1985年8月12日、日本航空123便の墜落事故が起きました。
今年で20年になるんですね。
みなさん、ハローです。ホディです。
今日は、ちょうど読み終わりました『クライマーズ・ハイ』について少し書きたいと思います。
いろいろな意味で、この本も重いです。
本の内容は、冒頭で少し触れました御巣鷹山の日航機事故で運命を翻弄された地元新聞記者たちの濃密な一週間を中心に、様々な人間関係を横山秀夫さんが描かれています。
著者の横山さんご自身が上毛新聞記者時代に日航機墜落事故を取材した際の実体験をまとめ上げられたとか。
そういう点では小説というよりドキュメンタリーですね!事故の話などは、迫真の表現で、涙が止まらなくなるところもあります。
最近はJR西日本の宝塚線の事故とも関連して山崎豊子さんの『沈まぬ太陽』が再度注目されていました。『沈まぬ太陽』は日本航空社内の体質を描かれていますが、この本はその事故(一種の事件ですね)を報道する地元新聞社の内部を描いたものです。一面だと思いますが、マスコミの見方や報道の仕方などが良く分かった気がしました。
部下の新人が自殺に近い形で事故死した過去を持ち、そして家族との溝を感じている主人公・悠木が、
①同じ会社の安西といっしょに「魔の山」と呼ばれる谷川岳の衝立岩に挑む
②その衝立岩に挑む予定の日、御巣鷹山に日航機が墜落し、事故の全権デスクという大役を命じられた
という二つの「魔の山」の狭間で、様々な人たちとぶつかり合います。
「過去の栄光にすがる上司世代と新たな栄光をつかみたい部下世代の対立」「親子のすれ違い」「社内の派閥抗争」「スクープ記事へのチャレンジ」「本物の『新聞』へのこだわり」など、とても内容の濃い本ですね。
気になった部分を少し引用します。
下りるために登るんさ―――。
安西の言葉は今も耳にある。だが、下りずに過ごす人生だって捨てたものではないと思う。生まれてから死ぬまで懸命に走り続ける。転んでも、傷ついても、たとえ敗北を喫しようとも、また立ち上がり走り続ける。人の幸せとは案外そんな道々出会うものではないだろうか。クライマーズ・ハイ。一心に上を見上げ、脇目も振らずにただひたすら登り続ける。そんな一生を送れたらいいと思うようになった。
昨日も書きましたが、人生の話、一生をどのように送るかは重たい話です。
「なぜ山に登るのか?」
「下りるために登る。」
今のボクには、残念ながらまだ理解できていません。。。
自分がどんな一生を送りたいのかも恥ずかしながら分かりません。。。
メディアの本質を見抜いていた。
命の重さ。
どの命も等価だと口先で言いつつ、メディアが人を選別し、等級化し、命の重い軽いを決めつけ、その価値観を世の中へ押しつけてきた。
偉い人の死。そうでない人の死。
可哀相な死に方。そうでない死に方。
メディア・・・多くの一般市民が知りたいであろう物事を代表して報道する以上は、物事には重みがつけられます。
それがメディアの本質であり、限界でもある・・・
今回のJR西日本の事故でも同じです。
同じ日にその事故以外にも亡くなられた人はもちろん大勢います。
命の重さ。。。
そして、どんな大きな事件も時間とともにニュースは少なくなっていきます。
でも、いろいろな意味で事件は終わらない。
投稿欄の常連が綴る遺族への同情。想像しただけで悠木は憂鬱な気分になった。常連が悪いと言っているのではない。彼らこそが新聞の最たる理解者であり、頼もしい支援者でもある。しかし、その一部に質の悪い輩が混じっていることもまた確かなのだ。
彼らは何かに憤ったり感じ入ったからペンを執るのではない。常にペンを握り締め。鵜の目鷹の目で「書く材料」を探している。借り物の意見と文章を駆使して、すべての事象を「愛」と「正義」で括ってみせる。日航機事故は格好の材料に違いない。五百二十人の死。その何倍もの数の遺族の悲しみ。彼らはここぞとばかり存分に善意のペンを揮ったのだろう。
いや・・・・・・(中略)「いい人」になりたがっているのは、悠木とて同じかもしれなかった。
ボクはこれを読んでしばらくブログをどう書いたら良いのか?分からなくなくなりました。
ちょうど忙しい時期とも重なり・・・
今でも試行錯誤(ボクの場合は“思考錯誤”ですね!)ですが・・・
ボクも「いい人」になりたがっていますかね・・・
少なくとも“鵜の目鷹の目で「書く材料」を探している”のはボクにとっては事実ですね・・・
・・・
とても重い本でした。
今年で20年になるんですね。
