ヒルネボウ

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夏目漱石を読むという虚栄 7410 『岩宿の発見』と『センス・オブ・ワンダー』

2025-01-06 23:54:01 | 評論

夏目漱石を読むという虚栄

7000 「貧弱な思想家」

7400 不通が普通

7410 『岩宿の発見』と『センス・オブ・ワンダー』

7411 暗い知識人

 

知識人には、善人もいれば悪人もいる。

<戦後も二年目になって、ようやく地方の知識人が首唱する郷土史研究会のつどいが各地でもたれるようになった。みんなまじめな同好者ばかりが相寄り、おたがいに知識を広め、遺物の発見に着目し、なかには収集熱にうかされるものもでてきた。

(相沢忠洋『岩宿の発見 幻の旧石器を求めて』「第三部 岩宿発掘」)>

 

「まじめな同好者」が変身する。

 

<珍品をあさって収集意欲を満たすには、まがりなりにも収集品の特質を知っていなければならず、ある意味では物識(し)りである必要があった。そして、人より珍品を多く持ちたいということになってしまうのだった。しかもそれが何時代にかぎるなどの区別もいらない、なんでも珍しくさえあれば満足なのであった。

そうなると、珍品ほしさのあまり、つい手がでるというのか、古墳の盗掘がはじまった。

収集者にとっては、なんといっても古墳の出土品に魅力があった。埴輪(はにわ)にしても同じだった。

(相沢忠洋『岩宿の発見 幻の旧石器を求めて』「第三部 岩宿発掘」)>

 

「知識人」は乱れやすい。

 

<さらにこの珍品あさりから、偽造物をつくり、それを売りつけるということもさかんになった。いわゆる“藤岡もの”といわれたそれにいたっては、わざわざ古墳周辺の土中に埋め、それを農民に掘らせてホンモノと見せかけて、高く売りつけていたという。まことにふとどき千万なことが横行したのであった。

(相沢忠洋『岩宿の発見 幻の旧石器を求めて』「第三部 岩宿発掘」)>

 

明るい知識人である好事家が、宝探し、盗掘、偽造、偽装へ落ちる。宝探しがいけないのか。そうではない。宝探しは偽造をしない。偽造と複製は言葉の違いでしかない。むしろ研究に不可欠だろう。偽装は想像の一種だ。犯罪者にも趣味がある。良くも悪くも逸脱しない。ところが、「知識人」は逸脱する。歯止めになるような何かが欠けているからだ。

 

<要するに私は正直な路(みち)を歩く積りで、つい足を滑らした馬鹿(ばか)ものでした。もしくは狡猾(こうかつ)な男でした。

(夏目漱石『こころ』「下 先生と遺書」四十七)>

 

この前に語られていることのどれが「正直な路(みち)」なのか、不明。だから、「足を滑らした」ことも「狡猾(こうかつ)」も、その内実は不明。

 

7000 「貧弱な思想家」

7400 不通が普通

7410 『岩宿の発見』と『センス・オブ・ワンダー』

7412 ゴッド・ハンド

 

知識人に欠けている何かを、知識で補うことはできない。〈遺物は商品ではない〉という知識によって知識人の「ふとどき」を抑制することはできない。

〈ゴッド・ハンド〉と呼ばれる知識人がいた。彼は本物の遺物を埋めて発見者を気取った。彼に騙され、日本の考古学者たちは大恥を掻いた。彼の〈発見〉は素人が考えても変だったのに、学者は騙された。素人には欠けていない何かが、学者には欠けていたのだ。

その何かを何と呼ぼう。Pの言葉だと、「直感」(上六)あるいは「直覚」(上六)だろう。〔3131 「直感」とか「直覚」とか〕参照。夏目漱石を読むという虚栄 3130 - ヒルネボウ

 

<丘陵地の畑道を歩きつづけているうちに、山と山とのすそが迫っている間のせまい切り通しにさしかかった。両側が二メートルほどの崖となり赤土の肌があらわれていた。そのなかばくずれかかった崖(がけ)の断面に、ふと私は吸いよせられた。

そこに小さな石片が顔を出しているのに気づいたからであった。

(相沢忠洋『岩宿の発見 幻の旧石器を求めて』「第二部 赤土の誘惑」)>

 

「ふと」は重要。〔1350 不図系〕参照。夏目漱石を読むという虚栄 1350 - ヒルネボウ

Pは「直感」に促されるようにしてSに接近する。

同様に、相沢も、その「小さな石片」に接近する。

 

