夏目漱石を読むという虚栄
3000 窮屈な「貧弱な思想家」
3400 「自由と独立と己れ」の交錯する「現代」
3410 「自由」について
3411 自由・平等・博愛
「自由と独立と己れとに充(み)ちた現代に生れた」という意味不明のスローガンめいた文があたかも英知の表現のように流通する社会に生きている「我々はその犠牲(ぎせい)としてみんなこの淋しみを味わわなくてはならないでしょう」ね。
<しかしこのスローガンは、その性質からして二つの重要な問題点をもっている。第一にそれは、大衆の理性や合理的な認識よりも情緒や感性に訴える傾向があり、往々にして大衆の非合理性を社会的に増大させる結果になることが多い。第二にそれは、真理を問題にするよりも真理を隠蔽(いんぺい)してしまう傾向をもち、虚偽なるものを絶対視する結果を招来しかねない。
(『日本大百科全書(ニッポニカ)』「スローガン」矢澤修次郎)>
「大衆」は〈軽薄才子〉が適当。話題になっている事柄に対して無知な人、関心がない人、「本当の馬鹿」の場合、スローガンに踊らされることはない。
ほとんどの人は、何かの専門家だ。学問の専門家だったり、家事の専門家だったり、自分のペットの専門家だったりする。プロとして稼げなくても有能だ。ただし、専門外の事柄に関しては無知無能であることが多い。つまり、万能の天才以外、誰もが「大衆」なのだ。
「大衆」には二種ある。専門外の事柄に関するスローガンに接したとき、わかったふりをしがちな人と、わかったふりをしない人。前者が軽薄才子だ。ただし、わかったつもりになってしまうのは不可避だ。優秀でも勘違いすることはある。
ちなみに、〈衆愚政治〉の〈愚〉とは軽薄才子のことだ。「本当の馬鹿」ではない。
「覚悟」宣言はスローガンのようなものであり、それに確かな意味があるように思ってしまう人は軽薄才子だろう。ただし、Nと霊界通信ができる人は別。
「自由」と「独立」について、Sは肯定と否定の両方の価値で使用している。「己れ」は処置なし。この三つの語は並立するものではないのかもしれない。「己れ」は「自由」や「独立」の類義語の上に位置する概念のようだ。たとえば、〈犬〉や〈猫〉の上位に〈愛玩動物〉が位置するような仕掛けになっているのかもしれない。よくわからない。
「自由」から始まる有名なスローガンがある。
<近代民主主義の価値理念を表現したものといわれている。特にこのなかの博愛の意味についてはさまざまな解釈が行われてきた。端的に「人類愛」を意味するという説と、革命によって特権階級を打倒して不可分一体となった「国民」そのものをさすとする説がある。
(『ブリタニカ国際大百科』「自由、平等、博愛」)>
この「平等」に対応するのが「独立」かもしれない。つまり、〈誰も彼もが強いられている孤立〉といった感じだ。そして、意味の確定していない「博愛」に対応するのが「己れ」かもしれない。「己れ」は、愛する主体ではなく、愛される客体だ。被愛願望。
3000 窮屈な「貧弱な思想家」
3400 「自由と独立と己れ」の交錯する「現代」
3410 「自由」について
3412 人間は自由か
〈自由〉とは何か。
<以後、現代にいたるまで、人間の行為において自由意志は一層重要な位置を与えられながらも、一方で無条件に外的な状況や強制から自由な自律性を認めることには困難があることが自覚されており、実存主義の立場はそれに対する一つの解決でもある。
(『ブリタニカ国際大百科事典』「自由」)>
「実存主義」を調べるか?
<人間の選択は、どのような形にせよ説明できるものではないと実存主義者は主張して、科学的唯物論を否定する。
(『ブリタニカ国際大百科事典』「実存主義」)>
次は「科学的唯物論」か。
<19世紀後半ヘーゲル左派より出たマルクスやエンゲルスはこれらの唯物論が科学的成果に立っていることを評価しながらも、それらが虚妄な哲学的世界像を含んでいることを批判し、より科学的な弁証法的唯物論を提唱し、これが今日の哲学界では唯物論の最も大きなものとされている。
(『ブリタニカ国際大百科事典』「唯物論」)>
もうちょっと。
<この認識論としての弁証法的唯物論を人間社会の歴史に即して考えたものが史的唯物論といわれる。
(『ブリタニカ国際大百科事典』「弁証法的唯物論」)>
まだかよ。
<社会の一般的発展法則に関する科学として、マルクス‐レーニン主義の構成部分の一つである史的唯物論は、他のマルクス主義の理論と同様に、永遠不変の図式ではなく生きた行動の指針として生れたものであり、したがってそれは常に実践的活動とその成果を一般化し、公式化することによって創造的に発展していこうとする社会生活の認識方法であるといわれる。
(『ブリタニカ国際大百科事典』「史的唯物論」)>
おしまい。
3000 窮屈な「貧弱な思想家」
3400 「自由と独立と己れ」の交錯する「現代」
3410 「自由」について
3413 「自他の区別を忘れて」
Sの「自由」は、普通の意味で用いられていないはずだ。
<「行動の自由」は事実上の自由の問題であり、哲学的にはさほど難問を含まない。これは外的拘束に対立する意味での強制からの自由〔羅〕libertas a coactione であり、自由意志を否定する決定論と両立しうる。
(『現代哲学事典』「自由」市川浩)>
Sは自身にとっての「外的拘束」について語っていない。
<「自己に覚めよ」と近代人は云(い)ふ。而(しか)して彼等は自己に覚めて何を発見せしやと問ふに、自己の価値ある事、自己に権利ある事、自己の自由なる事、無限に発展して宇宙を我有(わがもの)とするの資格ある事を発見したりと答ふ。
(内村鑑三『近代人と基督信者』)>
「自己に覚めよ」は意味不明。この「近代人」と「現代に生れた我々」は同じか。
<その頃は覚醒(かくせい)とか新ら(ママ)しい生活とかいう文字(もんじ)のまだない時分でした。
(夏目漱石『こころ』「下 先生の遺書」四十三)>
「その頃」は、SとKの学生時代。「覚醒(かくせい)」は、初出では「自覚」だった。改めた理由は不明。「文字(もんじ)」は〈流行語〉みたいな意味だろうが、「覚醒(かくせい)」や「新らしい生活」の出典は確認できない。「漱石全集」第九巻註解参照。この「時代」は「現代」だろうか。不明。
<そこで前申した通り自分が好いと思った事、好きな事、自分と性の合う事、幸にそこに打(ぶ)つかって自分の個性を発展させて行くうちには、自他の区別を忘れて、どうかあいつもおれの仲間に引き摺り込んで遣(や)ろうという気になる。その時権力があると前いった兄弟のような変な関係が出来上るし、また金力があると、それを振り蒔(ママ)いて、他(ひと)を自分のようなものに仕立上げようとする。すなわち金を誘惑の道具として、その誘惑の力で他を自分の気にいるように変化させようとする。どっちにしても非常な危険が起るのです。
(夏目漱石『私の個人主義』)>
SとKは「兄弟のような変な関係」になっていた。Sは、こうした「関係」から脱するために「月々の費用」(下二十三)を負担し、Kを「自分のようなものに仕立上げよう」とした。その結果、「非常な危険が起る」ことになった。ただし、この二種の争いは「自分達の心付かない暗闘」(『行人』「友達」二十七)としてさえ表現されていない。『こころ』の作者は何をしているのだろう。
「自由」とは「自他の区別を忘れて」他を束縛してしまうことか。自己同一視か。
(3410終)