その日、ボロアパートの一室に帰って来ると、玄関のドアを開けてすぐに、花が一輪投げ捨ててあるのを見つけた。俺は一人暮らしで、花などには興味がない。従ってこれがなんという花なのかもわからない。花を持って訪ねて来るような親しい相手も居ない。というか、俺を訪ねて来る人間などひとりも居ないと言った方が話は早い。凄く派手な花びらを持った花で、花束にするよりは一輪挿しで飾る方が映えそうな花だ。さて、と、俺は少しの間花を見下ろしながら考えた。これをどうしたものだろう?このままここで枯れさせるのもどうにも気分が悪い。枯れるまでの間、ほんの少し世話をしてみてもいいかもしれない。だが、俺の部屋には花瓶がない…ちょっと前そんな歌が流行ったなと思いながら、玄関のすぐそばにある台所スペースで花瓶の代わりになるようなものを探し、昨日飲み干したミニボトルタイプ―捻って明けるキャップがついているやつ―のコーヒー缶を見つけ、出来るだけきれいに洗って、玄関の花を拾い上げて、挿した。滅多に使わないコンロの正面にある窓の前に飾ると、なかなか悪くなかった。俺は安物アーティストのような態度でそいつをしばらく眺め、満足してシャワーを浴びた。汚れ仕事をしているため、どんなに疲れていてもまずはそうしなければ座る気にもなれない。濡れた身体を拭きながら台所に出る。特別脱衣スペースというようなものは無い部屋なので、必ずそこに出て来なければいけないのだ。身体を拭きながら無意識に花を眺めていると、こういうのもなかなかいいものだな、と思った。特別面白みのないサイクルの中に、こうした異物が混入してくるというのは意外に悪くない…そう、これがちゃんとした贈り物であるなら、ね。まったく本当に、なにがどうなって俺ん家の玄関なんかに花が置かれるのだろう?そこで切り取ったみたいに、あるいはドアの隙間から投げ込んだみたいに―鍵が掛かっているから実質それは無理だけど―無造作に置かれていた、花。よくよく考えると気持ちの悪い話ではあったが、それについて考えてみるよりも大事なことがあった。夕食を取ることだ。コンビニ飯のコンビネーション。一人で食うだけならそれが一番手っ取り早い。近頃のコンビニ弁当は馬鹿に出来ない。どれを食べてもそこそこ満足出来る。そこそこ満足出来る、そんなラインは意外と重要なものなのかもしれない。ゴールデンタイムのチャンネルを適当に決めて、勝手に話してるやつみたいに扱いながら食事を終えると、明日の為に早く眠らなければならなかった。歯を磨いているときに、無意識に花を見ていることに気付いた。そして、こういうのってちょっと凄いよな、と思った。知らない間に見ている。ここに住み始めてもう三年になるが、そんなのは初めてのことだった。そしてそんな事実は、自分が如何につまらない人間であるかという証明のように思えて、首を振りながら寝床に潜り込んだ。
朝、目覚めて顔を洗いに台所へ行く。洗面台なんていう洒落た設備はついていないのだ。顔を拭きながら花の方を見ると、少し元気がなくなっているように思えた。特に自分に出来ることもないような気がしたので、水だけ取り替えて仕事に出かけた。
帰宅してみると花は枯れ落ちていた。あーあ、やっぱり無理だったか、とかなんとかひとりごちながら花を捨て、空缶を専用の小さなダンボール箱へ投げ込んだ。そうしてしまうと俺の部屋はもとの漠然とした景色に戻った。少し寂しいようなそんな気もしたが、数日経てば忘れてしまうだろう、そう思いながらシャワー、食事とお決まりの工程を繰り返した。時折だけど、そんな毎日を過ごしていると、自分がそのためだけの機械のようなものなのではないかという気がする瞬間がある。だからなんだというんだ、俺はいつでもそんなヴィジョンにそんな言葉を返す。そんな瞬間は軽くあしらっておかないとこじらせると面倒なことになる。明日は休みだった。どこかへ出かけようか…。
