いのりむし文庫

いのりむし斧舎 ⒸNakajima Hisae

 海軍燃料廠 「山の工場」 貯蔵庫跡 (泊山小学校北)

2013-07-29 | よっかいち 人権の礎を訪ねて

戦火を逃れ、開発を逃れて

   海軍燃料廠 「山の工場」 貯蔵庫跡 (泊山小学校北)

20p3021647
手前に見える大きな入り口と、右奥のもう1ヵ所の合わせて2ヵ所

 
 太平洋戦争末期、アメリカ軍の四日市空襲の最大の攻撃目標は、第二海軍燃料廠と周辺の軍需工場でした。
 
 第二海軍燃料廠は、すでに1943(昭和18年)には備蓄原油が枯渇し南方原油も入らないなど操業困難におちいっていましたが、1944年10月から日永の山中に設備の一部が移転されます。原油・製品・装置を疎開させるため、倉庫・住宅・地下工場が建設される計画でした。工場は「山の工場」と呼ばれ、陶製の過酸化水素濃縮装置6基の建設と、ドイツのロケット爆弾の技術情報によるロケット推進燃料が製造される予定でしたが、完成したのは2基のみでした。
 
 空襲を免れた燃料貯蔵庫の入口は、戦後、コンクリートで密閉されました。現在、山の周辺には、密閉された入口が4ヵ所残されており、その内2ヵ所が泊山小学校の北にあります。
 
 戦後の開発で南部丘陵公園や住宅が建設され、景観は激変しましたが、泊山小学校と南部丘陵公園の駐車場、梅林に囲まれたこの一角は、今も戦争の記憶を伝えています。

【参考】
『アメリカ軍が撮影した四日市1945 アメリカ・公文書館所蔵写真より』四日市市立博物館 1996
『三重の戦争遺跡』三重県歴史教育者協議会
「第二海軍燃料廠の地下壕 疎開施設・航空燃料の貯蔵庫」北野保 よっかいち歴史浪漫紀行 

(2009年5月記)


西日野にじ学園の南西側にある2ヵ所
Tyzoukoatohino

Boukuugou20

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 四日市のみなと   | トップ | 移設された諏訪公園の市民壇... »
最新の画像もっと見る

よっかいち 人権の礎を訪ねて」カテゴリの最新記事