<その形はすすきの葉をきったように両側がカミソリの刃のように鋭かった。

私には、それがどれほどのものかはわからなかったが、その鋭さのなかに、人間の歴史のもたらす跡のようなものを感じとらないわけにはいかなかった。ひょっとしたら、いま自分が立っている大地の赤土の下に、黎明期の祖先の生活の跡があると思うと、まったくふしぎな気がしてくるのだった。

(相沢忠洋『岩宿の発見 幻の旧石器を求めて』「第二部 赤土の誘惑」)>

 

相沢は「小さな石片」が天然ではなく人工だと直感する。そして、「ひょっとしたら“細石器(さいせっき)”とよばれているものではないか」(同)と思う。だが、すぐに自分の直感を疑う。

 

<細石器というものはそれまでの日本ではまだあるかどうか不明であり、またそれは、より古い黎明期に栄えていた文化を物語るものだったのである。

(相沢忠洋『岩宿の発見 幻の旧石器を求めて』「第二部 赤土の誘惑」)>

 

相沢は直感を信じず、定説も信じず、かといって体験を忘れることもなかった。文献を渉猟し、研究を始める。そして、岩宿遺跡を発見することになる。

PはSを「研究する気」(上七)にならない。〔3332 言外の意味〕参照。夏目漱石を読むという虚栄 3330 - ヒルネボウ 研究していたら、Sの自殺を止められたかもしれない。ただし、「研究」は夏目語で、〈粗探し〉みたいな意味があるのかもしれない。

 

7000 「貧弱な思想家」

7400 不通が普通

7410 『岩宿の発見』と『センス・オブ・ワンダー』

7413 印象の正当化

 

青年Sは、叔父一家に対する違和感を解明できなかった。

 

<ただ何かの機会に不図変に思い出したのです。すると妙なのは、叔父ばかりではないのです。叔母も妙なのです。従妹も妙なのです。

(夏目漱石『こころ』「下 先生と遺書」七)>

 

青年Sは、「変」とか「妙」といった感じについて、叔父一家と話し合わなかったらしい。独りで悶々としていたようだ。〔1350 不図系〕参照。

やがて、彼は、叔父一家に対する不図系の印象を正当化するために、〈「先祖から譲られた迷信の塊」(下七)の物語〉を捏造する。〔4422 「迷信の塊」〕参照。

 

<もし、八月の朝、海辺に渡ってきたイソシギを見た子どもが、鳥の渡りについてすこしでも不思議に思ってわたしになにか質問をしてきたとしたら、その子が単に、イソシギとチドリの区別ができるということより、わたしにとってどれほどうれしいことかわかりません。

(レイチェル・カーソン『センス・オブ・ワンダー』)>

 

明るい知識人は「イソシギとチドリの区別ができる」というだけで満足し、「不思議」という印象を忘れてしまう。〔3223 「一人の西洋人を伴(つ)れて」〕参照。夏目漱石を読むという虚栄 3220 - ヒルネボウ

暗い知識人は「不思議」とか「妙」という感じを知識によって正当化しようとあがく。

 

<もしもわたしが、すべての子どもの成長を見守る善良な妖精に話しかける力をもっているとしたら、世界中の子どもたちに、生涯消えることのない「センス・オブ・ワンダー=神秘さや不思議さに目を見はる感性」を授けてほしいとたのむでしょう。

この感性は、やがて大人になるとやってくる倦怠と幻滅、わたしたちが自然という力の源泉から遠ざかること、つまらない人工的なものに夢中になることなどに対する、変わらぬ解毒剤となるのです。

 

妖精の力にたよらないで、生まれつきそなわっている子どもの「センス・オブ・ワンダー」をいつも新鮮にたもちつづけるためには、わたしたちが住んでいる世界のよろこび、感激、神秘などを子どもといっしょに再発見し、感動を分かち合ってくれる大人が、すくなくともひとり、そばにいる必要があります。

(レイチェル・カーソン『センス・オブ・ワンダー』)>

 

〈自分は「妖精」を見た。その声を聞いた。その力によって動かされた〉などといった体験をしたことのない宗教家は知識人だ。知識人にとって「妖精の力」は「イソシギとチドリの区別」と同様、知識でしかない。彼は妄想家ではない。ただの嘘つきだ。

(7410終)


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