数少ない馴染みの小さな店で数杯ウィスキーを飲み、ふらふらと帰り始めるころには真夜中近くだった。ビルとビルの間、路地の中に無数の酒と女の店が立ち並ぶ、下町によくある昔ながらの通りだった。そこを歩いていた。いくつかの店はもう暖簾を閉まっていて、入口をぼんやりと小さな灯りだけがともしていた。その通りを抜け、大通りへ出た途端、俺の背後で地鳴りのようなもの凄い音と振動が起こった。思わず数歩前へつんのめり、振り返ると高校生と思しきブレザーを着た少女が頭をぺしゃんこにした状態でうつ伏せに倒れていた。俺は上を見上げた。数年前に空になったオフィスビルがそこにはあった。飛び降りか―周りには誰も居なかった。もの凄い音がしたのに様子を見に出て来る人間も一人も居なかった。そもそも居住地区ではないし、開いている店でも中で騒がしくしていたら気が付かないかもしれない。俺はたまたますぐ近くに居て、その衝撃をダイレクトに感じた、それだけのことなのだろう。あるいはもう、この街は飛び降り自殺なんてそんなに珍しい見世物でもないのかもしれない。俺はため息をついて救急車を呼んだ。十五分ほどで車はやって来た。少し遅れてパトカーもやって来た。一通り事情を説明するとすぐに解放してもらえた。救急車が少女を乗せたかどうかについてはよくわからなかった。酷い気分だった。酔いはすっかり醒めていた。飲み物などなにも欲しくなかったが、気分を変えたかった。自動販売機で温かいミルクティーを買って、ゆっくり飲んだ。それでいくらかマシになった。もう歩きたくなかったので、タクシーを拾って家まで走ってもらった。運転手が喜ぶ距離かどうかは微妙だったので、釣りは要らない、と言って降りた。運転手は奇妙に思えるほど喜んでくれた。アパートの階段を上り、ドアを開けた。足元にはこの前と同じ花が落ちていた。
酔っていたせいかもしれない。あまり深くは考えなかった。またかよ、と、思っただけだった。数時間前に捨てた空缶を拾い直して、もう一度前と同じように挿した。種類だけでなく、大きさや色味、重さに至るまでさっきまでここに挿してあったものと同じ花に見えた。この時もしも酔っていなかったなら俺は花をどうしていただろう、いまはそんなことをよく考える。もっとも、考えたところでどうにもならないのだろうけど。手を洗い、歯を磨き、うがいをして室内着に着替え、寝床に入るとあっという間に眠っていた。
翌日、午前遅くに目が覚め、顔を洗う時に花を見つけ、昨夜のことを思い出した。一度ならなにかの間違いだったかもしれない。でも二度目になるとそうはいかない。誰かがなにかしらの意図を持って、ここに花を置いていると考えるのが妥当だった。警察に相談する?いや、特に実害があったわけでもない。花にしたって、誰かが進入したという決定的な証拠にはならないかもしれない。他にどんな理由でこの部屋の玄関に花が出現するのか俺にはわからないけれど。とにかく警察は動いてくれそうもないだろう、と俺は結論づけた。近くに住んでる大家にでも相談してみるのが妥当な線だろう。朝食を取ってからそうすることに決めた。これで大家が青くなって尻もちでもつこうもんなら安っぽいホラー映画の始まりだな、そんな下らないことを考えながら簡単な朝食を済ませた。
「花。」と言って大家は訝しむような顔をした。
「あなたの家の鍵を誰かが持っていて、ドアを開けて、花を置いていくってこと?」
現実味のない話だとは思うけど、と俺は前置きして
「といって他に納得のいくような状況を思いつかないんですよ。」
だけど変ねえ、と大家は首をひねった。
「私の家、アパートの向かいでしょう?私の家の窓から玄関まる見えなんだけど、あなたの家のドアを開ける人なんてあなた以外見たことないわよ。」
ですよねえ、と俺も相槌を打った。そもそもがまるで理解出来ない話なのだ。そして、大家がそれとなくアパートに注意を払っていることもわかった。小さなお婆さんだけど、生真面目な人なのだ。アパート周辺をいつも掃除しているし、外廊下の電球なんかもほったらかしにはしない。アパートの問題は一度は彼女に相談してみればなんとかなるものだ。普通の問題なら。俺は、変な話してすいません、と、頭を下げた。一応こちらも気を付けてみるわ、と大家は笑った。
「だけど、誰かの仕業だとしてなにが目的なんでしょうね、それ?」
「まったく。」
今度の花は数日もった。数日の間生活を共にすると、花といえども少しは親密さも生まれる。枯れていくのは寂しくもあったが、ようやく奇妙な現象から解放されるかもしれないという思いもあった。どういうわけか俺は、その花が枯れたら終わりだと信じていたのだ。花を捨て、空缶を捨てると、やれやれという気持ちになって仕事に出かけた。その途中のことだ―割と大きな交差点で信号が青になるのを待っていた。俺と同じ通勤途中の人間が歩道のぎりぎりまで押し寄せていて、人混みが嫌いな俺は少し距離を開けて建物の側に居た。もう少しで信号が変わるというとき、焦って渡ろうとした乗用車がハンドル操作を誤って信号待ちの列に突っ込んだ。自分が見ている光景が現実なのかどうか信じられなかった。悲鳴、怒号、警察と救急車。蒼褪めた顔で立ち竦んでいる運転手らしき若いサラリーマン。俺は会社に連絡を入れて、事故の目撃者になってしまったので少し遅れる、と告げた。のっぺりとした声の事務員が、わかりました、と言って電話を切った。
