城名 |
三行城 |
読み |
みゆきじょう |
別名 |
御幸城 |
住所 |
三重県津市河芸町三行 |
築城年 |
元亀年間(1570~1573) |
築城者 |
伊藤助重 |
形式 |
平山城 |
遺構 |
郭、消滅遺構(土壇、土塁、堀切、櫓台) |
消滅郭(Ⅰ(主郭)・Ⅲ・Ⅳ・Ⅴ) |
郭Ⅱ;現存 |
規模 |
現在)東西60m×南北90m |
当時)東西200m×南北120m |
城主 |
伊藤助重(注1) |
標高 31m 比高 10m |
書籍 |
三重の中世城館 伊藤家古文書 津の城跡50選 |
環境 |
田中川が南に蛇行したその中央部の丘頂に城は造られた。三行の狭い盆地状地形や田中川を見おろす。 |
城は三行集落の北裏山で丘陵頂部全体を階段状に加工、五つの郭群として築かれた。 |
25m四方の台地を中心にその西寄りに一段高い6m四方の櫓台を築き西・北・東の三方に帯郭が取り巻き、東側の尾根続きには堀切があった。 |
南側の一段低い帯郭には井戸もある。下方には更に郭が巡っている。南東下方には城主の菩提寺である長寿院(注2)跡がある。 |
土塁を伴わず階段状の削平地で構成されるこうした城郭は田中川流域の黒田城、秋葉城にも共通していてこの地域の城郭の一つの特徴である。 |
現地 |
明治の頃、堀切から古銭が見つかり五千文あったというが後に散逸したらしい。 |
注1 |
伊藤氏=工藤祐経も末裔の工藤親光の子・光種が改姓して伊藤氏を名乗る。光種の子・助重はこの三行に隠居しているのでこの時に築城されたと思われる。 |
その子内蔵助重坊は元亀2年、信長の伊勢攻めには信孝の幕下に属した。 |
翌元亀3年に老齢のため領地を上野の分部左京亮光嘉に譲り、名を茂右門尉茂坊と改め神職になった。 |
注2 |
上野城主の菩提寺円光寺の末寺でもある。 |
地図 |
三行城・黒田城・秋葉城のコラボスライド
城名 | 黒田城 |
読み | くろだじょう |
(別名) | 川瀬城、城屋敷 |
住所 | 津市河芸町北黒田 |
築城年 | 康正年間(1455~1457) |
築城者 | 川瀬宜光 |
形式 | 平山城 |
遺構 | 小学校建設により遺構は無いがその広さは300坪程あったと言われる。 |
城主 | 黒田左衛門 川瀬氏(宜光、宗光)後 岡性に変わる(岡隼人、、、) |
標高 | 13m |
比高 | 5m |
経緯① | 伊勢国奄芸郡黒田庄より起こる。平家物語に「黒田の後平四郎、日野の十郎、乙部の弥七とて、これらは皆 伊勢国の住人なり」と。北黒田村の川瀬城は、黒田左衛門の居城なりしと云う。 |
経緯② | 康生年間に川瀬宣光が地頭となって築城した。 |
織田信長伊勢侵攻の時、信雄に敗れ次男宗光が再興をはかったが成しえなかった。性を岡と改めて黒田村で農業に従事した。 | |
現地 | 今は記念碑の柱が建つだけであるがそこからは南の眼下に街道が見える位置関係だけがその存在を立証しているようだ。 |
西に丘があるが17m高さである。見張り台であろうか。 | |
引用 | 土塁を伴わず階段状の削平地で構成されるこうした城郭は田中川流域の三行城、秋葉城にも共通していてこの地域の城郭の一つの特徴である。 |
考察 | 平家物語は物語なので事実ではないかも知れない。それを踏まえて思い計ってみる。経緯が複数あるが時代が異なるのでシリーズで考えてよいのではないだろうか。歴史の深い黒田村である。 |
地図 | https://www.google.co.jp/maps/@34.7886509,136.5202021,427m/data=!3m1!1e3!4m2!6m1!1s1sE7i85-3qeA10HRT1ZDejbj3Ddw |
城名 | 秋葉城 |
読み | あきばじょう |
住所 | 三重県津市河芸町南黒田 |
築城年 | 天正年間(1573~1591) |
築城者 | 高橋氏か |
形式 | 山城 |
遺構 | 郭、堀切、土塁 |
城主 | 黒田 左衛門 |
標高 | 22m |
比高 | 13m |
書籍 | 勢陽五鈴遺響に「伊勢平氏党黒田左衛門居セリ」とある。黒田城と同じく、古くは黒田氏が支配していたと思われる。 |
引用 | 土塁を伴わず階段状の削平地で構成されるこうした城郭は 田中川流域の黒田城、三行城にも共通していてこの地域の城郭の一つの特徴である。 |
織田信長伊勢侵攻のとき、蒲生氏郷がこの辺を焼き払ったという。この地方には、親が子に「ガモウ、ガモウ、ガモウガクルゾ」といさめる時に使ったという。この地に残ったのは女、子供だけだったという。当時の恐ろしい様子が代々伝えられてきた。 | |
現地 | 一見、段々畑に見えるが土塁があり、堀切があり、竹藪の中は郭の切岸と思われる部分がり城として見ると疑いない。 |
考察 | 黒田城と共に信長の伊勢侵攻時に滅せられたようだ。 |
地図 |
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