けふのうちに
とほくへいってしまふわたくしのいもうとよ
みぞれがふっておもてはへんにあかるいのだ
(あめゆじゅとてちてけんじゃ)
~宮澤賢治 「永訣の朝」より~
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宮澤賢治が26歳の時、1歳年下の妹トシの死を受け、書いた3部作の一つです。
25歳という、あまりに若い年齢での妹の死。
その深い悲しみの淵にありながら、賢治自身の心が悲しみから、やがて
清冽なものに転じていく様子が表現されています。
実はこの詩を、先日思いがけないところで聞きました。
それは、学童に通っている子ども達をいつものようにお迎えに行った
車中でのことでした。
いや、驚いたのは言うまでもありません。鳥肌が立ちました。
わたしの中に、ものすごい衝撃が走りました。
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読んでくれたのは、ある2年生の男の子でした。
彼は、ゲームが大好きです。家でゲームをしてばかりいました。
ご両親もそれでは良くないと、どうにかしなくては、と考えていました。
で、ある時、お父さんが一冊のドリルを買ってきて彼に与えて言いました。
「今日から、ゲームの前にこの本を読むんだ。読んだらゲームしてもいいぞ」と。
その本は、隂山英男氏監修による徹底反復音読プリントという
ものでした。薄いドリルですが、硬軟取り混ぜた名文がたくさん収められて
いるものです。
本を持って、後部座席に座った彼に、「その本なに?」とわたしは訊ねます。
その本を持つに至った経緯をこともなげに語った彼。
わたしも「へぇ~そうなんだ。」とそれほど気にもせずに、「じゃぁさぁ、
今読んでるところを聞かせてよ。」と半ば試し気味に言ってみました。
すると、次の瞬間、彼の口から出てきた言葉が
「永訣の朝 宮澤賢治/けふのうちに/とほくへいってしまふ
わたくしのいもうとよ」 でした。
「あ、知ってるよ、それ」と最初は言って、一緒に冒頭を声を出して
読んだりしていたのですが、彼は最初から最後まで、本を見ながら、
一気に読み終えたのでした。
どうでしょう。小学2年生が「永訣の朝」か…と、言葉を無くしているうちに、
さらにはその詩を淡々と、さらさらと読み上げるのです。
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まずこの文章を特に指定されたのではないのに、彼が自ら選んで
読んでいたことへの衝撃と、おそらく繰り返し練習が積み重ねられて
いるであろうと推測するに十分なくらいのすらすらとした音読ぶり。
この2点がわたしには言葉に代えがたい驚きでした。
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大人であるわたしは、まず音読の課題というと、その意味合いなども
考えてしまうのです。悲しい詩はやめようとか、人の死を題材にした
ものは、まだ小学生には早すぎる・難しすぎるかも知れないなどです。
意味がわからないだろうとか、ヘビーだろうとか。
それは間違っていたのでしょう。間違っていました。
子ども達は、そんなことはお構いなく、きちんとその言葉を通して、
その世界を子ども達なりに受け止め、味わうことも、感じることも
できるのです。
「これは高校生の教科書のレベルだから」なんて思っていましたが、
そもそも、百人一首や、古文も暗誦でやっていながら、近現代の詩を
取り組まない理由がどこにあったというのでしょうか。
音読・暗誦で目指していることは、名文を声に出して読むことで、
日本語の語調を味わい、語感を感じ、楽しむ。そして前頭葉に刺激を
送り、脳を活性化するところにあります。
決して、古文の解釈をしたり、文法がどうのとか、筆者の気持ちや
考えを探るとか、そういう類のことではありません。
一体どこの小学校の1,2年生の教科書に、祇園精舎や徒然草が出てくる
でしょうか。日頃やっていることを棚上げにして、自分の中に勝手に
枠[ワク]を作ってしまっていたのでした。
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小学生と日々関わっていると、大人になった自分の中にはこうした
つまらないワクがどれほどあるのかと気付かされることがあります。
大人が面白いとか、面白くないとか、良いとか悪いとか決めなくとも、
子ども達は自分の目で、自分の感覚で、良いものを選び取る能力を
持っているのです。
今回の「永訣の朝」の衝撃を通して、
・大人の「ワク」或いは「フィルター」を通してから子ども達に与える
