城名 |
波瀬城 |
読み |
はぜじょう |
住所 |
津市一志町波瀬井之口 |
築城年 |
応永元年(1394) |
廃城年 |
天正5年(1577) 183年間の波瀬城の歴史を閉じた。 |
築城者 |
波瀬左中将正三位雅俊 |
形式 |
山城 |
遺構 |
郭(1~6)、堀切(a~e)、井戸跡 |
規模 |
190m×110m 兵士数・・・・・・・500人 |
城主の家系 |
木造雅俊①(波瀬氏を名乗る) |
雅俊は木造城奪回を失敗し坂内城へ逃れ、坂内氏を名乗る。 |
-②-③-④- |
波瀬具祐⓹(具之)蔵人 天正4年(1576)11月25日田丸で殺害される。 |
波瀬具通内膳正(具祐の弟)天正4年(1576)12月4日多気で殺害される。 |
波瀬雅通⑥(具祐の子)天正4年(1576)波瀬城で戦死。 |
波瀬康親(雅通の子)天正4年(1576)波瀬城で戦死。 |
標高 154m 比高 57m |
歴史 |
応永23年(1416)木造氏が宗家・北畠氏を裏切ったというので木造城を落城させた。 |
しかし、京都にいた木造俊康は足利義持将軍の援けを借りて兵5万を率いて居城を奪回したので、雅俊は坂内城へ退いて坂内氏を名乗る。 |
永禄10年(1567)三竹左京進を討伐した功により六代雅道は北畠氏より2千石を加増されている。 |
天正5年(1577)には織田信長の軍勢に攻められ多数が討死した。寄せ手は火を放ったため雅道・康親父子は火中へおどり出て奮戦した。雅通は敵将瓜生八郎正景を殺し、東口より脱出して波瀬館へきて自害、波瀬城は落城し廃城となった。 |
経緯 |
この波瀬家は北畠一門衆であるが、出自や系譜はかなり不明な点が多い。永禄5年(1562)の赤堀氏との戦いに加勢、出陣して一度敗れている。「赤堀の深きを知らではかなくも あさみをせせる波瀬の御所かな」と嘲笑された。この後、長野軍を援軍として赤堀氏を再度攻めて滅ぼしている。 |
書籍 |
三重の中世城館 |
一族 |
木造氏 |
現地 |
看板から |
中世、北畠氏の一族波瀬家六代(183年)の居城として、町内の数ある城跡の中でも代表的なものである。 |
波瀬の地は、北畠氏の本拠がある美杉村多気に通じる最短の距離にある。 |
北畠氏を支える伊勢平野の物資(一志米)を運ぶ上でまた軍事上の拠点といえる位置に波瀬城は築かれている。 |
城の跡は、南が断崖となった権現山の頂上にあり、北側は傾斜がゆるやかとなる。 |
城の西部は土塁と深い堀切、あるいは空堀をもつ郭が並び、主郭と考えられる南側には元熊野権現の祀がある。 |
この主郭を中心にして東西に続く長い尾根は、南の断崖を防御に生かし、頂上と北の内側を整形し、いろいろな施設を設け、東端は細い尾根を掘り切りそれを限りとしている。 |
1987/4/1 一志町教育委員会 |
城跡には熊野権現の祠があり、城郭や堀切がそのまま残っている。南は高さ約80mの断崖でこの斜面に竹皮をひいて敵兵が登るのを防いだという。 |
環境 |
安濃から多気御所ルートへの入口で砂時計の腰のようにくびれた地形を山上より見下ろしている。 |
地図 |
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