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残された奉安殿 ”光雲殿”  (赤堀 誓元寺境内)

2013-09-05 | よっかいち 人権の礎を訪ねて

残された奉安殿
   光雲殿  (赤堀 誓元寺境内)


20p1200512
(2011年3月撮影) 

 誓元寺の納骨堂「光雲殿」は、1935(昭和10)年、常磐尋常高等小学校に建立された奉安殿を、1946年、現在地に移築したものです。老朽化が激しくなった2004(平成16)年に改修がおこなわれましたが、建設後70年以上が経過しているため、2011年7月、国の登録有形文化財【註1】となりました。

 昭和初期の建築物として注目される光雲殿ですが、重要なことは、この建物が奉安殿として建設されたことにあります。それは、大日本帝国憲法下の国民精神教育を象徴するものでした。

 明治から1945(昭和20)年8月15日まで、天皇・皇后の写真が「御真影(ごしんえい)」として特別の意味を持っていた時代に、「教育勅語」と「御真影」を保管する場所として建設されたのが「奉安殿」でした。当初、多くは市町村役場などに保管されていましたが、独立した施設が設置されるようになり、「奉安庫」「奉安所」「奉安殿」と呼ばれました。

 「御真影」(正式には「御写真」)は、天皇の権威を示すものとして、明治維新直後から、府県庁や鎮台などに下付されます。1882(明治15)年以降、学校への下付が始まり、臣民教育に利用されるようになりました。こうした下付は、一方的強制的なものではなく、まず学校から自発的な願い出があることが前提とされていました。しかし、このことが文字通りの意味での「強制ではない」を意味しないことは、言うまでもないでしょう。
 紀元節・天長節・新年の三大節祝賀式、さらに昭和2年以後は明治節を加えた四大節におこなわれる儀式において、「教育勅語」が読み上げられ(「奉読」)、天皇・皇后の「御真影」に最敬礼しなければならなかったのです。

 三重県は1927(昭和2)年、小学校長会議において「御真影奉置」について次のように指示しました。


  
学校に奉載せる御真影は、洵(まこと)に国民精神教育の源泉にして、平素児童生徒訓練の中心を茲(ここ)に求め、学校の内外を挙げて、日夜尊崇(そんすう・そんそう)し奉り、至誠奉公せさるへからさるは言を俟(ま)たさる所なり。従って其の奉置に関しては、校地内清浄なる場所を選ひ、設備鄭重(ていちょう)にして堅牢を旨とし、周囲亦児童をして自ら尊厳の気を感得せしむるの設備あるを要す。各位は常に意を茲に留め、設備の汚損せる場合は直に之を修理し、不備の箇所は之を整ふると共に、日常管理を厳重にして、奉仕懈る所なく、児童生徒をして常に敬虔の至誠を捧けて奉拝せしむる様訓練せられむことを望む。
 「一、 御真影に奉置に関する件」(『四日市市教育百年史』)
                  *()内のふりがなは、引用者

 
四日市でも初めは市役所に保管されていましたが、1927年から40年にかけて市内各地の小学校に奉安庫又は奉安殿が建設されました。建設費は、学区内の有志や奨励会などの寄付で、構造、建築様式はさまざまであったといいます。いずれの学校でも奉安殿の周囲は玉垣や石柵などで囲われ、樹木を植えたり庭石を配置するなどしていました。

 奉安殿に厳重に保管された「御真影」「教育勅語」は、火災や災害はもちろん空襲に際しても、これを守ることが厳しく求められ、「御真影」を守り抜くことを第一とする学校防空実施要項も作成されました。
 文部省の学校防空指針(1943年)によると、被災した場合の報告事項は、①御真影,勅語謄本,勅書謄本の安否,②死傷者,③建物の被害の程度の順となっており【註2】、「御真影」や「教育勅語」が重要視されていたことがわかります。

