「子猫殺し」について・・・
いよいよインターネットから各新聞紙面にも飛び火してきましたね。
火元の日経新聞も夕刊にこの件についての記事を掲載していました。
坂東眞砂子さんのコメントもありましたので、引用します。
坂東眞砂子氏の話
タヒチ島に住みはじめて八年経ちます。この間、人も動物も含めた意味で『生』ということ、ひいては『死』を深く考えるようになりました。七月から開始した日本経済新聞社紙面『プロムナード』上での週一回の連載でも、その観点からの主題が自然と出てきました。
『子猫殺し』のエッセイは、その線上にあるものです。ことに、ここにおいては、動物にとって生きるとはなにか、という姿勢から、私の考えを表明しました。それは人間の生、豊穣性にも通じることであり、生きる意味が不明になりつつある現代社会にとって、大きな問題だと考えているからです。
改めていろいろ考えさせられています。
『生』を感じる、ひいては『死』を感じる場所が二次元になってしまっているボクには「むごい」としか言葉がない・・・
そういう自分自身が「むごい」とも思えます。
ヒトは、動物は・・・何のために生きているのか・・・
近年はペットの擬人化が進んでいます。
良いのか、悪いのかは分かりません。
行き着く先は同一化でしょう。動物愛護団体はペットと言う名の「奴隷」の開放を求めるでしょう。
動物の本当の『生』はそこから始まるのかもしれません。
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