水戸藩の紅葉運河掘削事業と 農民の勝利に終わった宝永一揆 水戸藩 財政難の原因 水戸藩は、徳川氏の親藩で三家の一つで、家康の第11子頼房が1609年(慶長14)封ぜられて成立した。石高はじめ25万石、1622年(元和8)28万石、1701年(元禄14)35万石であった。支藩の陸奥守山2万石、常陸府中2万石、同宍戸2万石である。 家臣団は幕臣、佐竹・結城らの旧臣、諸国浪人から成り統一を欠き、 . . . 本文を読む
神郡の街並 江戸城の鬼門(東北方)を守る筑波山の中禅寺(現・筑波山神社)を改築するために、3代将軍・徳川家光により整備された北条~神郡~筑波をつなぐ運搬路は、後に参詣道として発展して「つくば道」と呼ばれ、現在「日本の道100選」の一つである。 神郡から筑波山を望む 北に筑波山を仰ぎ、東 . . . 本文を読む
一揆の様子 平凡社「世界大百科事典 2」初版 108頁
抑(そもそも)此事の起るを考ふるに、いづれも下の非はなくして、皆上の非なるより起れり。
「胡麻の油と百姓は、絞れば絞る程出る物也」 18世紀以降、農村の荒廃が進み、大名側は財政窮乏のあまり、年貢を徴収するためには「農民を責め虐げるより外」に方法がなくなった。 「胡麻の油と百姓 . . . 本文を読む