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夏目漱石を読むという虚栄 2240

2021-03-20 23:09:31 | 評論

   夏目漱石を読むという虚栄

2000 不純な「矛盾な人間」

2200 不自然な「自然」

2240 「私の自然」

2241 「平生」と「自然」

 

『こころ』は、人間関係に対するNの混乱した想念を露呈した模擬作品だ。

語り手たちは論理的に語ることができない。だから、当然、倫理的な話はできない。

 

<Kに詫まることの出来ない私は、こうして奥さんと御嬢さんに詫(わ)びなければいられなくなったのだと思って下さい。つまり私の自然が平生の私を出し抜いてふらふらと懺悔(ざんげ)の口を開(ひら)かしたのです。

(夏目漱石『こころ』「下 先生と遺書」四十九)>

 

このとき、Kは死んでいる。だが、Kの霊に対して「詫(わ)び」ることはできるかもしれない。この前に「詫(あや)まり」(下四十九)とあるから、「詫(わ)び」という言葉が新たに出てくるのは、変。意味が違うとしたら、どのように違うのだろう。単なる言葉のおしゃれだろうか。「詫(わ)びなければいられなくなった」は〈「詫(わ)びなければ」なら「なくなった」〉と〈「詫(わ)びな」いでは「いられなくなった」〉の、例によって義務と欲求の混交だ。非常に読みづらい。〈静母子がKの代理になる〉という考えは不可解だが、隠蔽された主題のかすかな露呈だろう。

「つまり」は不適当。この「自然」は〈狂気〉だろう。「私の自然」と並べるのなら、〈「私」の「平生」〉とすべきだ。〈「自然」対「平生」〉という前提があるらしいが、不可解。「ふらふらと」の被修飾語が「開かした」では、「私の自然」が「ふらふらと」していることになる。したがって、「ふらふらと懺悔(ざんげ)の口を開(ひら)かした」は、〈私が「ふらふらと懺悔(ざんげ)の口を」開くように仕向けた〉などが適当。「と思って下さい」と言われても、思いようがない。難問の解決を丸投げされたPの反応を想像することも、私には無理。ひどい悪文。

青年Pは、〈「先生」という言葉は「私の口癖だ」〉と言った。「口癖」は「平生」だろう。一方、語り手Pは、〈「先生」という言葉は「私に取って自然だ」〉と書く。「先生」のP的含意は、「平生(へいぜい)」から「自然」へと変化したらしい。この変化をもたらした出来事を、私は特定できない。だから、語り手Pの用いる「先生」の含意は推理できない。

ただし、Sにとって「平生(へいぜい)」と「自然」が対立するものでも、Pにとっては対立しないのかもしれない。そうだとすると、「自然」に関するSの考えをPは「受け入れる事の出来ない人」なのかもしれない。Pの「自然」観はSの「自然」観を超えているのかもしれない。そして、作者は、Sの「自然」観を批判しているのかもしれない。

 

<大きな自然は、彼女の小さな自然から出た行為を、遠慮なく蹂躙(じゅうりん)した。

(夏目漱石『明暗』百四十七)>

 

「則天去私」に絡めた言葉遊びをすると、「大きな自然」が「天」で、「小さな自然」が「私」だろう。「大きな自然」は〈先天的素質〉で、「小さな自然」は〈後天的習性〉か。逆説である〈氏より育ち〉とは反対のことが起きたか。だったら、普通だよ。語り手は「彼女」の本性を隠蔽している。あるいは、自然の声によって、小便が「出た」後、大便が出たか。

「大きな自然」について、Nは何を知っているつもりだったのか。不明。

 

2000 不純な「矛盾な人間」

2200 不自然な「自然」

2240 「私の自然」

2242 意志系

 

「自然」は夏目語だろう。ほとんどの場合、私にはその意味が推定できない。

 

<自然の児(じ)になろうか、又意志の人になろうかと代助は迷った。彼は彼の主義として、弾力性のない硬(こわ)張(ば)った方針の下に、寒暑にさえすぐ反応を呈する自己を、器械の様に束縛するの愚(ぐ)を忌(い)んだ。同時に彼は、彼の生活が、一大断案を受くべき危機に達して居る事を切に自覚した。

(夏目漱石『それから』十四)>

 

「自然の児(じ)」も「意志の人」も意味不明。だから、「迷った」も意味不明。「自然の児(じ)になろう」と考えるのは「意志の人」だろう。違うのか。何が何だか、さっぱりわからない。意志系の言葉も夏目語だろう。「馬鹿気た意地」などと同じで、マイナスの価値がありそう。

