定例の多気町郷土資料館だよりが郵便で届いた。毎回ディープな内容が載ってくる。
そして今回は「水辺の景色・櫛田川 渡しの両側」というタイトルの記事が一面に載ってきた。興味津々である。何しろ自分の足元の事柄であるからだ。
貴重な記事と思い引用させていただく。
渡し舟は明治以降、橋がだんだんかけられるようになるまで、川に欠かせないものでした。
海住春彌氏の著作『櫛田川と多気町文芸史』に「中牧と広瀬、四疋田と阿波曾、兄国と中万の間には江戸期すでに舟楫の便があった。その後明治に入って北牧と御麻生薗、相場と庄、荒蒔と射和東端、上朝長と神山麓の間にも渡船が行われていた。」とあります。
、、、、、、大きな木の根元にこれも相当大きな立派な石碑が立っています。
高さ2m50㎝ばかりのどっしりした自然石です。、、、、、碑文を見ようと反対側へ回り込むと、、、、、、特大の「南無阿弥陀仏」、、、、、、、。
この六字名号碑については岡勝三郎さんという地元の方が昭和52年頃に書かれた『庄町郷土史』にありました。
この碑は江戸時代の広瀬の名僧天阿上人が建てた碑。中略
永禄12年(1569)、織田信長は北伊勢に続き南勢の北畠を討つべく久居から松坂方面へ侵攻します。この戦いでは大河内城の籠城が知られていますが南勢の北畠家臣たちとの抗争も各地であったことでしょう。この川辺では「北畠の武士六騎と多数の織田軍が戦い北畠方は全員戦死した所であるが其の後弔ふ人なきため天阿上人が大石碑を建て冥福を祈った」そうです。
舟楫(しゅうしゅう)
川側に回って表面を見ると、南無阿弥陀仏の大きな文字と判読困難な小さい文字が全面に刻まれている。
何故、崖っぷちの櫛田川の方を向いて建っている? 何か不自然な、、、。
思い当たる節は2点ある。① 北畠の武士六騎は織田軍により殺害され最後、櫛田川に投げ捨てられた、という言い伝えが天阿上人に伝わっていた。② この石碑が建立された当時はこの石碑と櫛田川の間に街道があり①を踏まえて通行人の弔いにも考慮した。
かすかな記憶だが数十年前にはこの石碑の前に古道らしきスペースがあったように思う。中学校の3年間は自転車で高校の3年間はバイクでこの石碑の傍の県道を走っていた。しかしそれから約50年程、月日は流れた。
県道は山側の松電の廃止跡にルート変更され、河岸は新規に堤が整備され石碑周辺の景色は趣もなくなり人の目からも遠ざかってしまった。
最近の様子を見ると、いつの間にか岸が削られ河岸が石碑の近くまで迫ってきているのではないだろうか。ややこの先が心配である。
PS 2008年にも同じようなことを書いているが内容が少し異なる。
2008年 神山城の戦い
2016年 大河内城の戦い
さて、どっちがいいんでしょうか?又宿題が出来た!