ヒルネボウ

笑ってもいいかなあ? 笑うしかないとも。
本ブログは、一部の人にとって、愉快な表現が含まれています。

夏目漱石を読むという虚栄』第七章予告 (2/12)循環と逸脱

2024-04-29 00:15:07 | 評論

   『夏目漱石を読むという虚栄』第七章予告

(2/12)循環と逸脱

知識人は解釈を好む。単なる注釈とは違う。注釈の場合、万人が共有すべきであり、真偽を問うべきだ。しかし、解釈は違う。人それぞれだ。解説なども同様で、個人的意見だ。意見を万人が共有することはない。共有できたら、意見は個人的なものではなくなる。

全体を理解するためには部分の精密な理解が、部分を理解するためには全体の理解が、共に不可欠であるという、部分と全体の循環をさす。

(『広辞苑』「解釈学的循環論」)

夏目宗徒は、『こころ』を夏目金之助伝の資料として用いる。だが、伝記と作品は循環しない。

第13話で理事室が映った時に、ゴルフバッグの位置が変わっていたのを知っていますか? これは理事室を掃除した人が移動してしまったのか、忙しい中、ミニョンがゴルフをしたのかのどちらかになりますが、スポーツ万能のミニョンがゴルフをしたと思いたいものです。

(「冬のソナタ」の謎解明委員会『冬ソナの謎』「番外編」)

痘痕も靨。ゴルフバッグの移動について、普通は演出の不備と思うはずだ。しかし、演出の不備ということでは、作品を理解できない。だから、解釈が必要になる。ここには選択肢が二つ挙げられているが、どちらを選ぼうと、どうということはない。マニアの趣味でしかない。ただし、この解釈を推し進めば、〈ミニョンがゴルフをする場面がないのは『冬ソナ』の欠点だ〉ということになる。さらにはこの場面を創作することになる。創作とは循環からの逸脱の事だ。逸脱は自由だ。〈ゴルフバッグが勝手に移動した〉という物語だってありうる。

実は『冬のソナタ』も本来はかなり悲惨な結末を迎える予定だった。なんと、チュンサンは二度目の交通事故の後、ガンで死んでしまうことになっていたのだ。しかしこちらも視聴者の熱心な助命嘆願によってストーリーが変更された。

(韓ドラ・フレンズ『韓国ドラマの謎『冬のソナタ』愛の真実』第3章)

基本的に、作者を個人として特定することはできない。〔1230 作者と作品と語り手〕参照。夏目漱石を読むという虚栄 1230 - ヒルネボウ (goo.ne.jp)著作権は便宜的な権利だ。作品を完成させるのは、良くも悪くも受け手なのだ。

確かに、ユジンとの結婚のことで、やたらと母親に相談したり、ときにはおべっかを使ったりもしているサンヒョクは、マザコンっぽく見えても仕方がない。母親の両肩を撫でるシーンなどを見るにつけ、つい「あぁ~情けない」と言いたくなる女性たちの気持ちもよくわかる。

しかし韓国では、母親と息子の絆がとてつもなく強い。長男であればなおさらだ。家を継ぐのは絶対的に長男の役目であり、少々極端に言えば女性も男の子を産むために結婚するようなもの。嫁は長男を産んでやっと家族の一員になれるという。そうでなくても、一人息子の男の子が母親にとって可愛くないわけがない。

(深海さなえ&チュンチョン純愛研究所『ポラリス的『冬のソナタ』バイブル』「第3章『冬ソナ』キャラクター徹底解剖」)

竜頭蛇尾。サンヒョクの性格論が、韓国一般の母親論に流れている。解釈と創作がごっちゃになっている。解釈としては不十分で、創作にはまるでなっていない。知識人のスタイルは、このように中途半端だ。

彼は精神的自立のためにユジンとの結婚に賭けた。冬彦さんの結婚と同様だ。〔5213 冬彦さん〕夏目漱石を読むという虚栄 5210 - ヒルネボウ (goo.ne.jp)参照。

しかも、サンヒョクは、テニス・ボールだった。〔6541 テニス・ボール〕夏目漱石を読むという虚栄 6540 「他人の生活に似た自分の昔」 - ヒルネボウ (goo.ne.jp)参照。