「あれ、あなた…。」
近くで事故の目撃者に話を聞いていた警官が、俺のところに来てそう言った。あ、と俺も声を上げた。先週だったか、飛び降り自殺に出くわしたときにやって来た警官だったのだ。ついてないですね、と彼は言った。
「まったく。」気を付けてください、と警官は割と真面目な顔をして言った。
「こういうことって続きますから。」
そう言われても、と俺は肩をすくめた。警官は苦笑した。あとはこの前と同じだった。一通り見たことを話して、俺は解放された。警官の話によると、いまのところ死亡者は一人だけだ、ということだった。
仕事を終え、帰宅すると、また花が落ちていた。途端、背骨に響くようなショックを感じた。俺の頭の中にひどいイメージが浮かんだ。飛び降り自殺。今日の事故…。
この花が枯れると人が死ぬ。
俺の妄想かもしれない。ほんの一瞬、脳内に滑り込んだイメージに翻弄されているだけかもしれない。だけどもうその時点で俺は、この花は枯らしてはならないのだという思いにとり憑かれていた。花をそのままに、鉤もかけずにもう一度外へ飛び出し、一番近い花屋で花を枯らさないようにするにはどうすればいいか聞いた。俺の様子が余程異常だったのだろう、若い女の店員は引きつった顔をしながらも花を育てるための一式を用意してくれた。長く咲かせるコツなんかも教えてくれた。その頃には俺の混乱も少し落ち着いていた。店を出る時に突然飛び込んできたことを詫びた。
「頑張って、枯らさないでくださいね。」
沢山の買物を抱え、今度は俺が引きつった顔で礼を言った。
帰り道、曲がり角で自転車の少年が飛び出して来た。少年は俺の姿を見て慌ててハンドルを切り、車道へと飛び出した。軽トラックが急ブレーキを踏んだが間に合わず、少年は自転車ごと車の下敷きになった。自転車はそれがそうだとは信じられないほどに歪み、少年の身体はその部品であるかのように絡み合っていた。どう見たって助かりそうではなかった。軽トラックの運転手はがっちりとした身体をした初老の男で、車の下を覗き込んでああ、と重く低い声を上げ、携帯を出して電話をし始めた。野次馬が集まって来て車に群がり、どうやら車を持ち上げようという話になっているみたいだった。俺はもうそこに留まる気は無かった。慌てて家に帰ると、玄関でやはり花が枯れていた。そして、その隣に新しい花が置かれていた。
それから一週間が経った。一週間くらいが経ったのだと思う。俺はほとんど眠ることも出来ず、台所に張り付いて過ごした。花は時折枯れ、そして新しいものが置かれた。不思議なことに、俺はそれがいつ置かれたのか気付くことが出来なかった。ずっと玄関のすぐそばに居るというのにだ。ラジオをつければどこかで誰かが死んでいることを知ることが出来たかもしれない。でも、それをする気にはならなかった。ラジオのスイッチを入れている間に、花を枯らしてしまっては元も子もない。でもどんなに注意してもそれは枯れた。どうしてなんだ、あの花屋の娘は俺に嘘を教えたのか。俺はその娘を殺してやりたいくらい憎んだ。でもそれをするわけにはいかなかった。俺が部屋を出た瞬間に花が枯れてしまうかもしれない。俺は泣き、叫びながら花の世話を続けた。ドアのベルが鳴らされたような気がした。でも俺にはそれを開けることが出来なかった。二人の人間がドアの外からこちらへ呼びかけた。職場の社長と、大家らしかった。大丈夫です、と俺は必死で叫んだ。
「俺は大丈夫です、いまちょっと部屋を離れるわけにはいかないんです、出直していただけないですか。」
でも二人は帰ってくれなかった。大家が合鍵でドアを開けて、二人が飛び込んできた。俺の様子を見て、酷く驚いた顔をした。そういえば、このところ食事もしていないような気がする。邪魔をしないでくれ、と俺は怒鳴った。
「この花を枯らすわけにはいかないんだっ!」
花、と、二人は口々に言い、俺の部屋を見渡した。
「事情は説明出来ない。俺にもどういうことかわからないんだ。とにかくこの花を枯らしちゃいけないんだ、お願いですから帰ってください。俺の邪魔をしないでください。」
俺はそう懇願したが、二人はおろおろするばかりだった。やがて大家が小さな声で、しかしはっきりとこう言った。
「花なんて…花なんてどこにあるの?」
【了】