井真井のちょっと一言。。

人気国家資格の『井真井アカデミー』
#社労士   #宅建士 #マン管士
#管業主任者 #FP #行政書士 他

ホリエモンの言葉に感銘

2015-04-21 14:59:14 | 日記

昨日、テレビ朝日の「しくじり先生」という番組で久々に堀江貴文氏(ホリエモン)の声を聞いた。

改めて彼の経営者気質に驚かされた。

東北仙台に新たに球団を設立する計画をたてたものの、後から手を挙げた楽天に負け、ニッポン放送の買収に失敗し、衆議院選挙に出馬するも落選し、挙げ句の果てには、旧証券取引法違反によって逮捕されてしまった彼だが、過去の失敗にひるむことなく、これら失敗は「持っていたものを失いゼロになったにすぎず、マイナスになったわけではない。命まで取られるわけではないのだから、人はまた、やり直すことができる」と言い切った。


逮捕によって、彼は刑務所に入り、自己の保有財産すべてを賠償金として支払い、一文無しになった。それでもマイナスではないと言うのだ。

それを裏付けるように、彼は収監中も有料メルマガの発行や書籍の執筆などで年間1億円以上を稼いでいたし、刑の執行を終え出てきてからも、壮大な宇宙ビジネスの夢を追い続けている。マイナスと思えるような事でもチャンスと捉えてビジネスに転じてしまう。

そんな強烈なまでのポジティブシンキングが、彼の魅力であり、周りに人を寄せ付けるに違いない。

どんなに苦手だと思う仕事でも、自分が求めていたものではない仕事であっても、それらに真摯に向き合い、極めていこうと努力する気持ちがあれば、やがてそれは夢中になれる仕事に変えることができると彼は言ったが、正にそのとおりだと思う。

彼の中には常に「挑戦」という二文字がある。
「レールの無いところにレールを敷くこと」に喜びの価値を見いだせる資質は経営者気質の最たるものだと思う。

挑戦なくして成功なし・・・・である。

彼らがもたらしたIT革命は、地球規模を大きく縮小させた。後進国の人達もパソコン1台で私たちが得られるのと同じ情報をリアルタイムで得られるようなった。本当の意味でのグローバル化が進展する中で、貧富の差は地理上の差ではなく、個人能力の差へと変わりつつある。

今、日本経済の一部は外国から訪れる旅行者が支えている。外国旅行者の便をはかるため免税店の申請基準も緩和され、地方の観光都市も彼らの誘致に必死だ。

数年前までは、日本人は「世界の金持ち」ともてはやされ、自分たちも「一億総中流」と思っていたが、このような意識も中国や他のアジアの成長によって薄れつつあるように感じる。

本当の意味でのグローバル化が進む中で自己研鑽に励めない人は、競争社会(日本の中ではなく、全世界が一つの競争社会として形成されつつある)の中で落ちていくのだと思う。

この危機感を常に持ち続けることが、生き抜くために必要なのだと、ホリエモンの言葉を聞きながら思った。

四神+1エケコ

2015-04-21 14:55:49 | 日記

原因不明の病に倒れ、入院を余儀なくされている母のことが
常に気がかりで仕方ないのだが、実はもう一つ、気がかりな事が
ある。それが、写真のエケコの存在だ。

エケコとは南米ボリビア地方に昔から伝わる幸福をもたらす人形
のこと。いわば、日本でいうところのお守りである。


ペルーやアルゼンチンなども、このエケコに欲しいものを背負わせ
自分のところにそのような「幸」を運んできてくれるよう祈る。

数年前にある日本の女性が、それまで全く男性との縁が無かったのに
南米旅行の際に買ってきたエケコにお願いした途端、彼氏ができて
結婚にまで至ったという話を某TV局が取り上げたため、日本でも
エケコブームに火がついた。

そのエケコが、今年の元日、突然、私が通う神社に姿を現した。
それも四社を合祀している霊験あらたかな神聖な場所に
「我こそ神なり」と言わんばかりの態度で、祠をバックに正面
切って両手を挙げて直立していたのだ。

これでは合祀された「四神+1エケコ」に祈ることになる。

八百万神を受け入れる度量の大きい我が国であっても、正月早々、
異国のビニールドール神を受け入れても良いものか???
と思った。

それに、本来、エケコはたくさんの「幸」を背負っているもの
なのだが、目の前のエケコは何一つ背負っていない。

単なるお気楽人形だ・・・。

「幸」を一つも背負っていないので、両手を挙げて立つ姿
は、まるで「降参ポーズ」のようだ。見るからに縁起が悪そう
に映った。

しかし、チキンな私は、その人形を脇に寄せることが、
どうしてもできなかった。そんなことして、祟りでも起きたら
・・・と想像するだけで、身の毛もよだつ。

結局、エケコの事は見て見ぬふりをして、手を合わせてしまった。

さて、翌日、気になったので、もう一度、神社に行ってみると、
誰が置き直したのか、エケコは四社の祠の側面に置かれていた。

両手を広げ、まるで崖から飛び降りるような恰好だ。
この状態が、もう4箇月も続いている(怖)。

私が新年の門出を祝う、めでたい日に「幸」を背負っていない
エケコに手を合わせてしまったことと今回の母の病との間に何か
因果関係があるのではないかと、思い悩む日々である。

いったい、誰がこんなもんを神社に置いたんじゃ!!ボケっ!!