書評を始めて10年近く経過した。
書評を始めた動機は、読んだ感想を記録する他に、埋もれている良書の存在を知らせたいという動機があった。
いろいろやってみて、気がついたことがある。
書評は、人のためではなく自分のためになるということである。
書評を書く前提で読書することは、本に対する嗅覚が鋭くなり、どうでもいい本、悪書には手を出さなくなることである。
そういう前提での読書なのであるから、
いい本ほど時間をかけて読みたいという欲求がおき、その一方、期待していたわりにたいしたことがない本は、自ずと短い時間で済ませようする発想が生まれ、良書は生涯で数回読み、期待はずれな本は30分程度で見切りをつけるというメリハリの効いた読書習慣が芽生えた。
蔵書の整理が徐々にではあるが進みつつある。
読書を悪い習慣だとは思わないが、価値のない本、いわゆる悪書を読む読書ならやめた方がいいと思う。
世の中には、悪書が溢れている。
新聞や学校などで読書を奨励しているため、我々は、悪書との係わりを完全に排除できない。
著名な人が書いた本だからと言って、安心してはいけない。著名な知識人だという肩書きを利用した、政治的な洗脳を意図した本かもしれない。また、そういう著名な人が書いた本は、新聞の書評欄で紹介されることが多いが、原稿料をもらって書いていることを疑わなくてはならない。とにかく、こういう類の書評は疑ってかかるべきなのだ。ひょっとすると、読むべきでない本を推奨しているかもしれず、本当は有害無益かもしれないのだ。
悪書を悪書だと評価を下す、書評は限られている。
その一方、埋もれた良書が存在する。
書評サイトの意義は、本の価値を、世代を越えて読み継がれるべき本、良書、期待はずれの本、悪書と分類評価することにあると考える。
そして、本の価値を見極めつつ評価を文章化する前提での読書である限り、受身の読書ではなくなる。
そして、評価の過程を通じて、不要な本、残すべき本の分類により、蔵書の再評価が確定、蔵書の整理が着実に進み、どうでもいい本をためこむ愚行をやめることにもつながる。
書評の効用はこの点にあると考えるのである。
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