 1945年、ポツダム宣言が受諾されたことで、連合軍総司令部(GHQ)によって、軍国主義的教育が次々と排除されるようになります。同年10月「教育勅語」の「奉読」の禁止、12月「御真影」の返却、1946年1月「奉安殿」の撤去です。三重県は7月に「御真影奉安殿の撤去に関する件」を発し、取り壊し作業が始まりました。

 こうした中、常磐小学校の奉安殿は、学区内にあった誓元寺境内に移設され、「光雲殿」と命名されて納骨堂となりました。常磐小学校から誓元寺まで1kmに満たない距離ですが、重さ7千貫といわれたコンクリート製の建物をコロ引きで2日かけて移動させたといいます。移設費用には、既に解散していた国防婦人会の残した財産が充てられたということです。
 
 教育勅語は、1945年10月「奉読」が禁止された後、その取り扱いが問題となりますが、1948年6月、教育勅語等排除に関する決議(衆議院)と、教育勅語等の失効確認に関する決議(参議院)により失効が確認されました【註3】。

  *参考 『四日市市教育百年史』

現在は納骨堂である光雲殿の内部
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(2012年1月撮影)

【註1】
 登録有形文化財は、原則として建設後50年を経過した建築物、土木構造物及びその他の工作物の中で、以下の条件に合致するものが対象となります。
(1) 国土の歴史的景観に寄与しているもの
(2) 造形の規範となっているもの
(3) 再現することが容易でないもの
 光雲殿は、「造形の規範となっているもの」として登録され、その様式は、次のように解説されています。
 

  
切石積基壇上に建つ鉄筋コンクリート造平屋建。4隅に柱型を造り出し、正面に切妻破風を飾る持送り庇を突出する。屋根は陸屋根軒を左右に出し、中央をドーム状に造る。外壁はモルタル洗出し。簡明な意匠でまとめられたRC造奉安殿。
(国指定文化財等データベース)


【註2】
「戦時下の京都師範学校の教育 ―1945(昭和20)年における学校長作成文書を資料として―」村上登司文 2011 


【註3】
●教育勅語等排除に関する決議(1948年6月19日衆議院決議)
 民主平和国家として世界史的建設途上にあるわが国の現実は、その精神内容において未だ決定的な民主化を確認するを得ないのは遺憾である。これが徹底に最も緊要なことは教育基本法に則り、教育の革新と振興とをはかることにある。しかるに既に過去の文書となつている教育勅語並びに陸海軍軍人に賜わりたる勅諭その他の教育に関する諸詔勅が、今日もなお国民道徳の指導原理としての性格を持続しているかの如く誤解されるのは、従来の行政上の措置が不十分であつたがためである。
 思うに、これらの詔勅の根本的理念が主権在君並びに神話的国体観に基いている事実は、明かに基本的人権を損い、且つ国際信義に対して疑点を残すもととなる。よつて憲法第九十八条の本旨に従い、ここに衆議院は院議を以て、これらの詔勅を排除し、その指導原理的性格を認めないことを宣言する。政府は直ちにこれらの謄本を回収し、排除の措置を完了すべきである。
 右決議する。

●教育勅語等の失効確認に関する決議(1948年6月19日参議院決議)
 われらは、さきに日本国憲法の人類普遍の原理に則り、教育基本法を制定して、わが国家及びわが民族を中心とする教育の誤りを徹底的に払拭し、真理と平和とを希求する人間を育成する民主主義的教育理念をおごそかに宣明した。その結果として、教育勅語は、軍人に賜はりたる勅諭、戊申詔書、青少年学徒に賜はりたる勅語その他の諸詔勅とともに、既に廃止せられその効力を失つている。
 しかし教育勅語等が、あるいは従来の如き効力を今日なお保有するかの疑いを懐く者あるをおもんばかり、われらはとくに、それらが既に効力を失つている事実を明確にするとともに、政府をして教育勅語その他の諸詔勅の謄本をもれなく回収せしめる。
 われらはここに、教育の真の権威の確立と国民道徳の振興のために、全国民が一致して教育基本法の明示する新教育理念の普及徹底に努力をいたすべきことを期する。
 右決議する。

(2012年2月記 2013年9月加筆)

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