上山城
城名 |
上山城 |
読み |
うえやまじょう |
住所 |
松阪市御麻生薗町(みおぞのちょう)本郷上山 |
築城者 |
内藤忠重(鳥羽城主) |
築城年-廃城年 |
寛永11(1634)-延宝8(1680) |
城主 |
内藤忠重-忠吉(弟)-忠勝 |
形式 |
平山城 |
遺構 |
曲輪、土塁、井戸 |
規模 |
東西70m×南北100m |
標高 80m 比高 40m |
書籍 |
三重の中世城館 射和公民館郷土史研究会資料 |
環境 |
櫛田川左岸の中流域で本郷浅間山が櫛田川に向かってセリ落ちている箇所がある。現在でも県道を走らせるのが精一杯の様子で、おおよそ500mに渡って続く。城はその南東端の山側に位置する。 |
現地 |
松阪市御麻生薗町本郷の西光寺裏山、標高80mの斜面にある。 |
40×45mの斜面を切り込んだ平地が丘陵の南にある。井戸が一か所ある。 |
西側には幅約5m、高さ3mの土塁が35mほど続く。 |
東側は玉田池に向かって急斜面である。 |
考察 |
西側を守る土塁は山の斜面に沿って造られ下に行くほど高くなっている。又沿うように道が付けられている。 |
城域の最高部・北側をほぼ東西に複雑な配置で何条か土塁がある。東は玉田池に向かっている。 |
城域は南側に向かって低くなっていき斜面を石垣で補強している。これらは後世に耕作地の確保と補強として行われたのかもしれない。 |
井戸は川石で造られた質の高いものである。 |
感想 |
位置から推定すると櫛田川や間道の関所的な狙いが重要な目的の城ではなかっただろうか。 |
御麻生薗は昔、伊勢神宮で使われる麻糸の原料・麻を栽培していたといわれこの名がある。城もその管理などの関係施設かも知れない。 |
下剋上の戦国期の城は防御性を優先的に造り込んでいるが上山城の造りは他の山城とは異なっている。 |
上山城は山裾にあり山からの攻撃には土塁と空堀で防御しようとしているが飛び道具には意味をなさない。 |
この城は下剋上の戦国期の城、国を守るなどの強い意味ではなく競合相手とか盗賊から身を守る防犯的な意味合いで造られた城ではないだろうか。 |
地図
後述(平成30年7月4日) |
平成30年6月6日 御麻生薗町在住の郷土史家である西田氏に上山城について興味深いお話を伺うことができたのでここにまとめる。 |
志州・鳥羽城の城主は九鬼氏であったが、徳川幕府は九鬼氏を危ぶみ常陸真壁から内藤氏を国替えした。 |
内藤忠重は入封された翌年に御麻生薗城を築城した。これは西田氏の考えだが筆者も加筆すると、この地は鳥羽藩の最西端であり且つ内宮に麻を奉納した大事な領地であり紀州藩から守るために造った城と考える。城の西側だけに堅固な土塁があるのはそのためではないだろうか。(注1) |
鳥羽城入封21年後忠重は死去すると、鳥羽城主は忠政となり上山城を弟、忠吉に任せた。忠吉は5人の家来を伴って御麻生薗城に移り住んだ。 |
御麻生薗の地では更に15人の地元の家来を召し抱え計20人で城を守り、その後忠吉は20年ほどで城主を忠勝に譲って隠居した。 |
忠勝が御麻生薗城城主になって8年目の頃、ご法事役で詰めていた江戸城では4代将軍家綱の法事が芝増上寺で行われることになった。 |
忠勝は同役の長井尚長と勤めを果たさねばならなかったが二人の関係は非常に悪くついに忠勝が尚長に対して刃傷に至ることとなった。 |
増上寺刃傷事件を起こした両家は所領没収となり、忠勝は翌日切腹を仰せつかり内藤家は断絶した。 |
御麻生薗城に住まいした20人ほどの家来の内、多くは御麻生薗出郷(現上区)に移り住んで帰農した。 |
中には赤穂浅野家の家来になった者が数名いた。それは忠勝の姉が浅野家に嫁いでいたからであった。 |
その忠勝の姉の子(甥っ子)が浅野内匠守であり松の廊下刃傷事件を起こすことになる。 |
そして、討ち入りを果たした四十七士のうち美男で名高い岡野金右衛門は内藤家断絶までは御麻生薗に住んでいたがその後浅野家に仕官した岡野五右衛門の孫(27歳)である。 |
志州鳥羽と御麻生薗、そして上山城と江戸幕府、赤穂、増上寺や松の廊下刃傷事件へのつながり等、徳川幕府の体制の一端がこんな田舎からもつながっていることがなんとも言い難い歴史感である。 |
注1 鳥羽藩の最西端
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