藤田小四郎ら祈願した鈴ノ宮稲荷神社天狗党、府中集結と筑波への出立 元治元年(1864)2月15日、京都では朝儀が開かれた。 この席には、親王・関白以下が参内、朝儀に参与する諾大名も陪列していた。席上孝明天皇から鎖港間題について下問があり、島津久光、伊達宗城は急に横浜を鎖すことは無理であると答えたので、鎖港論に変っていた 一橋慶喜らと激しく対立、朝儀は紛糾した。 しかし、19日に至って将 . . . 本文を読む
幕末、開国の気運 18世紀以来,アジアの新市場開拓をめざす欧米諸国の動きは、当然日本の鎖国制度に動揺をあたえた。1792年(寛政4)ロシアの使節ラクスマンは松前(北海道)に、ついで1804年(文化1)にはレザノフが長崎にきて通商を求めた。 またその4年後にはイギリス軍艦フェートン号が突如長崎港にはいって乱暴し、1818年(文政1)にはイギリス商船は通商を求めて浦賀にきた。これにたい . . . 本文を読む
頭山満述『英雄ヲ語ル』「藤田東湖」(5)
正氣の歌 天地正大の氣 粹然として神州に鐘(あつま)る、秀でては富士の嶽となり、 巍々(ぎぎ)として千秋に聳ゆ、注いでは大瀛(だいえい)の水となり、 洋々として八州を環る、發しては萬朶の櫻となり、 衆芳與に儔(たぐ)ひし難し。凝っては百錬の鐡となり、 鋭利鍪(か . . . 本文を読む
160年前、 天狗党は京を目指して進軍中だった 天狗党の筑波山挙兵 今年は水戸藩の尊王攘夷派による天狗党の乱が起こってから160年である。 筑波山は名山として知られ、挙兵を各地に印象づけるたには、恰好の場所である上、事前に出張所を置くことができたので計画は容易に進むと考えられたのであろう。 廃仏毀釈前の筑波山 藤田小四郎の像 (筑波山神社) . . . 本文を読む
頭山満述『英雄ヲ語ル』「藤田東湖」(4)
尊皇の文と詩歌 東湖の皇道主義の迸(ほとばし)る處、悉く言論となる。文章となり、詩歌となって、一百年後の今日獪猶嚴として、尊皇、愛國の経典となり、力強き、皇道絶對の叫びとして、今人を導いて居るのである。 東湖も幕府の追害に遇ひ、前後二回、幽囚の辛酸を嘗めて居る。江戸で二年半、水戸で七年、前後約十年近い . . . 本文を読む
頭山満述『英雄ヲ語ル』「藤田東湖」(3)
東湖の國體觀と皇道論 東湖は、所調「文武の全才を抱いて、尊攘の大義を明にし、誓って國に狥(な)れて家を忘れ」たのである。これが、東湖の生命であった。皇道を擴張する爲の攘夷である。皇道主義こそ東湖の主生命である。神を敬し、武を尚ぶの心が、東湖の政治となり、敎育となったのも當然である。東湖も自ら詩史に、「謹んで惟ふに、天租天孫 . . . 本文を読む
頭山満述『英雄ヲ語ル』「藤田東湖」(2)
日本學の實行
幽谷の勤皇愛國の血をそのまま受けついで生れたのが、東湖だ。 東湖は 稽古、徴今 闡明本朝神聖之道 右文左武を座右銘とし、尊皇精神の昻携と寳践に努めた。 水戸藩は尾州、紀州の二藩と共に、所謂、親藩御三家で、諸藩の上にすぐれた勢力を持っておつたが、殊に、水戸藩は、所調水戸黄門以來、歴代の藩侯が . . . 本文を読む
頭山満述『英雄ヲ語ル』「藤田東湖」
父子三代の勤皇 東湖の父幽谷は所謂水戸三田の戸田蓬軒、武田耕雲齋、藤田幽谷と竝び称せれた、勤皇學者の一人藤田幽谷だ。幽谷は實に水戸勤皇の碩學であるが、所謂神童で十二三歳の頃すでに立な學者で、押しも押されもせぬ大丈夫の風格があった。 彼の豪遇の高山彦九郎が初めて幽谷に會ったのが恰度その頃で、幽谷は高山に、 聞君高節一心雄 . . . 本文を読む
筑波山伝承「ガマの油売り口上」 戦後、筑波の町おこし 観光業振興の目玉として復活 筑波山ガマ口上の誕生 1737(元文2)年、常陸国筑波郡永井村(旧新治郡新治村大字永井の農家に平助という者が生まれる。平助9歳の頃、永井村の普門院の雑役に雇われる。 16歳の頃、出火あり平助は責任をとってやめ江戸へ出ることになった。何とか深川のとある問屋の雑役に就くことがで . . . 本文を読む