ジヌ「うむ……。そう言えば、ヒョンスの命日がもうすぐだな」

サンヒョク「ユジンのお父さん?」

ジヌ「サンヒョク、おまえも一緒に行くか?」

サンヒョク「うん」

チヨン「あなた。何回目の命日だと思ってるの? 実の兄弟だって、そこまではしないわ」

ジヌ「おまえ」

サンヒョク「うわあ、唐あげ、ほんとにおいしい。母さん、いつの間に料理の腕が上がったの?」

チヨン「この子ったら、手で食べちゃだめじゃないの。こら」

サンヒョク「父さん! 父さんも食べてみて」

(キム・ウニ/ユン・ウンギョン『冬のソナタ 完全版1』「第1話 出会い」)

サンヒョクは両親の間に横たわる蟠りを察して、道化を演じていた。マザコンが韓国の文化だとしても、サンヒョクには別の事情があったのだ。ただし、この時点では、ジヌの秘密をサンヒョクは知らない。知らないで感じているだけだから困っていたのだ。

ジヌとミヒとヒョンスの三角関係は、サンヒョクとユジンとチュンサンの三角関係の原典だ。

こういうのが私の解釈。

窓越しにサンヒョク一家の幸せそうな様子が見える。

暗い路地に立って、その様子を見守っているジュンサン。

(キム・ウニ/ユン・ウンギョン『冬のソナタ 完全版1』「第1話 出会い」)

チュンサンは「幸せそうな様子」を本当の幸せと誤解した。もし、彼が「幸せそうな様子」を白々しい芝居と察したら、物語は全く違った展開になっていたはずだ。

話は変わる。

「(ミニョンに向かって)こんなこと言いたくなかったんだけど、ユジンてね、なんでも私の真似をするの。昔からなんだけど、私が靴を買うと翌日同じのを履いてたり、私の服をけなしておいて同じのを買ったりとか……。男の子だって、同じ子を好きになるんだから」(第5話)

つまるところ、「ユジンは何でも私の真似をするから、あなたは騙されたりしないでね」と言おうとしているのだ。それならそうとはっきり言えばいいではないか。だがあえて遠回しに表現することがチェリンの狙いなのだ。相手を傷付けず、かつ自分をイイ女に見せるための手段。さらに彼女の場合、ご丁寧に嘘までついてしまう。

こうした婉曲話法は女が得意とするコミュニケーション術だが、残念ながら男には通用しない。

(深海さなえ&チュンチョン純愛研究所『ポラリス的『冬のソナタ』バイブル』「第4章 『冬ソナ』さらにディープに『冬ソナ』世界」)

「男には通用しない」なんてことはない。「こうした婉曲話法は」男が男を誑すときに「得意とするコミュニケーション術」でもある。

この問答は私に取って頗(すこぶ)る不得要領のものであったが、私はその時底まで押さずに帰ってしまった。しかもそれから四日と経(た)たないうちに又先生を先生を訪問した。先生は座敷へ(ママ)出るや否や笑い出した。

(夏目漱石『こころ』「上 先生と私」七)

なぜ、笑う? 

Sの発言や文章は、曖昧だ。読んでいて、いらいらする。Sは嫌な男だ。そんなふうに想像しない人は、私にとって嫌な人だ。

〔1431 小林秀雄夏目漱石を読むという虚栄 1430 - ヒルネボウ (goo.ne.jp)〕・〔3332 言外の意味夏目漱石を読むという虚栄 3330 - ヒルネボウ (goo.ne.jp)〕・〔3352 『猫の皿』夏目漱石を読むという虚栄 3350 - ヒルネボウ (goo.ne.jp)〕・〔4441 「思想とか意見とかいうもの」夏目漱石を読むという虚栄  4440 - ヒルネボウ (goo.ne.jp)〕参照。

チェリンが怪しいように、Sも怪しい。怪しいチェリンは、彼女の「話法」によって失敗する。怪しいSも同様だ。

Sの「曖昧な返事」(下五十四)は、異性の静には無効だったらしい。

(2/12終)


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする