地租を引き下げさせた転換期の農民一揆
地租改正反対農民一揆で焼失した陣屋跡
(中部西小学校)
江戸時代の四日市は、一時(享保年~享和元年の大和郡山藩領)をのぞき、天領(幕府領)でした。初代代官水谷九左衛門光勝は、1603(慶長8)年、現在の中部西小学校辺りに代官所(陣屋)を築き、ここが幕府領支配の拠点でした。
1871(明治4)年度会県出張所、1872(明治5)年には三重県庁、その後県庁が津へ移されたことで1874(明治7)年には県支庁と呼ばれるようになりましたが、1876(明治9)年の地租改正反対農民一揆の際に焼失しました。
この時、唯一残ったクスノキは、1945年の空襲で焼失し、現在小学校の校庭にあるクスノキは、戦後植えられたものといわれています。
明治政府の地租改正では石代納米価が高く設定されました。米価の下落などで打撃を受けた地域の中でも特に負担増となるところで、県の対応に不満が爆発し、明治政府への抗議となって人びとは県境をめざしました。
0~50%も減租となる地域が多かった平野部に比べて、山間部では50%以上の増租となるところもあったのです。四日市では激しい放火・打ちこわしを伴い、攻撃対象は官名義や官と関わりのある建物や書類でした。
住民の多くが参加したこの一揆では、絞首刑一人を含む五万人が処罰されました。四日市(三重・朝明郡内)で、呵責(かせき)以上の処分を受けた者は、7,840人に上ったと言われています。
三重県を中心に愛知・岐阜・奈良の各県へも波及した三重県農民一揆は、明治期では最大規模のものです。茨城県や和歌山県の一揆とともに、政府に大きな衝撃を与え、3%であった地租は、2.5%に引き下げられました。
(2009年5月記)