『亡国のイージス』を読んだ。
初めて福井晴敏さんの本を読みました。
きっかけは映画の『亡国のイージス』を観て・・・2時間という限られた時間の映画では表現できなかったであろう深さを期待して。
守るべき国の形を見失った「楯(イージス)」が暴走する。
登場人物の様々な人間模様。「これが戦争だ。」という無情の展開。
なかなか考えさせられる小説でした。
みなさん、ハローです。ホディです。
本の感想とは違いますが、せっかくなので、憲法改正議論、軍隊について考えたことを今日は書いてみます。
「国」と「軍隊」と「戦争」、本を読みながらいろいろ考えが錯綜してきましたので、自分なりに整理しながら・・・
まず国を守るといいますが、「国」とは何なんでしょう?
ボクは最近の会社とは何か?という議論と同じ種類の匂いがします。
国の防衛策・・・
敵対的攻撃とは何だ?誰に何に対して敵対的なのか?
そして敵対的攻撃への防止策(軍事的防衛)は誰の判断で行われるのか?
第三者の国外有識者の判断を求めるべきなのか?
例えば今の北朝鮮を思い浮かべてもらって、核開発を進める軍部を戒めるために国連軍が攻め込むとします。この場合は北朝鮮という国にとって国連軍は敵対的攻撃なんでしょうか?
とても難しいと思います。
自衛隊が軍隊か?という議論は今日は棚上げしますが、軍隊を保有すべきかどうか?
いろいろな意見を耳にしますが、軍隊は必要という声の方が大きいですかね。
そもそも軍隊を持たない国は国ではないとか、自分の国を守れないのは有り得ないとか。
そして、国連軍が組織されたら、日本も参加する義務があるとか・・・
ボクも当然の意見のように感じます。
ただ、軍隊を持つとすれば、兵はどうするのか?誰が兵になるのか?
自衛隊が本当に軍隊(自衛軍?)になって、国連が指揮するとはいえ、海外の戦場で自らの命の危険を顧みず敵の兵士を殺戮することが現実となっても、兵士の募集に応募する人はいるんでしょうか?もちろん高給で雇えば雇えるのかもしれませんが・・・
国連軍と同じロジックで考えれば、やはりすべての国民が徴兵されるべきではないでしょうか?
国連軍の議論の際によくある意見、「お金だけ出して、自分だけが危険から逃げるなんて許されない。」という声が自分達にも降りかかります。
なりたい人だけが兵士となって、なりたくない人は税金を出しているのだから良いのか?・・・
行き着く先は徴兵制?・・・
ボクは憲法改正で軍隊を持つということは徴兵制、兵隊となる義務をも包含すると考えます。
兵隊なんて自分はなりたくない、なりたい人がなればよいでは、それこそ誰の国なんだという話になります。
この平和な日本で誰がそこまでの覚悟があるのか?
国を守る、守るのは誰?
多くの人は「自分は死にたくないけど守って欲しい」のではないか?
様々な矛盾を抱えているが、現実となると矛盾からは逃れられない・・・
ボクも「感情論の戦争反対なんてふざけるな」、「軍隊非保持は許されない」とつい最近まで疑わなかった。戦争のない社会は理想論で議論に値しないと決めつけてきた。
ただ、憲法改正が現実になりつつある現在、そろそろ日本人は「軍隊は必要か?」について真剣に議論すべきときかも知れない。性善説、性悪説の正解がないように、この問題にも正解はない。
じゃあ、ボクはどちらを選ぶのか?
今のボクは迷わず軍隊非保持を支持する。
臆病者と罵られるでしょうか?
無責任だと後ろ指刺されるでしょうか?
ボクの子どもは戦場で死なせたくないし、ボク自身も戦場に行くことすら正直恐い。
軍隊の必要性を考えていると、この問題はある意味、アメリカの銃社会と同じ矛盾を抱えていると思う。
銃がなくても生きていける。(もちろん銃がないと助からない場面もあるかもしれないが・・・)
銃がないと何が困るのか?
