👆 西尾根道分岐 👆 西のピーク(人の手が入った様子無し)
👆 尾根に見つけた堀切の埋まったもの 👆 同かすかな凹部(両方にある)
👆 東のピーク(人の手が入った様子無し) 👆 看板(天竺山!?)
👆 尾根にある切通 👆 登山道入り口にある切通
👈 近くにある「乳母山の神」
👆 朴ノ木砦があると仮定した小片野町にある山(標高298m)
以前から気になっている山があった。松阪市小片野町にあり国道166号線辺りから見て形のいい山である。高からず低からず小片野の平野部とのバランスまでいい。 |
ただそれだけで気になっている訳ではない。この山のふもとには山際遺跡、朴ノ木館跡、花ノ木館跡の歴史を裏付ける名称が残る。 |
また、織田信雄軍と北畠具親軍が朴ノ木砦で戦いを行ったという言い伝えも残る。記録としても近くの鳥羽見峠の戦いは歴然と古文書に残されている。 |
ところが朴ノ木砦は山麓周辺ではその候補地としてもなさそうであるというのが通説のようだ。 |
そこで連想したのがこの山であった。朴ノ木館跡は伝承の石があることで比定されてもよいと考える。 |
館の直近の山には詰城を造るのが妥当な考えである。しかも山城にするのに形のいい山である。 |
この山城を発見するために当初は関係者を巻き込んでと、考えていた。だがあまりに根拠に乏しい内容であることに気が付いた。 |
犠牲者になるかも知れない人数は小さい方がいい。リスクを負って下調べに登ろうと決めた。 |
もし、山城としての証拠になるようなものが見られれば検証のために複数の人を案内すればいい。 |
2017年10月4日 決行 |
国土地理院の地図に登山道として記されているので案外不安感は無かった。 |
ところがその印の根拠はいつの時代のものなのか。現地は荒れていた。途中で道が無くなったのは一度や二度ではなかった。 |
登坂の最中、午後から登り始めたことを後悔した。低い山とはいえ初めての所は念には念を入れるべきだった。朝から登るべきだ。 |
下山はこの道を避けるべきだと決心していた。西か東の尾根道を下ることにしようと考えた。 |
それでもとにかく尾根にたどり着いた。 |
まずは西のピークを観察。ピークはすぐに判明した。目印になるようものは何もない。尾根がほぼ南北に分かれてあった。ここは人の手は入っていないと判断した。 |
東西の尾根を東に向かってもう一つのピークを目指す。 |
途中、堀切のようなものはないかと念入りに探す。 |
一か所それらしきところがあった。深さは浅いが尾根から両方の山腹に向かって切れ込みが少し見られる。ただ堀の真ん中に大木があって深さが埋もれている。 |
これだけでは堀切と判断するのは心もとない。 |
ピークに着く。西のピークより広さは倍ほどある。一部シダで覆われて地表が観察できない部分もあるがこちらも人の手が入っているようには見られない。 |
削平地がない以上は堀切らしいものがあっても山城とは言えない。 |
この地点で山名を表す木製の看板が掲げられているのを見つけた。「天竺山」と解釈していいのだろうか。看板をよく見ると見たことがない漢字であった。竹の下がエになっている。多分「天竺山」でいいのだろう。 |
尾根を観察するために更に東に進むが自然地形が標高を落としていく。その内大き目の切通に出る。そこは峠で道が何本かに分かれていた。 |
後は南側の道を選択して下るだけである。 |
結論;小片野町のこの山は「天竺山」というらしい。 |
山城は無かった。朴ノ木砦はこの山には無かった。 |
TさんやMさんには期待を裏切ってしまって恐縮だ。この穴埋めはいずれどこかできっとしますから今回はご容赦!。 ヤマレコ 山行記録 https://www.yamareco.com/modules/yamareco/detail-1279379.html |
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