みなさん、ハローです。ホディです。
今日は、ちょうど読み終わりました『クライマーズ・ハイ』について少し書きたいと思います。
いろいろな意味で、この本も重いです。
本の内容は、冒頭で少し触れました御巣鷹山の日航機事故で運命を翻弄された地元新聞記者たちの濃密な一週間を中心に、様々な人間関係を横山秀夫さんが描かれています。
著者の横山さんご自身が上毛新聞記者時代に日航機墜落事故を取材した際の実体験をまとめ上げられたとか。
そういう点では小説というよりドキュメンタリーですね!事故の話などは、迫真の表現で、涙が止まらなくなるところもあります。
最近はJR西日本の宝塚線の事故とも関連して山崎豊子さんの『沈まぬ太陽』が再度注目されていました。『沈まぬ太陽』は日本航空社内の体質を描かれていますが、この本はその事故(一種の事件ですね)を報道する地元新聞社の内部を描いたものです。一面だと思いますが、マスコミの見方や報道の仕方などが良く分かった気がしました。
部下の新人が自殺に近い形で事故死した過去を持ち、そして家族との溝を感じている主人公・悠木が、
①同じ会社の安西といっしょに「魔の山」と呼ばれる谷川岳の衝立岩に挑む
②その衝立岩に挑む予定の日、御巣鷹山に日航機が墜落し、事故の全権デスクという大役を命じられた
という二つの「魔の山」の狭間で、様々な人たちとぶつかり合います。
「過去の栄光にすがる上司世代と新たな栄光をつかみたい部下世代の対立」「親子のすれ違い」「社内の派閥抗争」「スクープ記事へのチャレンジ」「本物の『新聞』へのこだわり」など、とても内容の濃い本ですね。
気になった部分を少し引用します。
下りるために登るんさ―――。
安西の言葉は今も耳にある。だが、下りずに過ごす人生だって捨てたものではないと思う。生まれてから死ぬまで懸命に走り続ける。転んでも、傷ついても、たとえ敗北を喫しようとも、また立ち上がり走り続ける。人の幸せとは案外そんな道々出会うものではないだろうか。クライマーズ・ハイ。一心に上を見上げ、脇目も振らずにただひたすら登り続ける。そんな一生を送れたらいいと思うようになった。
昨日も書きましたが、人生の話、一生をどのように送るかは重たい話です。
「なぜ山に登るのか?」
「下りるために登る。」
今のボクには、残念ながらまだ理解できていません。。。
自分がどんな一生を送りたいのかも恥ずかしながら分かりません。。。
メディアの本質を見抜いていた。
命の重さ。
どの命も等価だと口先で言いつつ、メディアが人を選別し、等級化し、命の重い軽いを決めつけ、その価値観を世の中へ押しつけてきた。
偉い人の死。そうでない人の死。
可哀相な死に方。そうでない死に方。
メディア・・・多くの一般市民が知りたいであろう物事を代表して報道する以上は、物事には重みがつけられます。
それがメディアの本質であり、限界でもある・・・
今回のJR西日本の事故でも同じです。
同じ日にその事故以外にも亡くなられた人はもちろん大勢います。
命の重さ。。。
そして、どんな大きな事件も時間とともにニュースは少なくなっていきます。
でも、いろいろな意味で事件は終わらない。
投稿欄の常連が綴る遺族への同情。想像しただけで悠木は憂鬱な気分になった。常連が悪いと言っているのではない。彼らこそが新聞の最たる理解者であり、頼もしい支援者でもある。しかし、その一部に質の悪い輩が混じっていることもまた確かなのだ。
彼らは何かに憤ったり感じ入ったからペンを執るのではない。常にペンを握り締め。鵜の目鷹の目で「書く材料」を探している。借り物の意見と文章を駆使して、すべての事象を「愛」と「正義」で括ってみせる。日航機事故は格好の材料に違いない。五百二十人の死。その何倍もの数の遺族の悲しみ。彼らはここぞとばかり存分に善意のペンを揮ったのだろう。
いや・・・・・・(中略)「いい人」になりたがっているのは、悠木とて同じかもしれなかった。
ボクはこれを読んでしばらくブログをどう書いたら良いのか?分からなくなくなりました。
ちょうど忙しい時期とも重なり・・・
今でも試行錯誤(ボクの場合は“思考錯誤”ですね!)ですが・・・
ボクも「いい人」になりたがっていますかね・・・
少なくとも“鵜の目鷹の目で「書く材料」を探している”のはボクにとっては事実ですね・・・
・・・
とても重い本でした。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます