人生におけるいろいろなことは、始まりや終わりってなかなか明確にできません。
100m競走のように、スタートラインとゴールラインがあって、始まりにはヨーイドンの合図があることなんて実は特殊で、多くのことはいつの間にか始まって、いつの間にか終わっている。100m競走もスタートラインにつくまでが本当の勝負だったりしますよね。
忘年会週間はひとときの頭痛と、感謝の気持ちと希望、そして少しの寂しさなどを副産物に終わりました。
何となくスッキリした気分と、疲れのため?の体の重さを感じつつ布団から離れられず、今日は子どもに起こしてもらいました。でも快晴の天気のもと、文字通り徒歩でいろいろ歩いて回り、今は昨日までとは性質の違う程よい疲労を感じています。
先週までの週末と表面的には何も変わりませんけど、自分なりには新しいスタートを切った気持ちでいます。
みなさん、ハローです。ホディです。
夜は、「世界一受けたい授業」を観ていました。
新聞で養老孟司先生が出られると知ったので、朝から楽しみにしていました。養老先生の前のサンタクロースの話や、米村でんじろう先生の実験も面白かったですよ。
そして、やはり養老先生の話は興味深いです。今日の授業テーマは「死」。
「生」や「死」の実感が薄れてきているとか、「生」と「死」は、対称的に捉えられることが多いけど、そうではなくて「死」というのは「生」の中に含まれるという話をされていました。そして、人体標本。人工の模型ではなくて、自然のまま残した標本です。ご本人の申し出により特殊な処理をして死後もミイラのように形を残した標本。
不謹慎とか、不気味とか、そんな捉え方ではなくヒトの体の複雑さ、こんな複雑なモノが産み出される自然の不思議さ、いつかはそういうことを子どもに教えられるといいなと感じました。
「ヒトはパソコンや車は作れるけど、生き物となるとヒトどころか大腸菌も作れない。それだけ生き物は複雑なモノ。生き物は100円で殺せるけど、いくらお金を出しても元に戻すことはできない。」という養老先生のコトバが単純に考えがちな社会にもっと広まることを期待しています。
そして、今日の冒頭に書いた「始まりと終わり」の曖昧さも養老先生のコトバを聞きながら自分なりに解釈していました。
ヒトはいつから生を受けたのか。母体から外界へ現れたとき?受精したとき?それとも精子や卵子のときなのか?
ヒトはいつから死となるのか。脳の機能が失われたとき?心臓が止まったとき?脳の機能が失われたとき?それとも体の細胞がすべて死滅したときなのか?
ボクらはいつの間にか始まって、いつの間にか終わっている。
そんなことを思うのも、ボクのサラリーマン生活。
昨日、退職願を正式に提出しました。上司はボクの顔を見てませんでしたけど、最高の“作り笑顔”といっしょに。
ノー天気に夢を語ることばかり最近は書いていますけど、実はそんな未来に向かっての思いばかりではなく、相変わらず日常生活の大部分は会社の中。いろいろな思いを感じています。
仁義を優先して退職を相談したつもりなのが先週の金曜。
上司もきっと怒っているんでしょうとボクは勝手に想像していますけど、1週間は退職について触れる話も引き継ぎの話も何もなく、ただ日常の仕事の話だけが右から左へ。
言いたくはないけど、同じ場所で同じ時間を過ごした仲間への仕打ちとしては最悪だとボクの視線では感じます。
痺れを切らして、退職日も引き継ぎスケジュールも、ボクの都合で決めさせていただきました。正式に来年といっても来月の1月末にボクは会社を辞めることが決まり、昨日の夜からは未来へ向けた活動をボクの生活の中心とすることにしました。
立つ鳥跡を濁さず。
最低限、必要なことはしっかりとさせていただきます。
ただ、有給休暇を引き継ぎのために必要と自分が考えた出社日以外は取らせていただきます。そして、その有給休暇は未来のために有意義に過ごそうと考えています。
いつの間にかサラリーマン生活、今の会社での仕事生活が終わろうとしています。
そして、いつの間にかボクの夢に向けた生活、起業家生活が始まっています。
「過去は振り返るな」とよく言われますけど、ボクは過去をよく振り返ります。と言いますか、意図しなくても勝手に過去が思い出されます。
過去があるから、今があり、そして未来がある。それは決して意味のあることではないですけど、ボクは過去の思い出といっしょに生きている。だからしっかりと歩いていられる。そう思っています。
愚痴になるのでこれ以上は言いませんけど、今の会社にはいろいろな不満や怒りが正直なところあります。
ただ、そんな不満や怒りがボクの未来へのスタートの「ヨーイドンの合図」だったわけではなく、いつの間にかボクはスタートしていました。
一週間、いろいろな寂しさや懐かしさや感謝や期待を自席でひとりで感じていたのは、リップサービスではなく本当の気持ちです。
始まりと終わりが複雑なように、ボクの心境も複雑です。
♪分かってくれとは言わないが♪、「お先に失礼します」ときには笑顔を残したい。
そんな自分勝手なルビコン川の川原での思いです。
非常におもしろいと思います。
日本人の生死觀というのは、多くは「循環型」だと思います。
だから、始めなく終わりなくです。
といっても、「輪廻」とはちょっとニュアンスが違うかもしれません。
永遠に続く「いのち」という言い方はどうでしょう。
そうですか、上司の方へ。自分が転職したときのことを少し思い出しましたよ。hoddyさんの行動に、少なからず何かを感じた周囲の人もきっといるはずです。分かる人は分かるのさ、というスタンスも「あり」でしょう、きっと。
ぜんさんはよく本を読まれていますね~。ブログを読むと、ドンドン感想が出てくるのでとても勉強になります。
“永遠に続く「いのち」”ですか。とてもよい表現ですね~。“限りある生命”だとどうしても投げやりになってしまう人が出てきます。日本人の生死觀はボクは不勉強ですので、またいろいろ勉強させてください。
shibaさん、コメントありがとうございます。
養老先生の本をボクも早く読みたくなりました。それでも「死の壁」を読んでいたので、しっくりときたんですけど。
そして「分かる人は分かる」。そうですね。
ボクの場合は二度目ですけど、今の仕事も投げずにがんばりますね。
「いのち」と「命」について、少し書いてみました。
私ばかりTBして申し訳ありませんが、、、
早速読ませていただきました。勉強になります。
ぜんさんのブログにもコメントさせていただきましたが、「死」とか「いのち」とか考えるのはとても怖いことですけど、必ずあることを無視してはいけませんね。ボクもしっかりと考えていきたいと思いました。