三重を中心に徹底訪城 検索「山城遺産」「セルフコラボレーション」 ペン画で歴史を伝承 時々徒然に

中世の城を主に訪城しています。三重県が多いです。百名城は96/100。総数で600城。新発見が4城です。

小牧薩摩守館

2019-06-17 14:37:35 | 松阪の城

 

☝ 虎口

☝ 説明看板

☝ 曲輪

犬走り

☝ 石垣

☝ 石垣で補強された土塁(櫓台)

☝ 構造物跡

 

 

☝ 上小川城想像図(縦寸法は2倍に増幅した)

城名
 小牧薩摩守館
読み
 こまきさつまのかみやかた
住所
 松阪市嬉野上小川町
築城年
 15世紀(1400~1499) 注1
築城者 城主
 小牧薩摩守(小川城城主)(役職;白口峠の番頭・矢下の家老)
廃城年
 天正4年(1576)白口峠が突破された、霧山城の戦い(12月4日)ごろと推定。 注2
形式
 居館
遺構
 曲輪、櫓台、石垣、溝
規模
 100m四方
家臣
 北畠家臣であった。家中には立木重兵衛等がいた。
一族
 一族の小牧頼長は霧山城の戦い(天正4年12月4日)で討死している。(北畠物語)
標高 417m 比高 30m
歴史
 明治4年(1871)度会県に属するとき、下流の小川村と区別するため、それまでの村名、小川村を改称して上小川村となった。
経緯
 小牧薩摩守は中村川中流に邸宅(小川城)を築き白口峠から中流までを監督していたようである。
書籍等
 ぐる~っとうれ史めぐり 現地看板 三重の中世城館
 http://kitaise.my.coocan.jp/syui_ure0701.htm
環境
 白口峠からの距離は直線で1Kmの所にある。
現地
 東半分は植林、西半分は萱に覆われている。南側には石積の道があり、一角に大きい土塁がある。
 土塁は石積で巻かれ頑強さを増したものと考えられる。上の大きな石はさらに高さを得るために利用されたものと考えられる。
感想
 館のある位置は遠望は利きにくく、高さのないことがハンディであって、それをカバーするのに工夫をされた館跡であると思われる。
嬉野教育委員会(当時)現地案内板の記述
 戦国時代伊勢国司北畠氏の栄えた頃に白口峠に関所がありました。この関守として小牧薩摩守等が当たっておりました。
 現在は水田となっているこの高台一帯がその宅跡であると言われています。なお方五米高さ四米程の四角な台地に巨大な四角形の石が二、三据えられてありますが恐らく物見櫓のあった基礎土塁であったと推測できます。
 又この場所に「駒が井」があり天正四年十一月二十五日薩摩守夢に白馬がこの井戸から出て、多気に向かって走り去ったと言われており寄しくも北畠具教が織田信長の謀略によって三瀬館(多気郡大台町)で殺害され伊勢国司北畠が滅亡した日であった。注3 注4 注5
注1
 小川城発掘調査報告から「小川城跡から15世紀から16世紀代の土師器鍋などが出土する。」を参照した。
注2
 100年前後ほど続いたと考えられる。(短くて77-長くて176年)
注3
 天正四年(1576)三瀬で北畠具教抹殺(49歳)、田丸で北畠家13人謀殺され、北畠氏滅亡する。
注4
 天正4年(1576)具教が三瀬御所で殺害されると信雄軍は白口峠、桜峠を突破し多気の城下に押し寄せ火を放ち、城にも登り霧山城は攻め落とされた。(12月4日)
注5
 この時、小牧薩摩守は生き延びた、と考えるか。
寺(万福寺)
 分岐に浄土宗鎮西派万福寺がある。本尊は阿弥陀如来の坐像。
    慶安元年(1648)湖誉和尚が私財を投じて創建したと伝え、上小川小牧谷より白口峠道と中村への本道との分岐点、小牧薩摩守の旧館跡に続く高台を背にした高石垣の上に建つ。
神社(宇氣比神社)
 明治3年(1870)宇気比神社と改称された
 永享12年(1440)の棟札が発見され、『嬉野町史』には「『和名抄』にある小川郷はこの地であり、式内社小川神社は当社でなかろうか」とある。また、「なお、当社の社殿の建築様式は、堀坂山より南の神社のほとんどが「神明造」であるのに対して「流れ造」で、大和の影響を受けていることが注目される。」と、社頭の案内板にあった。
地図

 

 



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