『夏目漱石を読むという虚栄』第七章予告
(1/12) 知識人批判
第七章でやっと本論に入る。知識人批判だ。
Sは知識人だ。Kもそうだ。勿論、Pも。『こころ』のファンは知識人だろう。日本の知識人は自分の傷を嘗めるようにして『こころ』を読むらしい。
然し眼だけ高くって、外(ほか)が釣り合わないのは手もなく不具(かたわ)です。
(夏目漱石『こころ』「下 先生と遺書」二十五)
これはKに関するSの評言だが、S自身にも当てはまる。むしろ、Sが知識人だものだから、Kをも知識人と思い込んで、お節介を続けていたように解釈できる。こうしたことを作者は隠蔽しつつも暗示してしまっている。隠蔽と暗示の混乱を深遠な思想と勘違いして楽しむのが夏目宗徒だ。
批評は上手だが実作は下手であること。
(『広辞苑』「眼高手低」)
「実作」は文芸に限らない。
だから我々の中(なか)で久米だけは、彼自身の占めている、あるいは占めんとする、文壇的地位に相当な自信を持っていた。そうしてその自信がまた一方では、絶えず眼高手低(がんこうしゅてい)の歎(たん)を抱(いだ)いている我々に、我々自身の自信を呼び起す力としても働いていた。
(芥川龍之介『あの頃の自分の事』一)
知識人は「文壇」などを気にする。気にするのはいいが、気にしていながら「自信」は持っていようと頑張る。だから、混乱してしまう。
芥川の考える「久米」は〈明るい知識人〉だ。「我々」は〈暗い知識人〉だ。
知識人は、知識をひけらかすのが目的で発信する。その知識の高さや広さなどとは関係がない。博士かどうか。博士ちゃんかどうか。そういうこととは、まったく関係がない。世界的に有名な学者でも、専門外のことに口出しして知識人に成り下がるといったことはある。イソップの「狐と葡萄」の狐は知識人だ。『鼻』(芥川)の主人公は知識人だ。『阿Q正伝』(魯迅)の阿Qは知識人だ。
文豪Nがそうであったように、知識人は名声を求めるが、それを得ても安心できない。精神的あるいは思想的に確かな何かを獲得できないでいるからだ。彼らは、勿論、愚かではない。だが、賢くはない。賢そうではある。憐れなことに、平凡ですらない。狂っている。ただし、完全にどこかに行ってしまっているのではない。お夏みたいに鮮やかに狂乱することはできないのだ。
私は知識人を敵視しているのではない。彼らなんか、敵として扱う価値はない。邪魔なだけだ。彼らの主義主張思想信条その他を理由にして批判しているのではない。彼らにそんなものはない。仕入れた情報を整理することができず、混乱している。そのくせ、いや、だからこそ、思想家を気取る。邪魔者。無用者ではない。この世に無用な事物はない。知識人は他山の石となる。人のふり見てわがふり直せ。反面教師。
北朝鮮では、知識人を「動揺階級」(キム・ジュソン『跳べない蛙』第5章)と呼ぶらしい。どういう言動を「動揺」と見做すのか。そんなことは問題ではない。私は定義を述べているだけだ。
日本における知識人の典型は清少納言だ。
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