でも万が一のために銃は捨てられない・・・みんなが捨てないと捨てられない・・・
銃がないと生きられないと思う人もまた臆病で無責任だとボクは思います。
臆病なボクが更に思うのは、「軍隊があれば国が守れるのか?」という疑問。
燃料も、兵器も、食料すら自給自足できない島国の住民はどうやって国を守るのか?
所詮、ボクは自分だけで自分を守ることすらできない小市民です。
国や自治体や会社や警察や家族や友人・・・みんながいるから今の自分が成り立っている現実。
結局は国も同じだと思うんです。所詮、日本だけでは国は成り立たない。
世界の国々が支えてくれているから日本という国が成り立っている現実。
周りを信頼しないと自分も国も成り立たない。どうせ信じるならば、武器を捨てて信じることが一番良いと思います。片手にナイフじゃ危なっかしいじゃないですか?
小泉首相のように「殺されてもよい」とまでは割り切れませんが、武器を持たない責任の果たし方もあるのかな?と自分勝手に考えています。
もちろん、軍隊は不要だというのは理想論だと思います。
一方、軍隊が必要というのも理想論だと思います。軍隊を持てば攻められない、あるいは軍隊があれば敵から防衛できるというのも理想でしょう。
不要の理想論と必要の理想論、正解のない意見の対立です。でも理屈はどうあれ、「持つ」か「持たない」かのどっちかしかないのも事実。
どちらにしても、将来の日本のあり方を考えるのはボクらです。考えることから逃げてはいけない。それこそ臆病で無責任でしょう?
みなさんはどのように考えてますか?
国は過去の戦争で犯した過ちについて、韓国や中国に対して謝るべきだ、という人に対して、「日本人としての誇りはないのか」と言う人がいます。
私は「国」という組織と「日本人であること」は分けて考えればいいんじゃないかと思います。
私が考える「日本人としての誇り」は、民族としての誇りで、その伝統や文化は大切にしたいと思います。
「国」という組織が犯した過ちについて、謝ったとしても、それは決して「日本人としての誇り」をないがしろにするものではないと思います。
このことを家人に言うと、「よく分からん」と言われました。
それで、私は「国」を「会社」に例えてみて、「会社という組織が悪いことをして謝ったとしても、その社員さんは恥じることは無いし、むしろ謝らない方が、社員としては恥ずかしくないかな」と言いました。
そしたら、「国と会社とは別なんじゃないか」と言われて、そこで話は終わってしまいました。
話は変わって、「軍隊」ということを考える時、私は「軍隊」を作ることで得をするのは誰か、ということにも目を向けたいと思います。武器を作っているのは誰か、それでお金を儲けているのは誰なのか。
武器を作る人がいなければ、「軍隊」というものは存在しない。
武器を作る人がいなければ「戦争」もありえない。
それこそ理想論なのかもしれませんが。
コメントを書きながら、自分は何も知らないのだなあということを実感しました。考えようとすると、自分がいかに物事を知らないかということを思い知らされます。
ちょっと反論っぽいですけどね(笑)
コメントありがとうございます。
ボクも「自分がいかに物事を知らないか」をいつも思い知らされています。。。
「国」の話からボクの思いを返事させていただきますね。
日本人が誇りを持つように、韓国人も中国人も誇りを持っていると思います。“誇り”と“誇り”がぶつかり合うと問題はややこしいんですよね~
ただ、先人の過ちとは言え、謝るべき事を素直に謝ることが出きれば、それで我々は次の誇りが得られるんだとボクは思います。
そして、「軍隊」の話。
おっしゃる通りだと思います。人類に“怒り”や“けんか”をなくすことは無理だと思いますが、「軍隊」と「戦争」をなくすことは可能だと思います。少なくとも数百年までは当たり前だった日本国内での戦争はなくなったわけですし。
理想だけでは生きていけませんが、理想を追わない社会にはなって欲しくないですよね?
期待に応えていただき、嬉しいです。
感想はそちらに書かせていただきました。
ボクのブログのように長々と書いてしまいました。スイマセン。