テレビで『二十四の瞳』がやっています。
終戦60年特別ドラマだそうです。“おなご先生”を黒木瞳さんが演じています。
少し前ですが、高峰秀子さんが“おなご先生”を演じる最初の『二十四の瞳』をビデオで観ました。もちろん白黒の映像で古いものですが、逆に新しい感覚で物語に吸い込まれました。
比べるのが愚であるのは承知のうえですが、あえて書かせていただきますと「時代劇」になったな~と思いました。小豆島の風景も、“おなご先生”の表情も、子どもたちの姿も、白黒とカラーの違いももちろんあるでしょうが現代で昔を描く違和感を感じます。良いとか、悪いとか、そういう話ではありませんけれど。
みなさん、ハローです。ホディです。
いよいよ戦後60年ということで、いろいろな特集が出てきていますネ。
昨日(8/1)の日経新聞でも戦後60年の特集があり、その中で作家の堺屋太一さんが戦後を振り返って記事を書かれていました。
戦後を一言で言うと、「豊かさを得て、誇りを失った」六十年だった。日本人がモノの豊かさを幸せだと信じるようになったのは案外新しいことで、戦争中は「米国には高いビルがあり、皆、自動車に乗って、分厚い牛肉を食べている」と聞いても米国が良い国だとは思わなかった。
このように始まる記事ですが、前半を強引に要約すると以下のとおりです。
戦争とモノ不足を知らない最初の日本人、団塊の世代。数量の多さを至上の幸せとし、必死になってモノを増やそうとした。
戦後社会の三角形、「官僚主導」「日本式経営」「核家族・職縁社会」の中で、カネとモノだけが頼りとなった。
そして戦後60年の結末として、日本人は豊かさを得て、誇りを失った。
ふたつの『二十四の瞳』。あるいは「戦前の日本人」と「戦後の日本人」。
比べるのは愚であると思いつつも、やはり「どうあるべきか」「どっちが好きか」など考えてしまうことを避けることはもっと愚かもしれませんね。
もちろんボクは戦後60年のうちの一部の期間しか生きていないわけですし、しっかりとした記憶があるのもせいぜい20年くらいのものですし、比較するだけの経験も知識もないのですが。。。
果たして、豊かさを得たのか?
欲は限りない。隣の芝は青く見える。
満足するだけの“豊かさ”を得ている人は少ないんでしょうネ。
ただ、明らかに物質的には豊かになっていることは間違いないでしょう。
「欲しがりません。勝つまでは。」は、ボクらも、もちろん現代の子どもにも想像の世界のものです。
そして、誇りを失ったのか?
団塊の世代の方のことは分かりません。
でも想像するに、その世代のみなさんには高度成長を担った成功体験がある。少なからず誇りもあるでしょう。
第二次ベビーブーム、バブル前後に社会に出たボクらはどうでしょう?
学歴は否定され、会社は団塊の世代以上の人たちが支配し、日本経済は入社以来のデフレ。
そして、インターネットを駆使する次世代の台頭。
被害妄想的ではありますが、実はボクらに一番皺寄せがきている気がします。
自信も誇りも失っている?のはボクだけでしょうか?
また後半は次のように締めくくられています。
日本が戦後、主観論を排し、高度成長を経て客観的な物量で成功を収めた1980年代以降、世界は主観的満足感を重視する傾向に変わり、知恵が価値を創造する「知価社会」に入った。日本でも若い世代は数量より主観を重視している。
知価社会に移行するには、戦後社会の三角形を全崩壊させなければいけないが、現状はかえって強まっている。これを断ち切るカギを握っているのも団塊の世代である。一番重要なことは、団塊の世代が子どもに金をやらないこと。自分自身のためにお金を使おう。
インターネットなどを通じて価値観が共通する人たちと好みの縁で結ばれる「好縁社会」。団塊の世代にこうした二十一世紀の新しい生活、社会像を示してもらいたい。
堺屋さんのおっしゃるように、日本全体としては「豊かさを得て、誇りを失った」現代。
豊かさを捨てて、誇りを取り戻せば良いというものではないと思います。日本はどこに向かえば良いのか?
もちろん一言で表せるわけもなく、人それぞれ、人生いろいろです。
難しい問題ですね!
今日もまた中途半端に時間切れですので、もう少しだけ。
団塊の世代のみなさんに、会社とか、自分の子どもとか、狭い視野で貢献するのではなく、広く日本あるいは世界に向けて貢献するようにがんばって欲しいと願いつつ、ボクら(ボクだけ?)は誇りを取り戻せるのか?と心配になります。
時代の狭間の中で得がたい経験をしているボクらは、「好縁社会」の中で存在感を発揮するしかないですね!
と自分を励ます今日この頃です。
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