たぶん50回以上くらいは見聞きしたと思う。なんか腑に落ちてきた。結論から言うと、この「ハロウィン・ナイト」という楽曲は従来のシングル曲とは存在様式が相当違ってる。何か新しいものを模索してる。そのプローブとしての指原さんセンター曲というまずは見方。
この考え方に至った思考過程を追ってみる。まず気がついたのは、この曲はヴィジュアルがないとつまらないと言うこと。音だけで聞いても刺さる要素はほぼない。古くさいとは言わないけど、80年代のバブルなディスコ調で合ってるのかな、どこまでもどっかで聞いたことがあるような曲調に終始してる。懐かしいと捉える向きもあるだろうし、馴染みやすいかも知れないけど、少なくとも、私的にはまるでひっかからない。敢えて言い切ってしまえば、つまらない。
それがセンター指原さんの風格ある「美貌」と、ルシファー風?の豪華な黒衣装に載っかると、映える映える。選抜メンバー全員の過剰とも言える個性的なコスプレに、嵌まる嵌まる。ゆったりとしたダンスから目が離せなくなる。そこに何か違ったもの、存在しないはずの何かが立ち現れてる。
一本補助線を引こう。「恋するフォーチュンクッキー」と言う曲は、指原さんへの当て書きであり、「等身大というフィクション」サイドの指原さんをフィーチャーしたものだった。ならば、この「ハロウィン・ナイト」もまた、指原さんへの当て書きと解するのが妥当ではないか。これは「ヴァーチャルというフィクション」サイドの指原さんを表現したものなんじゃないか。
秋元氏の語るところの指原さんは「悪魔」なんであり、その実績は掛け値なしに恐るべきもの。そんな怪物指原というフィクション、天才指原というフィクション、そしてアイドル指原というフィクションを、作品として描いてみよう、表現として切り取って見せよう、それを指原さん自身に自己言及させよう。そういう創作意図ということなんじゃないか。
先に「美貌」と書いたけど、しつこく私は指ヲタではないとエクスキューズしとくけど、この指原さんは本当に美しいと感じさせられてしまう。見た目だけではない、内面の奥深さと充実ぶりを感じさせる。それが幻想であっても、というか間違いなく幻想なんだけど、そういう「美さっしー」を、結果的に表現できてることこそが、この曲のキモなんじゃないか。
もちろん他のメンバーもそれぞれが輝いてる。柏木さんの放つエロさも、敢えて言おう時宜を得たものと受け取れるし、宮脇さんは、その考え尽くされた衣装デザインとも相俟って、異様なまでにカワイイ。北原さんは、全身で選抜復帰を喜んでるのが伝わるかのよう。ちらっとしか映らなくても、松村さんの衣装はイカレてる。まだ全員の詳細が見えないのがもどかしいけど、そんな各自が背負うフィクションを始めとするハイコンテクストを、追求して行ける楽しみが控えてることになる。
つまりはここにはAKBにまつわる膨大な虚構がバブルってる。それも極限までバブルって表現され尽くしてる。だからこそのディスコサウンドなのかと言う風に、循環論法に閉じてるとも見なせても終える。もしくはフィッシャーのだまし絵とでも比喩してみようか。
このフラクタルに多層化した試みは、前のめりに攻め込み過ぎてるようにも感じられる。こんなハイコンテクストを、ファンは受け止められるんだろうか。けれどももちろん、そんなことは秋元氏の眼中にはなくて、あくまでもクリエーターとして指原さんを極限まで楽しみたいだけなんだろうというのは勝手に分かってるつもり。何にせよそこには、まったく新しい指原AKBが立ち現れてるように思えるし、それは指原さんなればこそのもの。
一つの作業仮説としてではあるけど、「恋するフォーチュンクッキー」と「ハロウィン・ナイト」は、指原さん故の特異な姉妹曲なんであり、実と虚、アルファとオメガなんだろうと思う。
この考え方に至った思考過程を追ってみる。まず気がついたのは、この曲はヴィジュアルがないとつまらないと言うこと。音だけで聞いても刺さる要素はほぼない。古くさいとは言わないけど、80年代のバブルなディスコ調で合ってるのかな、どこまでもどっかで聞いたことがあるような曲調に終始してる。懐かしいと捉える向きもあるだろうし、馴染みやすいかも知れないけど、少なくとも、私的にはまるでひっかからない。敢えて言い切ってしまえば、つまらない。
それがセンター指原さんの風格ある「美貌」と、ルシファー風?の豪華な黒衣装に載っかると、映える映える。選抜メンバー全員の過剰とも言える個性的なコスプレに、嵌まる嵌まる。ゆったりとしたダンスから目が離せなくなる。そこに何か違ったもの、存在しないはずの何かが立ち現れてる。
一本補助線を引こう。「恋するフォーチュンクッキー」と言う曲は、指原さんへの当て書きであり、「等身大というフィクション」サイドの指原さんをフィーチャーしたものだった。ならば、この「ハロウィン・ナイト」もまた、指原さんへの当て書きと解するのが妥当ではないか。これは「ヴァーチャルというフィクション」サイドの指原さんを表現したものなんじゃないか。
秋元氏の語るところの指原さんは「悪魔」なんであり、その実績は掛け値なしに恐るべきもの。そんな怪物指原というフィクション、天才指原というフィクション、そしてアイドル指原というフィクションを、作品として描いてみよう、表現として切り取って見せよう、それを指原さん自身に自己言及させよう。そういう創作意図ということなんじゃないか。
先に「美貌」と書いたけど、しつこく私は指ヲタではないとエクスキューズしとくけど、この指原さんは本当に美しいと感じさせられてしまう。見た目だけではない、内面の奥深さと充実ぶりを感じさせる。それが幻想であっても、というか間違いなく幻想なんだけど、そういう「美さっしー」を、結果的に表現できてることこそが、この曲のキモなんじゃないか。
もちろん他のメンバーもそれぞれが輝いてる。柏木さんの放つエロさも、敢えて言おう時宜を得たものと受け取れるし、宮脇さんは、その考え尽くされた衣装デザインとも相俟って、異様なまでにカワイイ。北原さんは、全身で選抜復帰を喜んでるのが伝わるかのよう。ちらっとしか映らなくても、松村さんの衣装はイカレてる。まだ全員の詳細が見えないのがもどかしいけど、そんな各自が背負うフィクションを始めとするハイコンテクストを、追求して行ける楽しみが控えてることになる。
つまりはここにはAKBにまつわる膨大な虚構がバブルってる。それも極限までバブルって表現され尽くしてる。だからこそのディスコサウンドなのかと言う風に、循環論法に閉じてるとも見なせても終える。もしくはフィッシャーのだまし絵とでも比喩してみようか。
このフラクタルに多層化した試みは、前のめりに攻め込み過ぎてるようにも感じられる。こんなハイコンテクストを、ファンは受け止められるんだろうか。けれどももちろん、そんなことは秋元氏の眼中にはなくて、あくまでもクリエーターとして指原さんを極限まで楽しみたいだけなんだろうというのは勝手に分かってるつもり。何にせよそこには、まったく新しい指原AKBが立ち現れてるように思えるし、それは指原さんなればこそのもの。
一つの作業仮説としてではあるけど、「恋するフォーチュンクッキー」と「ハロウィン・ナイト」は、指原さん故の特異な姉妹曲なんであり、実と虚、アルファとオメガなんだろうと思う。