ことばかりをしていてはいけない
・もっと子ども達の感性を信じるとともに、子ども達の感性を磨いていくには
どうするか、その方法を考えていくこと
・また、子どもの感性に負けないだけの感性を私自身の中にも持ち続けたい
と思いました。
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それから、もう一つ大事なこと、それは「こんな程度のことだけどさぁ」
なんて思うことでも、お父さんお母さんからしてもらうこと、思ってもらう
ことが、子ども達にどれほど励みになるかということ。
子どもを思う気持ちは、必ずその子ども達に伝わるということ。
なにげなく渡したものかも知れない、ものすごく悩んで選んだものかも知れない、
あるいは一つの賭けだったのかも知れない、お父さんの書店で選んだその一冊の
ドリルを、彼は彼なりに面白がって読んでいる。
彼は学習と思っていないかも知れないし、ゲームのためだからと割り切って
考えているかも知れない。だけど、どんなカタチでも結果が全てを物語って
いるのです。だって、すらすら読んじゃったんですから。
お父さんの賭けは成功でした。
きっかけはどうあれ、軌道に乗ってしまえば、面白がって取り組んでくれるように
なってしまえば、その学習はもうお父さんからのお仕着せものでなく、彼自身の
楽しみになってしまうのです。
それは、お父さんの彼を大切にする気持ちから起こした行為が実を結んでいるという
ことではないでしょうか。
百の言葉を並べるよりも、時にはこうした一つの行動に出る方が、子ども達のために
なるという素敵な例を見た気がします。
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最後になりますが、ここに宮澤賢治の「永訣の朝」全文を掲載しておきます。
上のわたしの文章が大げさだと思ったら、皆さんも一度びっくりたまげながら、
この文を読んでみてください。本当にびっくりたまげます。
その際は、必ず声に出して。お願いします。
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永訣の朝 宮澤賢治
けふのうちに
とほくへいってしまふわたくしのいもうとよ
みぞれがふっておもてはへんにあかるいのだ
(あめゆじゅとてちてけんじゃ)
うすあかくいっさう陰惨〔いんさん〕な雲から
みぞれはびちょびちょふってくる
(あめゆじゅとてちてけんじゃ)
青い蓴菜〔じゅんさい〕のもやうのついた
これらふたつのかけた陶椀〔たうわん〕に
おまへがたべるあめゆきをとらうとして
わたくしはまがったてっぽうだまのやうに
このくらいみぞれのなかに飛びだした
(あめゆじゅとてちてけんじゃ)
蒼鉛〔さうえん〕いろの暗い雲から
みぞれはびちょびちょ沈んでくる
ああとし子
死ぬといふいまごろになって
わたくしをいっしゃうあかるくするために
こんなさっぱりした雪のひとわんを
おまへはわたくしにたのんだのだ
ありがたうわたくしのけなげないもうとよ
わたくしもまっすぐにすすんでいくから
(あめゆじゅとてちてけんじゃ)
はげしいはげしい熱やあえぎのあひだから
おまへはわたくしにたのんだのだ
銀河や太陽、気圏などとよばれたせかいの
そらからおちた雪のさいごのひとわんを……
…ふたきれのみかげせきざいに
みぞれはさびしくたまってゐる
わたくしはそのうへにあぶなくたち
雪と水とのまっしろな二相系〔にさうけい〕をたもち
すきとほるつめたい雫にみちた
このつややかな松のえだから
わたくしのやさしいいもうとの
さいごのたべものをもらっていかう
わたしたちがいっしょにそだってきたあひだ
みなれたちゃわんのこの藍のもやうにも
もうけふおまへはわかれてしまふ
(Ora Orade Shitori egumo)
ほんたうにけふおまへはわかれてしまふ
あああのとざされた病室の
くらいびゃうぶやかやのなかに
やさしくあをじろく燃えてゐる
わたくしのけなげないもうとよ
この雪はどこをえらばうにも
あんまりどこもまっしろなのだ
あんなおそろしいみだれたそらから
このうつくしい雪がきたのだ
(うまれでくるたて
こんどはこたにわりやのごとばかりで
くるしまなあよにうまれてくる)
おまへがたべるこのふたわんのゆきに
わたくしはいまこころからいのる
どうかこれが天上のアイスクリームになって
おまへとみんなとに聖い資糧をもたらすやうに
わたくしのすべてのさいはひをかけてねがふ
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ガンバロウ長岡!!!
ガンバロウ育英!!!
by 川上