「彼の主義」は、私には総括できない。そんなものはなくて、〈自分には「主義」がある〉と勘違いしてしまった代助に対する語り手の皮肉の表現のように思えるが、よくわからない。「寒暑」に心身が「すぐ反応を呈する」のは健康だろう。あるいは、アレルギーか。「自己」は意味不明。「主義」には〈自縄自縛〉という含意があるのかもしれない。皮肉のようで、皮肉ではなく、実は矛盾であり、つまり、無意味か。「器械の様に束縛する」は意味不明。だから、「愚(ぐ)」かどうか、不明。この一文は、私にはさっぱりわからない。

「同時に」は不可解。「断案を受く」は意味不明。「断案」は〈弾劾〉の誤りか。

 

<女は前後の関係から、思慮分別の許す限り、全身を挙げて其所(そこ)へ(ママ)拘泥(こだわ)らなければならなかった。それが彼女の自然であった。然し不幸な事に、自然全体は彼女よりも大きかった。彼女の遥(はる)か上にも続いていた。公平な光りを放って、可憐(かれん)な彼女を殺そうとしてさえ憚(はば)からなかった。

(夏目漱石『明暗』百四十七)>

 

「前後の関係」や「其所(そこ)」が何なのか、私にはわからない。ソ系語の濫用。

「それ」は、〈「其所(そこ)へ拘泥(こだわ)らなければならなかった」ということ〉だろうが、「其所(そこ)」が不可解なので、この文は意味不明。

「然し」は不可解。「自然全体」は「大きな自然」と同じか。

 

<このあたりの叙述は「明暗」執筆中の漱石の思想を考える上で重要である。それは「道草」(本全集第八巻所収)第五十七章の「金の力で支配できない真に偉大なもの」とも関係する。

(「夏目漱石全集9『明暗』」(ちくま文庫)注)>

 

「可憐(かれん)」は意味不明。「いじらしいこと。かわいらしいこと」(『広辞苑』「可憐」)のどちらのようでもない。「彼女」はお延だが、ちょっと美人のようで、そうでもない。性格は悪い。

 

 

2000 不純な「矛盾な人間」

2200 不自然な「自然」

2240 「私の自然」

2243 自然派と写生文

 

夏目語の「自然」は〈自然主義〉の〈自然〉とは違うようだ。

 

<実をいうと自分は自然派の作家でもなければ象徴派の作家でもない。近頃しばしば耳にするネオ浪漫(ローマン)派(は)の作家では猶(なお)更(さら)ない。自分はこれ等(ら)の主義を高く標榜(ひょうぼう)して路傍の人の注意を惹(ひ)く程に、自分の作物が固定した色に染附けられているという自信を持ち得ぬものである。又そんな自信を不必要とするものである。ただ自分は自分であるという信念を持っている。

(夏目漱石『彼岸過迄(まで)に就て(ママ)』)>

 

Nは、〈自分はどういうタイプの作家のつもりでいるか〉という問題と、〈自分はどういうタイプの作家として見られたいか〉という問題を、わざと混同して語っている。

「固定した色に染附けられているという自信」は、言うまでもなく、皮肉だ。皮肉を裏返すと、別種の「自信」つまり「信念」が露見する。だが、皮肉を抜きにして、Nは何かを確かに語りうるのだろうか。無理だろう。

Nが否定のために担ぎ出した「自然派の作家」とは、「自然主義の立場に立つ作家」(『日本国語大辞典』「自然派」)だが、「実をいうと」彼らの正体は不明だ。

 

<文学で、理想化を行わず、醜悪・瑣末なものを忌まず、現実をただあるがままに写しとることを目標とする立場。

(『広辞苑』「自然主義」)>

 

「あるがままに写しとること」が気になる。

 

<写生文家のかいたものには何となくゆとりがある。逼(せま)っておらん。屈托(くったく)気(げ)が少ない。したがって読んで暢(の)び暢びした気がする。

(夏目漱石『写生文』)>

 

自然主義と写生派の態度は、正反対のようだ。

 

<自然主義は各国の小説、戯曲にもみられるが、日本では、1890年ごろゾラの理論が紹介され、島崎藤村の《破戒》(1906年)が自然主義作品と呼ばれた。田山花袋や《早稲田文学》の作家らがこれに続いたが、自己の内面をありのままに告白することに主眼が置かれた点に特色がある。これは西欧語の〈nature〉と日本語の〈自然〉との本来的な意味のずれによるものとも考えられる。

(『百科事典マイペディア』「自然主義」)>

 

「本来的な意味のずれ」があるのなら、きちんと考えることはできない。

(2240終)

 


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